幸いなことに


 「先生、部活辞めたいんです」


 誰もいない職員室。自席でゆっくりコーヒーをすすっていると、受け持ちの生徒である、莉村りむらが声を掛けてきた。


 「部活を、やめたい?」


 莉村は大人しい生徒だ。私に相談事を持ち掛けてくるなんて、たいへん珍しく思う(そうでなくともクラスの人間に、こんなおじさん先生と話をしようなどという気前のよい輩など皆無なのであるが)。なぜ彼は私に…?こうして向かい合って話すのが新鮮に感じられるくらい、彼と私の間に距離があった。

 

「はい。部活、辞めたいんです。退部届ください」

「いいか、莉村?退部届なら渡してやれるが―――」

「ください」

「いや…おい聞けよ、な?ただな?こういうのは顧問の先生に先に話しを通すもんだ」

「はい、だから一度先生に」

「ばかたれ、俺は水泳部の顧問だぞ?お前、水泳部じゃないだろ…」


 彼は自分の足元をじっと見つめて、私と目を合わせようとしない。


「部活、辞めたいんです」


 莉村は力無くぼそりと呟いた。

 私は頭をポリポリと掻いて、わざとらしく溜息をつく。


「あのなぁ、莉村。お前のおふざけに付き合ってる暇ないんだよ。…ほらっ、ほれ!おっと!見せれないけどな、今日やった小テスト!この採点をしなきゃいけないんだよ。分かるよな?」

「退部届…ください」  

「お前なあ、だから先に顧問の先生に言って来いって」


 そこで私ははたと気づく。莉村って何部だっけ……。担任教師としてあるまじき体たらくである。自分が情けなくなる。ただ言い訳をさせてもらうと、この高校では校則に入部の義務はない。よってどの部活にも属さない、色のない生徒が毎年何人も現れる。途中で退部を決め、自ら色を失う者もいる。部活の種類だって、軟式野球部に硬式野球部、情報技術科学部に情報デザイン部、ライフスタイル研究サークルにヘルシーライフサークル、似たような部活が乱立していて覚えようにも覚えられないのだ。


「お前、顧問の先生と言えば―――――」

 

 私は伸びをして彼に気づかれぬよう、デスクマットの下に敷かれた生徒名簿の所属部活欄を確認する。


 莉村は……と、んあ?

 空欄じゃないか、つまり彼は―――。


「莉村、お前部活辞めたいのか…?」

「辞めたいんです」

「でも、お前……」


「はい、帰宅部です」


 莉村の顔は至って真剣だった。

 こいつ何を言っているんだ。部活に入ってないくせに部活を辞めたいだと。挙句、帰宅部をやめたいなどと馬鹿げたことを言う始末。ふざけてるな、こいつ。


「帰宅部やめたいんです」

「いいかげんにしろ、莉村」

「帰宅部…やめたいんですよ、先生」

「お前、自分が何を言っているのか分かってるのか…?」


 私は彼の肩を掴んで、顔を下から覗き込む。


「先生っ…、俺っ…、帰宅部…辞めたいんです」

「お、お前っ……!」


 莉村の唇は震えていた。その表情は苦悶に満ち満ちていた。無感情の頭頂部ばかり見せられていたせいで、その変わり様に私はすっかり動揺してしまった。


「お、お前…!どうしたんだ……、何があった?」

「先生…、おれ…き、たくぶ…、やめたいんだ」

「ああ、いいからいいから。落ち着け。どうした、何があった」


 私は彼の背中をさすり、落ち着かせようとした。

 その時、彼の背中の手触りに違和感があった。私は眉をひそめて、彼の背後に回りその背中を撫でながら、感触を確かめる。その妙な凹凸を私は凝視した。分からない。しっかり見る必要があるな……。いや、しかし、これはもう……。


「先生、そこは……嫌だ」

「莉村、一応ちょっと背中見せてみろ」

「嫌だ…」

「いいから見せなさい!」

「イヤだイヤだイヤだっ!いぃぃぃやぁぁだっ!!」


 莉村は私の手を勢いよく払いのけ、一歩下がろうとした拍子に尻もちをつく。

 彼が腕を振るう瞬間、見えた。ズボンからはだけたシャツの隙間に、見えた。確かに、見えた。


「先生…おれ…」


 莉村の瞳が左右に激しく揺れる。「いや違う先生は」と呟くと、短い呼吸を繰り返す。なんとか感情を押し殺そうとしているのが分かった。


「莉村、お前もしかして―――」

「ち、違うよ、先生、おれ…、帰宅部やめたいだけなんだよ」


 確かに、見えた。無数のあざと、無数の火傷跡、そして切り傷。

 痛々しい虐待の痕跡、私はひびが入るくらい奥歯を強く噛み締めた。


 帰宅部やめたいんです、莉村の言葉が脳内をよぎる。



「莉村っ……!!!!」



 私は彼の腕を強引に掴むと、怒りに任せて地面を踏みしめ、職員室を飛び出る。

 愛車である、ママチャリの鍵を持って―――――。

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