さいわいなことり
「先生、最近やはり表情が豊かになられましたなあ。顔も引き締まって良い
「教頭先生、またそんなご冗談を」
私は教頭の座る広い机の前に、自分の席の椅子を引っ張ってくる。
「ああ、どうぞ。お座りください」
「失礼します」
椅子に腰かけ、教頭先生と顔を合わせる。笑い皺が愛らしい、老人だ。
「今回はご苦労でしたね。先生には多大なご苦労をお掛けしました」
「そんな、やめてください。全て私がしたことですから。責任は私にあります」
「いえ、先生は生徒の監督責任がある。私には先生方の監督責任があるんです。つまり、あの生徒もこの生徒も……、お、あっちの生徒も」
教頭は窓の外、グラウンドで体育の授業を受けている生徒を一人ずつ指差す。
「全員、私が目を掛けてあげるべき生徒たちなんです。私は、それを怠ってしまった」
「教頭先生、それは―――」
「いえ、莉村くんの親御さんのことは知っていました。彼の両親もこの学校の生徒でしたからね、中途退学をしてしまわれましたが」
教頭先生は悲しい表情をすると、ふっと表情を変え、私に微笑みかけた。
「どんな生徒だったか教えてあげましょうか?」
「莉村の両親が、ですか…?」
「ええ。どんな生徒だったと思います?」
私は呑んだくれの彼の父親に殴られたお腹をさする。
ヒステリックになった母親に向けられた包丁の切っ先がフラッシュバックし、身震いをする。
「それは、ひどく暴力的だったんじゃないでしょうか。学校でも手に負えない不良カップルだったとか…」
「違います」
「では、どんな生徒だったんでしょうか」
教頭先生はじっと私の目を見つめ、黙ってしまった。十秒はそうしていたと思う。
時計の針の音が急に大きくなって、私は目で『答えは?』と彼に訴えかける。それでも反応のない様子にさすがに気まずくなって、私は口を開いた。
「あ、あのっ、教頭先生!莉村の両親は……」
「いま、どう思いました?」
「どうって」
「怖い、と感じませんでしたか?じっ…、と黙ったままの私、怖かったでしょう?」
それは、確かにそうだ。相手は自分の話を聞いていたのか、それとも自分が可笑しくなってしまったのか、怖くなった。
「二人は、そんな生徒でした。誰とも会話をしているところを見たことがありません。誰とも打ち解け合っているのを見たことがなかったんです。彼ら同士、お互いを除いては」
「当時から付き合いが…?」
「はい。退学を決めたのも、二人の駆け落ちが原因でしたからね」
その二人の間に生まれたのが、莉村だったという訳か。人と交わることのなかった二人に、突如として転がり込んだ『他人』。果たして彼らの目に莉村は家族として映っていたのだろうか。
「でも先生、安心してください。莉村君の今後は我々がしっかりと見守っていきますので、どうぞ安心してください」
「はい……」
「浮かない顔ですね。クラスの生徒にはもう伝えたんですか?」
「いえ、それがまだ伝えられなくて」
「長引けば長引くほど、別れは悲しくなるものです。お早めに伝えられた方がいいでしょう、ご自身のためにも」
……はい。
その返事は私の口内に残ったまま、舌の腹で溶けて消えた。
あの日、私は莉村家を訪れ、虐待の事実を指摘した。逆上する莉村夫婦に私は立ち向かった。拳を振るわれようと、包丁を向けられようと、ただひたすら莉村の人生を真剣に考えてあげてほしいと訴え続けた。その訴えを彼らは聞き入れなかった。結局警察を呼び、私たちは署に連行された。あれこれと事実を打ち明け、私の無実は証明された。問題の夫婦は最後まで抵抗したようだったが、やがてつらつらと虐待の罪を告白した。これから裁判所による正式な虐待認定の判決が下されるらしい。
私は、異動となった。異動先は遠い田舎の高校らしい。正当な事由とはいえ、私の身勝手な行動で莉村を危険に晒してしまった。当然の報いだと思う。
「それにしても、先生もその程度の怪我でよかったですな。その、歯」
「ええ、まあ、その……その節については大変申し訳ないことをしたと言いますか」
「全くですな、まさか、生徒を自転車の後ろに乗せて車道を猛スピードで走る、などとは。教師にあらざる行動と言えましょうな」
「……本当にすいませんでしたっ!」
「いえいえ、ぶつかったのが縁石で良かった。まあ、ご自身の歯は折れてなくなってしまいましたが。車両や歩行者にぶつからなくて、幸いでしたな」
「ええ、それはもうさいわいなことりっ―――――」
…ああ、早く入れたいなあ、本歯。
(さいわいなことり 終わり)
さいわいなことり 白地トオル @corn-flakes
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