さいわいなことり
白地トオル
さいわいなことり
「―――――車道には決して飛び出さないように!お前たちが思っている以上に、道路にはたっくさん危険が潜んでいる。車は急に止まれないからな。自転車のスピードの出し過ぎには、じゅぅうぶんに気を付けるように!」
私は教壇に立って、生徒一人一人の顔を確認する。俯いてこちらを見ない生徒がほとんど、だ。
「今回、このような事故が起こってしまったのは非常に心痛ましいが、さいわいなことりっ―――――」
俯いていた生徒が一斉に顔を上げ、無数対になった教室中の瞳が私に焦点を絞る。
「ことり?」「さいわいなことり?」「いま先生…」「なんて言った?」「噛んでた?」「さいわいなことりって何?」「え?なに?先生なんか言ったの?」「いま、ことりって」「どういう意味?」「ことり?」「噛んだの?」
生徒たちが好き勝手にざわめき始める。
「オ、オホンッ!あっあーうんっ?あっあーうん」
……噛んでしまった、のは事実だ。思わぬ形で生徒の耳目を引きつけた私は、気まずそうに咳ばらいをして、静寂を埋めるために喉の調子を確認する。
「幸いなことに、リムラの怪我は浅く、来週には学校に戻って来れるそうだ。今回は軽い怪我で済んだが、いつ大きな事故につながるか分からない。ひとりひとりが交通マナーを意識し、ひとを気遣う行動を取ることで事故はなくなる。よおく肝に銘じておくように!」
生徒はみな俯いていた。もう誰も私の言うことを聞いてない。
「それでは、朝の
「きりーつ」と間の抜けた生徒の声を合図に、三々五々に椅子を引いて立ち上がる。「れーい」と言うと、上から操る糸が切れたみたいに、首をもたげて頭を下げる。
私が教室を出ると、生徒たちはそれまでの様子が嘘みたいに、わっと騒ぎ始める。まるで悪の魔王を追い払ったかのようなお祭り騒ぎだ。実際にはそれぞれが他愛もない話を始めることで、その話し声が大きなうねりとなって聞こえるだけだが、授業中と休み時間のこのギャップには、勤続十年の高校教師と言えど慣れないものなのだ。…先生、悲しい。
それにしても、最近よく会話の途中に噛むことが多い。
原因は分かっている。インプラント治療中の、この下前歯の仮歯のせいだ。無くなった歯の歯茎に
しかし、気持ちが悪い。ずっと自分の歯に何かが挟まっているような感覚。こんな状態で、正常な日本語を話せと言う方が可笑しい。これでも努力はしている方だ。上あごと下あごを大げさに開いて声を出す。そうすると口腔内に空間が生まれ、歯間の異物感が軽減されて、はきはきと話せるようになる。おかげで教頭先生に「最近表情が豊かになりましたなあ」なんて褒められたりもした。顔の括約筋も鍛えられて老化予防にもなるらしい。
と、聞こえはいいが不便な生活を強いられていることには変わりない。
そもそも、私の歯が折れて無くなるようなことがなければ良かったのだ。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
今思えば、それは、全て彼の一言から始まったのだ―――――。
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