劇団 誑・曝(たぶら・さら)の憂鬱

ラブテスター

恋・酒・青春

 下から見上げる男は、まるで綱渡りをしているように思えた。

 綱の上でバランスをとるために、自分の背丈よりも長いながい竿を両手でげているかのように、私には見えた。

 その一歩一歩で、かれの世界は軋む。ぎし、ぎし、踏みこむだけ沈みこみ、踏みこみ切れば押し返される。それをかず、たゆまず、かれは繰り返す。

 かれの表情筋は神妙に強張こわばりかけている。しかし強張らないよう、かれは意識して緊張を逃している。収縮と弛緩のあいだで、かれの目と口は、パレットナイフでキャンバスを裂いて完成する絵画のように、おさえ込まれた意味がほの香る、すこし有機的にひだめくれた一文字の傷口としてうすく開いていた。

 かれは自分の渡る綱を見ている。足下に踏みしめている綱を見ているはずなのに、かれは他の男たちのようにそれを見下ろす感情をふしぎに覗かせず、今はもうすぐ終わる綱がどこまでも、いつまでも延びるかのように、地平を見果てるような視線を投げかけており、あまり経験にないその珍しさは好感をいだかせるものだった。


 かれが、バランスをとるための竿を振りすぎて姿勢を崩しかけることがあった。綱渡りにもちいる竿は長いものだけれど、かれはどうにも長すぎる竿を選んでいるように思えた。

 かれは高いところの風に吹かれていた。かれは挑戦し、挑戦をかさね、その高さに至っていたけれど、そこは彼がのぞんだ高さであったはずだけれど、かれはそれほどの高さでよく戦っておりまったく打ち負かされてはいなかったけれど、そこから吹きつける風にふり落とされれば受けるネットもなく地面に死の強さで打たれるしかなかったし、それでなくとも薄い空気とつめたい風はかれの肉体と体温をさいなみ、かれは私の腕のなか、胸のうえで凍えそうに、いつも端正な目鼻を幾度かゆがませて見せていた。


 私が、こんなことをするのにいつもそんな顔を見せてるの、それとも今わざと見せてるの、とたずねると、かれは、自分の顔なんておれは自分じゃわからなくて――となお眉間をゆがませて、私はなるほどこういうのをいとおしく思う女がいるのだな、と思い、私もまたかれを刹那いとおしく思い、しかしその感情はとどまることなくすぐに私の指のすきまからこぼれ落ちてゆく。

 いつか綱を踏みはずし墜ちてゆくかれを預言するかのように、さっきまでの私の気持ちがとおく落ちてゆき見えなくなる。




 まだこの夜の綱渡りは続いている。

 私は、男の渡る綱の位置にいる。ベッドの上で、男の下にいる。


 男にとって私はいま渡る綱だ。

 男にとって私は、今夜のわたる綱だ。


 私はいま、この男とセックスをしている。


 男は墜落しないように慎重に、ときに思い切りをつけて足を運んでいた。

 私もそれを受け、ときに踏みこみ、男を誘ってはまた惹かれて、かれを試し、また私を試していた。




 ――そう。勘違いしないでほしいが。


 私にとっては、男が私の渡る綱だ。





***





 大学に入って、私は、〈誑・曝(たぶら・さら)〉という演劇サークルに所属した。


 なにか芸術らしいことをしたいとは思っていたけれど、具体的にイメージがあったわけではなかった。このサークルの部室ボックスに踏み込んだのは、新入生を勧誘する出店でにぎわうキャンパスの表通りを、ふらふらぐるぐると回っていて、ふと目についたやけに小さなお尻を追って歩いていたら、いつのまにか人ごみを抜けてそこにたどり着いていたという端緒であった。人びとのさざめきを厚い壁の向こうに覚えながら、サークルの説明って聞けますか、と私が振りむいたその人にいうと、かれは、ごめんいま誰もいないんだ、と私たちのほかは空っぽの部室ボックス内を両手をひろげて示してみせた。それで私は、じゃあ待たせてもらいますと適当な椅子にすわり込み、その人から適当にサークルの話を聞いた。かれは顔も端正だった。

 その男が、巾木はばき 鱗太郎りんたろうだった。




 〈たぶらさら〉の話をする。

 〈誑・曝〉は、この大学に二つある演劇サークルのうちの一つである。作風は自由をむねとし、エンターテイメント性をおろそかにし過ぎないことを心がける空気があった。

 サークル名は、はじめはイキった学生っぽい微妙な趣味悪さだな、くらいに思っていたが、タブラ・ラサ[tabula rasa]というラテン語があり、観念を獲得するまえの白紙状態の魂のことなのだという。後ろのほうひっくり返ってね? と思ったら、『たぶらかす』の次に『らさ』に当てはまる漢字一字が見つからず、読みは逆さの『さらす』を申請用紙に下書きしていたら期日が迫りそれで清書されて提出されてしまったものなのだそうだ。


 もう一つの演劇サークルは、〈明鏡思惟(めいきょうしすい)〉という。こちらは、外見そとみからのイメージではあるが、質実剛健、古典的なモチーフ、コンサバな演出を好む。稽古を好み、体育会系なみに練習がきついらしい。

 新歓の時期にその立て看板タテカンを見かけた私は、『思惟』はほんらい『しゆい』または『しい』と読むとその場でスマホを開いて確認した。おそらくこちらはこちらで『明鏡止水めいきょうしすい』に引っかけた劇団名を考えていて、当てはまる熟語を探し、『推測すいそく』の読みに引っぱられて誰も気づかないまま『思惟』を採用してしまったのだろう。その後いつだかに聞いたところによると、その推測は一歩甘く、往時の主宰が朝まで飲んだあとに一人で勝手に決めてその足で書類を提出しにいってしまったのだという。私は、責任はあきらかに二日酔いの学生の申請を右から左に通した学生課にあると思う。


 そして、〈たぶらさら〉は〈明鏡思惟めいきょうしすい〉から分化したサークルであった。

 〈明鏡思惟〉は体育会系と述べたが、ほんとうに規律と練習、そして上下関係がきびしい。しかし卒業後に俳優として、またお笑い芸人として成功した者を定期的に輩出しているため、そのハードな評判にもかかわらず毎年多くの新入部員を迎える。そして夏にもならぬうちにぼろぼろと辞めてゆく。それで十何年か前、〈明鏡思惟〉はやめたけれど役者はつづけたい数名が〈誑・曝〉を立ち上げたのだと聞いた。歴史はあるものである。

 しかし立ち上げ以降は〈誑・曝〉が〈明鏡思惟〉からの脱落者の受け皿となることは特になく、〈明鏡思惟〉を辞めた者はそのまま役者をやめるか、学外の団体に流れるらしい。いっぽう〈誑・曝〉に入る者は最初から〈誑・曝〉に入る。そういうものなのだ。うちはゆるいのだ。


 そのゆるさのあらわれのひとつとして、〈誑・曝〉のボックスにはいつも誰かしらOBが入りびたっていた。有りていに言って、卒業後ぱっとしない人たち、かつ、自分でそれに納得できていない人たちが先輩風を吹かせにきていた。

 これが〈明鏡思惟〉であると、古巣ににしきを飾った卒業生が大学の広報にばれたあと稽古にたち寄って、キャーッという歓声とともに迎えられる風景しか見たことがない。たいていは顔のいい人間で、それとも成功すると人間はいい顔になるのか、とまれ目のよろこびとなるので私はそういう声が聞こえてくるといそいそとボックスを出て見にいく。この行動はうちのOBからはてきめんに嫌われるが、好かれても益もないので気にせずにいるしかない。

 とくに私を嫌ったのが、役者を目指し三十歳にいたるも芽が出ず、そこで涙をのんで役者を諦めるというのは聞く話であるが、諦めたあとなぜか就職するのではなく司法試験合格を目指しはじめた先輩であった。週に一度以上ボックスにあらわれては、自分のいまの環境ではいかに勉強にうち込むことが困難であるか、また自分がいかに酒と女遊びに長けているかを、声だけは深いナレーションのような響きで延々と語りつづける人であった。しかし女と遊びなれているといいながら、同時に毎度のように相手がつまり処女であった、またしてもカタギの子の初めてを俺のようなろくでなしが貰ってしまったということを口髭を指で紙縒こよりながら滔々としゃべるので、男子ですらあのヒゲはやめに死んでくれと陰で囁きあうほどであった。

 さいわいというか、施設としてのルールで禁煙であるボックスで平気でたばこに火を点けるため、それを言い訳に女子や下級生は席を立つことができた。そのたびにちくちくと嫌味を言われたが、もともと大いに嫌われているとわかっていたので私は気にとめずに済んだ。


 ほかには大学のそばに勤務していて、昼休みの時刻になるとバゲットとチーズとワインの小ボトルを携えてあらわれる先輩がいた。ワインがもちろん酒臭いのにくわえて、またこのチーズが異常に臭くて、先輩がナイフを開いてかちかちのバゲットをざくりざくりと切り、またチーズの包みを開くと、ボックスのなかはもうたまらない雰囲気になった。それがもう随分すがたを見ていないな、やはり仕事中の酒が問題だったのかしらと思っていたら、仕事あとに夜のキャンパスに入りこんでいるところを見咎められて警官の職務質問を受けたおりにさらにナイフが見つかって、いろいろと面倒なことになったのだという。サラリーマンをやりつつ社会人劇団にも所属していた人であるので、警察沙汰はほかの団員からひどく煙たがれたと聞く。劇場ハコや稽古場などを借りたりするときに影響が出かねないのだ。

 とはいえ逮捕されたわけでもあるまいに、ボックスで見かけなくなったのは何故だと思っていたら、お前の飯がくさいから警察に売ったのだという謎の犯行声明じみたものが昼休みのボックスの窓に貼られていたことがあったとかで、以降、先輩の足が遠のいたのだという。食い物の恨みはおそろしいというが、こっちの方向でもあり得るのか、すげーなと思ったものだ。


 そんな駄目げな先輩ばかりではなく、ボックスに入りびたる暇などないふつうの先輩がたのなかには、それなりにちゃんとした人もいるにはいるのだが、やはりストレートに役者をつづけられているという人は少ない。また、音響と、あと舞台監督でそれぞれ名のある賞をもらうレベルの卒業生がいるらしいが、ぜんぜん現役生に顔を見せてくれたことはない。これまでの〈誑・曝〉とはつまりそういう劇団だった。


 ただ、現在の〈誑・曝〉はいささか話が違った。

 将来有望な部員が二人もいるのだ。


 まず三年生の、脚本・演出に出演もこなす須佐すさ 王児おうじ

 そしてもう一人が、同じく三年で役者専門の、巾木はばき 鱗太郎りんたろうだった。


 二人はサークル活動のほかにも、独自のユニット公演である〈クエン・サン・サイクル〉の舞台を学外で年二回おこなっていた。一公演ごとに動員数がぐんぐん伸びており、舞台情報誌にまる一ページをさいて特集記事が組まれたこともあった。

 ふたりは来年度に卒業を控え、すでに、いくつかの劇団をかかえる中堅プロダクションにそろって所属が内定しているとの話が聞こえていた。





***





 秋に学園祭があり、学祭公演の撤収バラシ後におこなわれた全員打ち上げのさらに後日、サークルの女子だけであらためて打ち上げをすることになった。全女子がそろえば十人超えのそこそこ大所帯になるはずだったが、不参加にドタキャンでけっきょく集まったのは、酒好きあそび好きの計六名とギリ半数強にとどまった。一年生は私ひとりだった。

 池袋はずれにある安い焼きとり屋の座敷という、色気もへったくれもない場所で乾杯した私たちは、学祭の慰労を述べ合うことはそこそこに、まったく普段どおりの愚痴と噂と馬鹿話の駄弁りをはじめていた。


「だあかあらさーあ、大事なのはつづけてることなんだって」

 駄弁りとはいえ、さすがに芝居まわりの話題が主にはなる。

「役者あきらめてほかの道いくのはその人の勝手だし。でもそこで残りつづけてればいつか需要が来るんだって」

 日本酒のもっきりを豪快にふたつみっつ並べている人は、匐枝ふくし 見来みき。二年生である。ますから雫をグラスに振り落としつつ役者としての生き残りについて熱っぽく語るも、現状に即していないとして支持は得られていないようだった。

「えぇ? つったってどの演出もさ、だいたいいちばん若い女から選びたがるじゃん。こっちは確実に稽古も経験も積んでいってるのに、そんなんは二の次で見てないのよ。そんで笑ったんだけど卒業して社会人の劇団に入ったら、また最年少の女になるからまた役もらえるようになるんだと」

 匐枝先輩の話題を受けて語るのは、三田井みたい 桐子きりこ。同じく二年生。一浪。スマートな名前のおしゃれげなカクテルのグラスを、あまりスマートでない速度で重ねている。

「そーよそうやってどんどん年嵩としかさの劇団に渡ってってしてたら、役者がんばってんのか何がんばってんのかわかんなくなるじゃん。違うの。そうじゃないわけよ。二十代終わっても役者つづけられる地力をつくってくのが大事なわけよ。そうして三十、四十になったときにまわりに役者つづけてられてる女がどんだけいるんだよって話で。その年齢の女優の需要はかならずどっかにあるから」

「四十! 気ぃ長いよ、死んじゃうよ」

「生き残、るんだよ!」

「おーい酒足りてるか」

 声をかけたのは三年生の西表いりおもて 西瓜すいか。えらい可愛い名前のとおりに横に大柄で、ころころとした体型をしており、このとしで劇団のおふくろさんと言われてしまうほど人の面倒をよくみる。だから男女問わず西瓜さん西瓜さんと慕われており、また聞き上手でもあるから、私も甘えて西瓜さんと呼んでいるし、劇団の人間関係の疲れのガス抜きをさせてもらうことだって一度ならずあった。


「んで何、あのへんあれもうやってんでしょ? やるのはいいんだけどさ、喧嘩すんなよな。空気重いわ」

 役者をやる人間の性欲は概してつよい。

 くわえて本番前二か月は稽古で濃い時間をともに過ごし、酒を好み、金のなさから雑魚寝になだれ込むことも多いとくれば、菌を培養するがごとく有機的に肉体関係のつながりが増えてゆく。

 そんな動物的に旺盛に体を重ねているのに、表面的なモラルはつい先日まで高校生であったそれをなぜだか引きずっていて、そういうことをしたと皆に露見しているのに付き合ったりを付けたりしていないと、いい加減だ、ふしだらだとの説教が起こることがあるのがおかしかった。

「それよりね、今日は、『作中で何でもないことのようにセックスが扱われると何故おしゃれな作品のように感じてしまうのか問題』を話したいのよ私は」

 話に割りこんでいるのは二年生の大庭おおば 柚子ゆうこ。脚本も書くし、演出もやりたいひとだ。

「それはあれでしょ、セックスに困っていないのは生物として強者だからでしょ。おしゃれ自体がもともとメスの気をひくための戦略だから、ひっくり返って生殖をあたり前にできてる個体は強くておしゃれなわけよ」

 すらっと答えた三田井先輩に、しかしこれもギャラリーの受けはよくない。

「納得しかねる」

「そう言うて桐子あんたここ来るまえ男と会ってたっしょ。なにこの短いスカート。座敷だつったろが」

「みじかくないやろ。普通やろ」

「これがあんたのおしゃれか、求愛してんのか」

「引っぱんないで!」

 海の荒れるようにどうどう、ざあざあと騒がしく楽しい時間が流れる。テーブルの端の波打ち際には、空いたグラスとジョッキが次々とうち寄せられていく。

 私はお酒を飲んでもあまりしゃべるほうではないけれど、こういう空間は決してきらいではなかった。


「ねえ、アイフォンの、エアードロップっていう機能知ってる?」

 全員、酒がひと回りからさらにふた回りくらいして、顔つきや姿勢がなかなか怪しくなってきたころ、別の話題を切りだした人がいた。

 園内そのうち さき。三年生。声は大きくなかったのに、よくとおって綺麗にひびいた。

 〈明鏡思惟〉をけて〈誑・曝〉に入る者はいないようなことを述べたが、彼女はその例外であった。〈明鏡思惟〉について行けないとして、〈誑・曝〉に移ってきたのである。ただ決して、苛酷な稽古に音を上げたという理由ではなく、生活や学業をいても舞台に専念すべきという明鏡思惟の空気に居づらくなったということを話していた。事実、彼女は学科の単位にくわえ教職課程もきちんきちんと修めており、役者としてのみならず、学生としても至極真面目な、この界隈ではあまり見ないタイプの人間であった。ただそういった性分を、あれは役者として大成しないと口さがなく言う人もいた。

 園内先輩は自分のスマホを顔の高さに掲げ、先日の撤収バラシの最後に撮った全員の集合写真を映してみせた。さらに操作して画面下から出したメニューの『タップしてエアードロップで共有』という欄に、『mikiのアイフォン』『すいかのアイフォン』『yrkの2台目のアイフォン』……とここにいるアイフォン組の端末名がリストされていた。ほかのテーブルの客のものか、知らない名前もあった。

「これ、ここで相手のアイフォン指定すると、その人にこの画像送れるの。アイフォンどうしで、でも相手が設定いじってたらだめみたいだけど」

 園内先輩が『すいかのアイフォン』をタップすると、西瓜さんのスマホがブッと鳴る。西瓜さんが開き、「おおーきたきた。ありがと」と何やら拡大して見ている。

「そーそれエアードロップやばいですよ、切っとかないと電車乗ってたらおやじのちんぽが飛んでくる」

 横からくちばしを突っこんできたのは匐枝先輩だった。発言にパワーワードが含まれており、皆の注目が園内先輩からそっちに流れてしまう。

「なになにそれ」

「電車のなかでいきなりエアードロップ作動して、反動で受けいれたらおやじのちんぽ画像がスマホに保存されてんの。声出たよ。新時代の痴漢の夜明けだって。あのころの未来に私は立っているのかな思たわ」

「保存する前に見ろよ。確認しろ」

「見ないよ。なんか警告メッセージ出たらとりあえずオッケで消すでしょ。あとから今のなんだったんだろって考えるでしょ。たいがい手遅れだけど」

「駄目やろ」

「その点おやじのちんぽは親切とも言える。カメラロール見たらおやじのちんぽがあるから、ああ、おやじが最新技術でちんぽ送ってきたんだなってわかるわけ」

 匐枝先輩のパワープレイが極まってきたところで、三田井先輩がさえぎる。

「ちょおそれ、連呼やめてくれる」

「なに? ちんぽ?」

「そろそろうぜえ」

「つっておやじのちんぽの話なんだからおやじのちんぽって言うの仕方なくない? おやじのちんぽは他に言い方あんの? なに? パパモツ?」

「あれモツなの」

「粘膜部分って外に出た内臓なんじゃなかった?」

「ちんぽも内臓なの? どこまで内臓なの」

「だからちんぽやめろ」

「ちんぽ」

「やめろ」

「まんこッ」

「やめろッッ」


 タチの悪い感じに盛り上がってきてしまい、顰蹙買ってるかとまわりを見るもさほど気にされていない様子であった。それとも、皆気にしてない風をしているだけか。一組、中年おっさん数名のテーブルのリーダークラスっぽいチビの四角いデブがずっとニヤニヤしながらこちらを見ていて、西瓜さんがにらみ返しつつチッ! チッ! と舌を鳴らして威嚇してくれている。面倒見のよさの一環だろうか。キモい脅威から街を護ってくれるウォールマリアなのだろうか。

 園内先輩を見ると、もうスマホは置いて、すっかり氷の溶けたお酒のグラスに口をつけている。

 園内先輩は、言ってしまうとあまり美人ではないのだが、背丈があって、たたずまいに雰囲気があって、手足が長くきれいで。じつに舞台映えすると私は思っていた。顔も美人でなくとも造作が悪いことはなく、役がはまったときに芝居全体をしまう力は生半可なものではなかった。私は、園内先輩が立つ舞台はだいたい見ていたし、何度も見ることもあった。




「寒い! いま何月よ」

「十月が終わる」

「終電いつなくなったの!」

「きっとはじめからそんなもんなかったんだよ」

 全員で終電をのがした私たちは、池袋駅の西口に出て東京芸術劇場前の広場の段差に吹きまっていた。

 こんな広けた場所、風のある日だったらひとたまりもなかったろうけど、ひんやりとした夜の空気は大人しくよどんでおり、私たちの体温を性急にこそぐようなことはしなかった。

 

「私いつか、芸術劇場あそこってやんだー、ぜったい!」


 誰かが頭上の虚空にほうり投げるような声でそう言った。ふり返っても誰が言ったかわからなかったけれど、そこにいた誰もがそのくらいは思っていただろうし、もしかすると私が言ったのかもしれなかった。

 

 

「先輩、かわいいの見えてます」

 地面に脚を投げだしてベタ座りしている三田井先輩の、スカートの奥に下着が見えていたので、上着を脱いで膝にかけてあげた。

「ありがとー。えーでもゆり子ちゃん、上脱いだら寒いじゃん。いいよ、着てな」

「私、暑がりなんです。まだ平気」

「えー寒いよ、寒そー! おいでっ」

 引き寄せられ、膝のあいだで抱きかかえられる。いいんだけど、先輩これ完全に股パカーしてないか。私で隠れるからいいんだけど。

 先輩の温かくやさしい頬が私の髪に寄せられる。両の手足が私にからんでいる。私は男好きだが、女の人のからだも好きだ。学科の、デブ専を公言してはばからない男子が、太ってる子は全身がおっぱいなんだよ! と女性の脂肪を褒めたたえていたが、私はこの世でもっともさわり心地のよい肉はしなやかな女の筋肉だと思う。ウェイトをかけたトレーニングだけで硬直しきったものではなく、ストレッチもくわえて練り上げられた、生活のなかでも生きる筋肉。眠っているたくましい女の、無防備な二の腕に触れたことがあるか? うすい脂肪の下、重力にたわんで躍動の記憶をしずかにいやす、けれど包む私の手にこたえてしなやかに握力をはね返してくる、ひとまとまりの骨肉、その官能。あなたは、たったひと摑みの肉との対話に魅せられて、稽古と酒と雑魚寝の疲労がよどむ肉体と意識を明け方まで休ませられず眠れなかったことはあるか。


「画像見てもらってもいい?」

 六人がおのおのくたばりはじめて静まっていたなかで、声を出したのは園内先輩だった。私は、ふとお酒のときのつづきだと察した。先輩がスマホを差し出したのは西瓜さんにだったけれど、私は、私もいいですか? って寝こけている三田井先輩のひざの間から這いだした。地面にひいた私の上着のうえに三田井先輩をそっと横たえて、枕はかばんで、脚も閉じさせてから、園内先輩のスマホを覗きにいった。

「サッキー、なーにこれ」

 頓狂な声をあげたのは西瓜さんだった。人肌づいていた私は、西瓜さんの背中にくっついてその画像を見た。

 見せてもらった画像は、ラインの、トーク画面のスクショだった。一部、発言者のユーザーネームとアイコンが、ペイントアプリの安い色彩でぐじゃぐじゃっと塗りつぶされていた。

 

 トークの相手は、巾木はばき先輩だった。画像の左側から吹き出たふきだしの、ユーザーネームに見覚えがあった。アイコンは初めて見る巾木先輩の自撮りだった。発言には時刻しか表示されていないので、何月何日のものかはわからなかった。

「話してんの、誰なのこれ。わかるの?」

 西瓜さんが園内先輩のほうにスマホを傾けてたずねる。園内先輩は力なく首を振った。

 スクショの主となる、右側から出るふきだしの、ユーザーネームとアイコンが塗りつぶされていた。誰だかわからないその人の発言は、ずいぶんと品がなかった。

 内容は、二人がしたセックス、そしてつぎの機会のセックスについてあけすけに語る、他愛なくも秘されるべき会話だった。

 このたった一枚のスクショ分だけでも、塗りつぶされた誰かさんは、巾木先輩との間にあった情事にすっかり浮かれていることがうかがい知れた。尊敬しあこがれる男に肉体を求められたことに上ずっていて、男が嬉しがるように表現を可愛らしくもみだらにしていることが読みとれた。

 じっさい巾木先輩も、言葉でしなだれかかる女にすっかりでれついていて、これを女のほうからわざわざ人に見せるのだとしたら、その意図はひとつしかないと思えた。

 ——自慢だ。巾木 鱗太郎に愛された自慢。


「これね、こないだの授業中にエアードロップでスマホに飛びこんできて」

「保存する前に確認しなかったん?」

「なんか出たから、とりあえずオッケー押しちゃった」

 そう言って園内先輩は笑った。

 西瓜さんは口をしかめて鼻からため息をつくと、私をちらっと見て短く言った。

「この子ね、巾木はばきと付きあってんの」

 西瓜さんの言葉に私はおどろいた。察しのわるい人間のつもりはなかったのに、そんなこと思いもしていなかった。

「内緒なんだけどね。なんで内緒なのかはしらんけど」

 西瓜さんはすこし責めるように園内先輩を見る。西瓜さんと目が合って、先輩は目をふせる。西瓜さんはスマホに目をもどす。

「こいつは知ってそうだな。じゃあこれ挑戦状かよ」

 西瓜さんが子どもを叱るようにスマホの画面を指でトントンと突く。反応して出てきたメニューに『写真を削除』とある。

「消していいこれ?」

「えーダメ」

 園内先輩は笑っている。ほかにどういう表情をすればいいのかわからない、という風に笑っている。

「んでもよォ! こんなの見てたらいかんよ。体に悪いわ」

「んーでも、いいの。私たちもう別れてるから」

 今度は西瓜さんもおどろいていた。

「何、そうなの? いいの? いやあたしはさーいいんだけど。そうしろって言ってたんだし。でもあんたは、いいの」

「いい悪いじゃなくて、何かね、プロダクションから早めに女性関係を整理しとくように言われてるんだって」

「はーあ? 何それ、ほんとにそんなのあるの?」

「わかんない、あるんだって」

「でもあんたはれっきとした彼女でしょ? 整理ってのはそれこそこいつみたいなのじゃないの?」

 西瓜さんがまたスマホの画面を突っつく。

「でも鱗太郎が、そうしたいんだって」

 園内先輩の肩がふるふるっと震えた。冷えてきたのかもしれなかった。西瓜さんの背中でぬくまっていた私は、園内先輩のほうに移って抱きしめたいと思った。めっちゃくちゃじゃねえかクソが、と西瓜さんの背中が悪態の声で振動した。

「西瓜さんから巾木先輩にお説教とかできないんですか?」

 先輩を温められない代わりに余計なことでも言うのがいいような気がして、余計なことを言った。

「エー! やあよあたしは。とっくにあいつブロックしてるもん。むかつくんだ」

「えー、同じサークルなのに、連絡事項とかあったらどうするんですか」

「連絡? から? ないよ! あたしがなにおそわることあんのさ、あいつに」

 園内先輩はうつむいていてなにも言わなかった。なにも言わないですむようにしたのは、たぶん正解だったと思った。


 そのあとは結局、そのスクショを、西瓜さんと、なぜか私もエアードロップで受けとった。

 勝手にひとに見せても、あげてしまってもいいと言われた。知ってることは話していいし、知らないことを憶測でてきとうに言ってもかまわないと言われた。




 私が巾木先輩とセックスしたのは、この出来事よりもあとの日のことであった。





***





 そして話は二か月飛ぶ。十二月に飛ぶ。


 場所は、サークルの部室ボックスだった。年末のおし迫った時期であったのに、ほかに誰も入ってこないで先輩と二人きりで話せたのは、あとで思うとちょっと奇跡だった。



 巾木はばき先輩と須佐すさ先輩は、追い出し公演の脚本も上がっていないまったくの引退前に、もうボックスに近寄らなくなっていた。せっかくの〈たぶらさら〉の期待の星が、正式な引退を経ずにあと味わるくいなくなってしまうのではないかとの不安がサークル内によどんでいた。


 あのスクショが出回っていた。

 

 巾木先輩が園内先輩と付きあっていながら、精神的な拠りどころとしていながら、その関係をおおやけにさせない、自分が女と遊ぶための差しさわりとさせないように園内先輩の口を閉ざさせていたとの評判が立っていた。

 それで実際に、いい加減な女遊びをしまくって、たちの悪い女にまで見境なく手をだして、特段におかしい女が園内先輩を逆恨みして攻撃するような下品なスクショを送りつけて、かわいそうな先輩はそれでずいぶん傷ついて、その傷心の先輩をあまつさえ俳優デビューのためにあっさり切り捨てようとしている、巾木はほんとうにひどい奴だとの悪評が、〈明鏡思惟めいきょうしすい〉にまで、あのスクショとともに広まっていた。

 

 それが、私は不安になっていた。園内先輩はここまでは望んでいなかったのではないか。。もっとコントロールすべきだったのではないか。

 でも、今からではもはやどうしようもないことだった。つかみどころのない噂だけではなく、デジタルとはいえ目に見える証拠であるスクショの存在があったことは有効すぎて、まして、デジタルだからこそいくらでも増えるのが手に負えなくて。

 だから、私は、もし先輩がいまのこの状況にかえって心を痛めているのだとしたら、謝らなくちゃ、謝罪させてほしいと思っていた。

 それが私の自己満足だとしても、いや、自己満足だとしたらなお、私は心のよわい人間なので、そうせずにはいられないだろうから、それもまた先輩に謝らねばならないのだろうと思った。

 

 

 約束をもらえた時刻よりはやく私も、園内先輩も、ボックスに着いていた。

 ほかに誰もいなかったので、私は性急に、先輩にそういったことを謝った。先輩がいいと言ったとおりに、本当にみんなにあのスクショを見せて、渡して、憶測をしゃべったことを謝った。サークル内での巾木先輩の立場を悪くしたことを謝った。

 園内先輩は、なあんだ、といった顔をした。

「そんなこといいのに。あれは鱗太郎の自業自得なんだから。もう子どもじゃないんだし、自分の尻ぬぐいは自分でしなきゃ」

 でも。

「先輩はいいんですか。あのスクショ一枚で、こんなことになって。先輩が、あのときあのスクショさえ自分が出さなければこんなことはならなかったのにって後悔してたら、私、申し訳なくて」

「そんな——」

 先輩は、戸惑うように言葉をさがした。

「でも、あのスクショを私に送った人だって、私がこういう使いかたして鱗太郎の迷惑になるかもしれないのは予測してただろうし、もし予測してなかったのなら迂闊すぎるし」

 そこまで言って、つぎの言葉はおちついた呼吸でつづけた。

「そもそもばらされて困るようなことをしている鱗太郎がわるいんだし」

 

「でも。あのスクショは」

 私はたまらず言った。

「あのスクショだけは——先輩の嘘だから」

 

 私が言ったとたん、園内先輩の顔からすっと表情がなくなった。

 先輩はこちらを見た。表情を動かさず、目の色だけがわずかに変わっていた。

「嘘? なにが嘘?」

「巾木先輩はたしかに園内先輩以外の女性とも遊んでいて、その中にはよくない人もいたかもしれないけど、園内先輩にプライベートなスクショを送りつけるような人はいなかった」

 私はじぶんの今していることがこわくて、言っていることがこわくて、園内先輩がこわかった。

「なにか、証拠があるの?」

 私は黙ってじぶんのスマホを操作して、画像を出した。それは、先輩がくれたのと同じトーク内容のスクショだった。

 ただ、私があらためてスクショしたその画面では、対話の主客が逆だった。巾木先輩の発言が右側。これは、巾木先輩のスマホから得たスクショだった。

 また、画像にはペイントアプリによる塗りつぶしがなかった。だから、巾木先輩とのトークの相手のユーザーネームと、アイコンが見えていた。

 

 ——『サキ』。

 園内そのうち さき

 そこで、巾木先輩とうれしそうにセックスの話をしているのは、園内先輩だった。

 

 園内先輩は、もはや私がいままで見たことのない表情をしていた。いや、舞台の上で、一度だけこういう表情をしているのを見たことがあったはずだった。あれはなんの役だったか、どんな台詞せりふだったか。余裕のなさに真っ白になった今のわたしの頭では思い出せなかった。

「これは、鱗太郎があなたにくれたの?」

「いえ、盗みました」

 口のなかが乾くので、私は唾を飲み飲み言葉をつむいだ。

「巾木先輩が眠っているあいだに、指紋認証でスマホを開いて、エアードロップで私のスマホに送りました」

 園内先輩はすこし考えて、

「ん? したの?」

 と首をかしげて言った。

「はい。ホテルで」

 私は答えた。

「この画面を手に入れるために、鱗太郎とホテルに行ったの?」

「違います——巾木先輩と、たまたま二人で帰ることがあって。そういう風に声をかけられて。もう先輩とは別れたって、聞いたから、そのままついていって」

「いただかれちゃった?」

 おどけたていでそういう表現を使ってくる先輩に、私は返す感じにこまった。

「いえ、私も入部当初から、巾木先輩ねらってたところありまして、私は私でいただいたというか」

「そう。ふうん」

 先輩はなんだかつまらなさそうにした。

「思いつきなんですよね。わかります。あんまり考えないで、こうしたらどうなるんだろうって、したんですよね」

 私は、なんとなく、先輩がなにか喋るまえに私が語るべきことをぜんぶ言い切ってしまわなければと焦って、まくし立てるようになった。

「あの、いま出回っているスクショだと、巾木先輩のアイコンも塗りつぶしてあるんです。見えてるのは名前だけ」

 大事なことを話しているのに、先輩はつまらなさそうに目を逸らしたきり私のほうを見てくれない。

「巾木先輩のアイコンの自撮り、私は知らないものだった。私だってサークルのグループトークで巾木先輩のアイコン見てますから。だからあれってきっと、私が入学する前の巾木先輩のアイコンですよね。だから二年生以上の人だったらきっと一目でわかっちゃいますよね、これはかなり昔に行われたトークをさかのぼってスクショしただけだって。だから私が塗りつぶしたんです」

「西瓜は」

「西瓜さんは、もうずっと巾木先輩をブロックしていた。だから巾木先輩が自撮りアイコンを新しくしてることを知らなかった。トークが古いって西瓜さんが気づかないってことは、そういうことだって、思いました」

 先輩の言葉をさえぎってしまった。私は先輩の顔色をうかがう。先輩の目はかわらず何も見ていない。

「西瓜さんが受け取ったスクショ画像は、あのあと見たくもないって言ってたから、じゃあ消しちゃいましょうよって消させちゃいました。みんなに配ってまわったのは私、ぜんぶ私」

「——どうして、嘘だって思ったの?」

「嘘だって思ったわけでは、ないです」

 急にかれて、私はあわてて言い繕う。

「園内先輩は、真面目なひとだから。他人のプライベートを勝手にさらすようなことはしないと思って。それが、自分への悪意をもった人から、悪意をもって送られた物だとしても。だから」

 先輩が、目を閉じて息をついたように見えた。

「だから、先輩が晒したとしたら。ばら撒いてもいいって言うなら尚更。それは先輩にとって他人のプライベートではないと思って」

「……私、そんな真面目じゃない」

 先輩が両手でじぶんを抱くようにした。私はまた、先輩をあたためてあげたいと思った。

「先輩が、どうしてああいうことをしようとしたのか、いてもいいですか」

 そうたずねることで、一線を越えると感じた。ここからは、完全にわたしの自己満足だと思った。

「先輩は、ほんとうは、どうなると思ってあの画像つくったんですか」

 答える必要のない質問に、しかし先輩は答えてくれた。

「どうって、変わらないよ。鱗太郎のサークル内ので風あたりが強くなって、居づらくなればいい、って。いまの結果とおんなじ」

 先輩の目はまた虚空を見ていたけれど、今は、先輩はそこに何かを見ているように思えた。

「……そして、鱗太郎の手から、あのトーク画面を、皆に見せればいいって。釈明するために、あんなのウソだって言うために——私ともああいう頃があったんだってことを、ふたりの時間を鱗太郎が思いだしながら、じぶんの手でずっとさかのぼって、みんなに見せて回ればいいって、そう思った」

 先輩が目をしばたいた。涙がこぼれるかと思って私は緊張したけれど、そんなことはなかった。

「あのときはね、ゆり子ちゃんが画像見たときは、本当は西瓜すいかに、やっぱりこういうことしたらよくないよねって話そうとしたんだけど。ゆり子ちゃん起きてると思わなくて。しかも入ってくるから」

 先輩は体に両手を回したまま、すこしじくをかしげて可笑おかしそうにした。

「さいしょ話ふったら、見来みきちゃんに変なほうにもってかれちゃったじゃない? だから、やっぱりこういうのはやめろって言われてるんだと思ったの、神様に。だからやめようと思ったの、思ってたのに」

「すみません——すみません!」

 私はつい声を上げて謝る。

「違うの。ちがうの」

 先輩は腕を解いて、ちがうちがうと振ってみせた。

「流れでああいう風に話しちゃって、でもやっぱり最後にちゃんと言おうと、言わなきゃと思ってて、でも、でもね、うれしかったの。ゆり子ちゃんが、西瓜に、鱗太郎にお説教しろって言ってくれたのが。自分がそれを嬉しいと思ったのがわかったから、最後の最後に気が変わった」

 胸の前で両手の指を組んで、祈るように先輩は話した。

「そうだ、お説教されればいいと思った。あんなにいい加減なことをして、こんなに悲しいきもちにさせて。それを大勢に知られて、説教ずきでお節介なひとに寄ってたかられて、いっぱいお説教されたら、すごくいい気味だって思ったの。あの瞬間は、私は、まるっきりその気持ちだけでいっぱいだった」

 先輩の指を組んだ手がひざに落ちる。

「私は、ぜんぜん真面目じゃないよ」

 先輩はうつむいて、さみしそうにそう言った。




「——で、お付き合いはできそうなの?」

 ボックスを出て歩きながら、先輩にそう言われたとき、はじめは何の話かわからなかった。

「あ……私がいまはそういうの求めていない時期でして、そういう話にはなりませんでした」

 そう答えると、先輩にあら、と言われて肘でつつかれてしまった。

 

「セックスは、やさしかったでしょうあの人」

 今度は、そんなことを外で言うので、私はちょっと面食らった。面食らったけど、答えた。

「はい、そう思います」

「私とも、愛情なくなっちゃったみたいになってからも、それだけはやさしかったの。そういう人」

 そういう先輩は、セックスの記憶について話していたけれど、もう自分のこととして思いだしていないように見えた。


 信号に差しかかる。

 赤なので、二人とも、立ち止まる。

 先輩がじっとこっちを見ていたので、何だろうと思って、私も先輩のほうに向きなおる。

 

 先輩が私をやさしく見つめていて、もう、すっかり安心したように微笑ほほえんでいて。そして、

「まだこっちが気持ちの整理つけてないのに、やってんじゃねーよ」

 先輩はかるくこぶしを振って、私の胸を小突いた。


 不意打ちだった。

 私は、そうされて、馬鹿な子みたいにきょとんとしていようと思ったのに、痛くなかったのにすごくひびいて、突然ぼろぼろぼろっと涙をこぼして泣いてしまい、先輩を盛大に驚かせてしまった。





***





 これよりあとの話は、まったくの蛇足である。

 

 

 巾木はばき先輩は大学を卒業して、役者として順調に成長するとのまわりの期待に反し、まず、いつころからか須佐すさ先輩の脚本でらなくなった。須佐先輩のほうは、すぐに実力派の若手俳優と組んだり、大御所レベルの俳優も出るような大きな舞台に脚本を提供したりと目に見えて実績をかさねていたが、巾木先輩は迷走した。主演をとれなかった公演を稽古なかばでおりてしまったり、急に自分で立ちあげた劇団で演出を買ってでるも、初日のあとすぐに出たネット記事で酷評されたりと、苦しい時期がつづいた。劇場の規模も公演ごとに小さくなり、その頃いちど見にいった舞台では、役者がでてくる前になぜか本編の予告動画のようなものがスクリーンに流され、CGとカット割りをつたなくも頑張ったことが感じられるその映像はそこそこ見ごたえがあったが、肝心の本編がありきたりでまったく話も演出も詰められておらず、映像がましだったぶん内容のすかすかぶりが際だって感じられてしまい、舞台を見ていれば大体しあわせな私が、めずらしくお金を損したと思ったほどだった。

 そして数年、しばらく動向を追えていなかったらいつの間にか巾木先輩はプロダクションを辞めており、ネット検索でみつけた次の公演はもはやまともな劇場さえ借りておらず、表参道の小さなバーを使うもので、役者・スタッフあわせても人間が十名かかわっていなかった。そんな公演でもチケットがまるで大劇場でやるような強気な金額で、私はもう完全に損得ぬきで先輩に軍資金を寄付するきもちで見にいった。当日は、せまいフロアにこしらえた客席に十余名がぎゅうぎゅうに座り、芝居自体も話の展開はそこそこに照明が暗転、白い壁にプロジェクターでパワーポイントが投影され、そこに大きなフォントで示されたお題を受けてのコントのようなものがはじまった。よくわからない時間が終わって客席が明転したあと、奥から笑顔で出てきた巾木先輩に私はあいさつして何か話したはずだが、なにを話したかまるでおぼえていなかった。今も思いだせない。



 いっぽう、さきさんは、卒業後に所属した社会人劇団の二回目の公演で当たり役をつかみ、三回目からはほぼ毎回主演をつとめた。女性主演の多さでかえって特色のでた劇団は、五年目でなんと脚本が映画化された。すでに仕事を役者一本にしぼっていた咲さんも、端役ながら、意味深な役でちょっとだけ銀幕デビューした。

 その後も、劇団の演出・脚本の人がかかわる映画やドラマなどに咲さんがちょいちょい出ることがあり、まめに情報をチェックしていないと見のがしたり録りそこねたりしかねなかった。でも演劇大賞で女優賞をもらってからは、扱いがおおきくなって調べやすくなった。

 本公演のほうもむろん順調で、きょうはもう何度めかになる東京芸術劇場での舞台を見にいく日であった。千穐楽せんしゅうらく夜公演ソワレのチケットを咲さんがわざわざ私のために用意してくれて、そのあとの身内の打ち上げにも来るよう誘ってくれていたので、私は自分なりに気合を入れたつもりのおめかしをして池袋に降りたった。日曜の夜だったが、あすはもう午前休をとっているので、じっくり飲んで、眠たいとかいって咲さんの腕にすがって甘えたりする心づもりであった。

 

 

 私? 私は私の役者人生をなんだか尻すぼみに終えてしまい、いまは映像関係の仕事をしている。お酒とセックスでうるおす日々はそれなりに楽しく、問題はない。

 それ以外はとくにこれといってお話しするようなことはない。だから蛇足だと言ったのだ。

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劇団 誑・曝(たぶら・さら)の憂鬱 ラブテスター @lovetester

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