梔子

藤枝伊織

第1話

『ハジメマシテ……。ワタシはKA784……プロトタイプでス……』

 人間によく似たその赤いくちびるからは、機械音が溢れた。

 人間によく似たその黒の瞳は白いベッドと、そこに横たわる美しい少女をとらえた。

「ええ、はじめまして、旧式さん。わたしは……いえ、言うだけ無駄かしら」

 少女は静かな声で笑う。嘲りを含んだ笑いだった。

「握手ができないことは許してくださいね。この通りですから。まぁ、その前にあなたに握手がなにかわかれば、の話ですけど」

 そう言い少女は左肩をあげた。白い袖口の下に腕はなかった。かすかな機械音が聞こえた。しかし、それはすぐに止んだ。

「……つまらないわ。やっぱり旧式なのね。お父様ったら、事故なんていいから新型を買ってくださればよかったのに……。しかも黒目に黒髪だなんて、不吉だわ」

 青白い頬を引きつらせ、少女は不平を言う。

 神話によると死神は黒髪に黒目、そして女性の形をしているらしい。

 そう、おそらく少女の目の前にいるモノのような姿。

「まあ、いいわ。あなたが仮に死神だとしても、関係ないわね。……わたしは近いうちに、死ぬもの――」

 少女と対峙している人間によく似たそれは、少女の言葉にも無表情だった。しかし、その口からは吐息にも似た機械音が漏れた。

「ふふ、理解、できないのかしら」

 嘲るように少女は顔を歪めた。困ったように機械音が響いた。

『……ワタシ……はKA784……。マスター……』

「マスターだなんて嫌ね。わたしはアガットよ。そう呼んでくださいな」

 少女は小さくため息を吐き、寝台から半身を起こす。

「旧式さん。わたしは数字で呼ぶのは好かないわ。なにか……、そうね、【クチナシ】なんてどうでしょう。あなた、ろくに喋れないでしょう」

『了解、認識。ワタシは【クチナシ】デス』



       *



「アガット。調子はどうだい? 今日はお前のためにいいものを買ってきたんだ」

 病室に入るなり、わざとらしいまでに明るく言い、三十なかばのまだ若い父親は、寝台の娘に優しく微笑んだ。父親は少女にとって唯一の肉親であった。

「いいもの? なんです、いいものって。……あ、わかりましたわ。香水でしょう、お父様。バラの香りの」

 アガットは右手で身体を支え、起き上がる。

 先日、左腕を失ったばかりだ。服の下には真新しい包帯が巻かれている。しかし、おそらく数時間後にはそれも黒く汚れてしまうだろう。

 アガットの華奢な身体は徐々に病に蝕まれていく。それも四肢が腐り落ちるという難病に。

そしてこの病は、近年発見されたばかりで治療薬はまだない。

 かろうじて、人からは感染しないということが救いだ。だからこそ、こうして父親がお見舞いに来ることができる。

「はずれ。そうか、香水が欲しいのか。今度来るときは香水を買ってくるよ」

「違うのですか。じゃあ、いいものってなぁに。お父様」

 柔らかな金髪を撫でる父の手の下で、アガットは拗ねたような声をあげた。父は娘のふくらんだ頬を見て、静かに笑った。そして、病室のドアに顔だけ向ける。

「ほら、入って来い」

 アガットに対するときの優しい声ではなく、冷たく低い声で、静かに言った。

 ドアが開くとそこには黒い女性がいた。

 黒い髪に黒の瞳。肌はぬけるように白いが、シャツも、パンツも黒い。

「ロボットだよ」

「ろぼっと」

 感心したようにアガットが頷くと、父も頷いた。

「うん。そう、ロボット。これでも旧式なんだよ。見てみな、こいつは無表情だろう。感情もなにも持っていないからね。新型のやつを買おうかとも思ったんだけどさ、事故もあったし……」

「事故……」

 耳についた言葉を鸚鵡返しに発すると、父はなぜか早口で喋りだした。

「あ、アガットは知らないか。ついこの間ロボットによる事故があってね、新型の。ほら、ロボット自身でものを考えることは今までもできたけど、それだけじゃなくて、泣くだとか笑うだとか。……なんか、それが暴走してしまったらしくて、オーバーヒートして、持ち主が火傷したとか。たいしたことはなかったらしい。安心しな」

 どうやら、アガットが怖がっていると父は思ったらしかった。

 実のところ、事故については知らなかったし、こんなに近くでロボットを見たのも初めてだが、父が言った程度のことは知っていた。病院にもロボットはいるからだ。現に感染力の強い病気の診察はロボットがやることが多い。

 父はしきりにアガットの髪を撫でた。

 入り口付近に立っている旧式ロボットは、やはり無表情だった。

 そのとき、唐突にドアが音をたて、見慣れた顔の看護婦がいた。彼女は父に声をかけ、アガットに会釈をして、去っていった。

「看護婦さんに呼ばれちゃったから、父様は少し席をはずすよ。その間、ロボットとお話してな」


       *


 それにしても、父は古代神話を知らないのか。今この国は一神教だが、古代の女性の死神の姿なんて絵画にもよく取り上げられている。それに以前父に神話の本を買ってもらったことがある。

 なのに、だ。死が間近にある娘にこんなロボットを送るなんて。

 しっかりしているくせに、一番重大な、大切なことがぬけている。

 さすがとでも言うべきか。父はおそらく神話については本当に知らなかったのだろう。興味のないことにはとことん冷たい。そういう人間だ。

「クチナシ、あなたは神話を知っていて?」

『いいえ、知りマセん……アガット』

 クチナシは無表情のまま答えた。

「そう、やっぱり。そうだと思っていたわ」

 ほどなくして、父はもどってきた。ベッドのとなりにある小さな丸椅子を引き寄せ、それに腰掛ける。先ほどよりも確実に顔が蒼い。それでも父は明るくアガットに話しかけた。

「そうだ、アガット。ロボットに名前を付けたらどうだろうか。確か、今のは数字だったか。K ……なんだったかな」

 娘の機嫌をとろうと、覚えてもいないクチナシのナンバーを、父は必死で思い出そうとしている。

「いいえ、お父様。たった今付けたところです」

「そうかい。早いな、父様としてはプレッタとかスィヤハとか……」

「クチナシですわ、お父様」

「口なし……。梔子か。クチナシってあの白い花だよな」

 父は名前が気に入らなかったのか、何度もつぶやいた。父はこのロボット【クチナシ】が全身黒いことからか、黒にちなんだ名を付けたかったらしい。プレッタもスィヤハも黒色を表す外国の言葉だ。犬ではあるまいし名前に『クロ』はどうかと思ったが、アガットはそれには触れないことにした。

「そうよ。お父様。だってこのロボットあまり話しをしないでしょう」

 アガットは得意げに胸をそらす。

「ああ、やっぱりそういう意味か。いや、ちょっといじれば、もう少しましに話すようにはなるよ。そうだな、そうしよう」

 父はこめかみの辺りを、指でトントンとたたきながら言う。

「いえ、あまり話さなくても大丈夫ですわ。わたしもそんなにお喋りな方ではないですもの」

 遠慮がちにアガットは言ったが、父の中では決定事項のようだ。冷たい目でクチナシを眺めていた。仕方がなしに父にやってくれるよう頼む。父は視線をアガットに戻し笑った。

「じゃあ、クチナシは連れて行くよ。今からやってもらえば、明日にはできるだろうから。また明日来るよ」

「もう帰ってしまうの?」

「ごめんよ。今日はお医者様とお話に来ただけなんだ。クチナシはついで。アガットも元気そうだし、ね」

 父は、もう一度アガットの頭を撫でると彼女に背を向けた。それに習い、クチナシがひるがえる。

 一瞬、その黒の瞳と目が合った。

 漆黒はまるで泣いているかのように、黒く、光った。


      

 明るく、暖かい光はカーテンの隙間から差し込み、神経質なまでに白い部屋に優しい色彩をもたらした。

 もう昼過ぎだ。

 しかし、いまだアガットは父が去っていったドアを見つめていた。クチナシの濡れたように黒い瞳が脳裏に焼きついて離れないのだ。人工的につくられた機械に過ぎないクチナシに――しかも旧式だ――考えがあるとは思えない。それなのに、あの友人を気遣うようなまなざしはなにだったのか。

「疲れているからよ……気のせい、そうよ、見間違いだわ」

 誰に言うわけでもなく、ひとりつぶやいた。心の隅では気遣ってくれる友人が欲しいとでも思っていたのだろうか。十歳のころならまだしも、もう病室の孤独にもなれた。いまさら、友人など必要もない。

 しかし、クチナシなら感情がないだけいいかもしれない。少しばかり話をする家具だと思えば、あまり気にならない。あの機械音さえどうにかなれば、クチナシの声は静かだったから気に障ることもないはずだ。

 アガットは碧の眼を瞬いた。ため息をひとつ。白い毛布を引き寄せ、顔まで覆い隠す。

ふいに気づいてしまった事実を、眠たくもない体とともに寝かせてしまおうと。

(わたしはクチナシのことばかり考えている……あんな旧式ロボットのことを、わたしが?)

 アガットは唯一の手で自らを抱きしめた。左腕のように失ってしまわれたかと思っていた感情が、もしかしたら自分の中に残っているのかもしれない。

 涙がひとすじ頬を伝った。泣くことすら、忘れかけていた。アガットは毛布を被ったまま、声を押し殺し泣き続けた。


 右手に違和感を覚えた。アガットはおもわず毛布を跳ね除け、指先を確認する。

 大丈夫。まだ、ある。今は、まだ。しかし左手のときもまったく同じ違和感があった。右の腕とこの身体がお別れするのもそう、遠くない。

 ふいに頬に風を感じた。窓が開いている。看護婦が空気の入れ替えのために開けてくれたのだろう。

 部屋の中へなだれ込むかのような鮮烈な夕日を、開いた窓の外に確認した。そのときになって、はじめてアガットは自分が泣きながら眠ってしまったことに気づいた。

 泣いて、寝る。まるで幼児のようなさまを看護婦に見られたかもしれない。その事実はアガットを赤面させるに十分なものだ。真っ白な肌を夕日さながらに朱に染め、アガットは二度とするまいと決心した。

 しかし、眠るのならあのままぐっすりと朝まで寝てしまいたかった。下手に起きてしまったがために、今度はいくら瞳を閉じようにも眠れない。

 冷たく、夜を匂わす風が吹き込んできた。このまま寝たら、風邪を引いてしまう。ひとまず窓を閉めようとアガットは立ち上がる。

 もう少したてばきっと看護婦が窓を閉めに来るとも思ったが、まだ顔の火照りが引いていないてまえ、できれば顔を合わせたくはない。

 丸椅子を引き寄せ、窓辺に肘をつく。来る日も来る日もベッドに横になっていたおかげで、足腰が弱っている。足が腐ってしまえば歩くこともできなくなるというのに。

 窓に右手を伸ばした。空の赤が反射し、アガットの手に茜を映す。

「ああ、きれい」

 アガットは感嘆の声をあげ、手を止めた。そして窓から顔を出す。頬を、額を撫でる風は先ほどより一段と冷たい。それがこの上なく気持ちよく感じた。徐々に西へと落ちていく陽は存在を示すように大きく赤く燃え続ける。世界を焼き尽くして、夕日は沈んでいく。夕に遅れ、それを追って夜が来る。

 夜を司る死神は、朝を司る誕生の神から逃げているのだと古代神話には書かれてあるが、納得がいかない。

 死を嫌うのは生きている者。

 死を迎えた人は、新たに生きることができる日まで、ただ夜の国で深く眠るのだ。ならば逃げる必要はない。

「わたしも……いつかは夜の国へ行くのね」

 アガットのつぶやきは夜の闇に儚く消えていった。

 窓を閉めにやって来た看護婦は静かに踵を返した。



 翌日、黒のスーツに身を包んだ父が病室にやって来た。父の背後には同じように真っ黒な装束のクチナシがいる。

「おはようございます、お父様。クチナシの調子はどうですか」

 父はアガットの声に目を細め、彼女の金糸を撫でた。

「おはよう、アガット。見ての通りだよ。と言うよりも、直したのは『話す機能』だけだからね。あまり代わり映えはしないよ」

 父はクチナシを顎でうながし自らのとなりに立たせた。見た目は、たしかにまったく変わらない。

 アガットがとりあえずといった具合に頷くと、安心したように父も頷いた。

「ごめんよ、アガット。お父様はこれからお仕事に行かなくてはならないんだ。……でも、寂しくはないだろう」

 父は腕時計を気にし、髪を撫で付ける。どおりでスーツなわけだ。

「ええ、わたしは大丈夫よ、お父様。お父様がお忙しいことも知っていますわ。……いってらっしゃい」

「本当に申し訳ない。今度はもっとゆっくりしていくから。行ってくるよ」

 父はもう一度アガットの髪を撫で、名残惜しげに病室から出て行った。

 遠ざかっていく黒いスーツを見送り、アガットはクチナシに向き直った。

「ええっと、こんにちはクチナシ」

『こんにちは、アガット』

 静かな声。そして、あの耳障りな機械音もない。話し相手としては理想的だ。

 真っ直ぐにアガットを見つめる瞳は記憶にあるまま変わりない。あいかわらずの無表情だ。

 沈黙が続いた。こちらから話しかけないとクチナシは喋らないのだろうか。静けさに耐えられなくなりアガットは口を開いた。

「……なにか面白いことはおありかしら」

『なにか』

 クチナシの全く動かない表情に、おもわず眉をひそめてしまった。なにか、があまりにも漠然とし過ぎているのには気づいていたが、アガットとしてはそうとしか言えない。

「あなたはわたしのお話し相手なのだから、あなたが話題を提供すべきではなくて?」

『失礼しました。では、古代神話についてでも』

「あら、この間は知らなかったのではないかしら?」

『はい、たしかに。あなたの興味がおありのようだったので、新しく入れてもらった知識です』

「そうなの。では、話して頂戴。わたしは大人しく聞いているわ」

『はい、【世界の成り立ち】からでよろしいですか』

 頷きかけ、慌ててアガットは首を横にふった。

「あ、いいえ。【夜の国】がいわ」

 クチナシは頷き、ゆっくりと語りだした。

『悠久の昔――』



 夜の女神は、双子の姉である朝の女神に神の国を追い出され、西の果てに夜の国をつくりました。そして夜の女神は、その場所に、命尽きた者たちを迎え入れたのです。狩らざるをえなかった魂へ、安らぎを与えるために。

 


「安らぎ……」

 クチナシの語る古代神話にアガットは引き込まれていた。まるで夜の女神、死神のような容姿を持つクチナシが語る安らぎの地とは、なんて魅力的か。もし、今アガットの目の前に死神が現れ、手を差し伸べたのなら、彼女は迷うことなくその手をとることだろう。

 アガットは目を閉じクチナシの声を聴いた。そうしながら夜の国へと思いを馳せる。いつか、それも近いうちに自分が逝く夜の国。

 美しいところであるといい。

 やがてクチナシが語り終え、アガットはまぶたをあげた。クチナシにもっと近づこうと、シーツに右手をつく。

 うまく腕に力が入らなかった。

 何度か試したがどうもうまくいかない。アガットは自らの隻腕を見下ろした。

「あ」

 右手は肘の辺りまで黒く染まっていた。

 シーツの白さが腕の色を際立たせる。

「は……うふふふ」

 ついにきたかと笑いがこみ上げてきた。それがあきらめなのか、喜びなのかはアガットにはわからなかった。ただ乾いた笑い声が喉から漏れる。ひとつ確実にわかるのは、夜の国へといっきに近づいたということ。

「ふふ、はぁ、はぁ……。ああ、クチナシもう少し聴かせて頂戴。そうね、次は【トリスタン】かしら」

 アガットは体を動かすことをあきらめ、横になった。

 クチナシはアガットの態度にも動じることなく、無表情のまま次の章を話し始めた。

 もしこれが父だったらこうはいかない。世界の終わりのような顔をしてわめき、高齢の医者を幾人もつれてくるだろう。医者にだって治せないものがあるのに。それに治して欲しいなんて思っていない。

 なるようになればいい。

 このまま生きることも、明日命が消えたとしても。

『アンフィア姫は、海神の求婚を断り、恋人のトリスタンと結婚しました。それを知った海神はひどく悲しみ、大洋の底へ潜ってしまいました』

 クチナシの静かな声が唐突にそれまでの思考を破った。リクエストしていながら、前半を聞きそびれてしまった。

 そういえば、これは【トリスタン】。実は怪物であるトリスタンが少しずつ本性を現していく話だった。

 愛し、共に暮らしていた人が本当は醜いことを知ったとき、自分ならどうするのか。そう、アガットは考えずにはいられない。この話ではアンフィア姫はトリスタンを捨ててしまう。アガットはトリスタンが可哀想でならなかった。おそらく、日に日に恐ろしい、醜い姿になるということが、まるでアガット自身のことのように思えるからだ。

『アンフィア姫は恐ろしくなり、ある日トリスタンが寝ている隙に城を逃げ出してしまいました』

「ひどいアンフィア姫」これで終わりかと思い、アガットはあいづちをいれたのだが、クチナシはなおも続けた。



 姫がいないことに気がついたトリスタンは、悲しみにくれ、病気になってしまいます。しかし、彼のことを恐ろしがって誰も看病をしてくれませんでした。ある晩、「どんなかとでもするから城に泊めて欲しい」と女性が城を訪ねてきました。城の人たちは女性にトリスタンの看病をまかせました。実は彼女はトリスタンを哀れに思った樹木の女神だったのです。女神に看病されるうちに、トリスタンは自らの姿が、かつて姫の恋人だったときのような人間の男性になっていることに気づきました。女神は彼を人間にしたのです。



『……そしてトリスタンは女神と幸せに暮らしました』

 クチナシは決まり文句で締めくくった。

「幸せになるのははじめて聴いたわ。いつも姫が逃げ出すところで終わるのかと思っていたの」アガットはクチナシを見上げた。

『諸説あるうちのもっとも適切かと思われるものをお話しました』

「ああ、そうなの。それで……。まぁいいわ。クチナシ窓を開けて」

 窓の外では木々がさやさやと音をたてて揺れている。弱い風が吹いているのだろう。クチナシがカーテンを引くと光が溢れた。まろやかな光はアガットを現世に引き止めるかのように、ただただ優しく、病室を包みこんでいる。やがて開け放たれた窓からそよ風が入り込んだ。それは心地よい暖かさをともない、アガットの意識を眠りへと誘った。

 最近やたらと眠い。やはり、身体が弱ってきているのだろう。アガットはあのまま寝てしまい、目を覚ますとまたもや夕方だった。

 窓はいつの間にか閉じられており、窓の下の丸椅子にクチナシが座っていた。残光に染まるクチナシはとても神々しく、アガットは息を呑んだ。


死神よ、今すぐわたしを連れて行ってくれたらいいのに。


 数日後、アガットの右手は真っ黒に腐り、そうして肉体から離れた。それからというもの、アガットにとっては屈辱でしかない。自分で食事をとることができず、毎回のように食事を運んできた看護婦が彼女に食べさせようとした。

 そのたびにアガットはかんしゃくを起こし、食べることを拒絶した。看護婦が病室を去ったあと、彼女はクチナシを呼ぶ。しつけのいい飼い犬が飼い主から与えられた餌しか食べないように、アガットがクチナシ以外から食べさせてもらうことはない。

 銀のスプーンが、色を失ったアガットのくちびるの先で、それが開くのを待っていた。

「もう、食べたくないわ。美味しくないのですもの……」

 顔をそむけ、スプーンの上にのった緑色の物体から目をそらした。夕食は豆のスープだったらしい。クチナシはアガットにこれ以上食べさせることをあきらめ、スプーンをトレーに置く。

「もう一眠りするわ。……起きたばかりだけれど。また、あとで神話を語って。そうね……【大地の戦い】か、ら……」

 そのあとの言葉は続かず、寝息となって消えた。

 はじめてクチナシに神話を聴かせてもらったときから、ほとんどほかの話はしていない。一度も聞いたことのないものから、すでに知っているものまで、アガットは毎日クチナシに語らせた。

 病室から出ることが叶わないアガットにとって、窓の外は別世界に等しい。そんな話よりも夜の国のほうがずっと身近だから、彼女は神話を好んだ。

 アガットは身じろぎし、重いまぶたをあげた。

「ううん……、まだ、明るいわ。今回はどれくらい寝ていた?」

『一時間三十二分四十七秒です』

「一時間半、ね。まあ、そんなところかしら。……さて、わたしはなにをあなたにお願いしたかしら。ええっと……【永久の夕凪】?」

『いいえ、【大地の戦い】です』

「じゃあ、お願い」

 クチナシが語り始めようと口を開いたそのとき、ドアが音をたてた。

 ドアが開き、そこには目を吊り上げた父が立っていた。

「お父様っ! なぜこんな時間に? お仕事は?」

 しかし、父はどの質問にも答えず、娘の姿を認めるなり、まくしあげるように言った。

「アガット、わかっていたなら教えてくれるべきだったんだ。父様がそういうことを知らないってわかっているだろう」

「なにのこと、お父様」理解できずにいるアガットに父はクチナシを指差した。

「クチナシだよ。黒髪に黒目、黒衣……、まるで死神だと。ああ、こんなもの買うのではなかった。お前に、これではまるで――。ああ、縁起が悪いだろう」

 ようやく父はそのことを知ったようだ。アガットは、小さくため息をついた。

「いいの。お父様。わたしはクチナシが好き」

「いや、こればかりは譲れないよ。クチナシが気にいったのなら、同じタイプの、そうだな、金髪とか茶髪でクチナシそっくりなのを買ってあげよう。だから、クチナシは、廃棄だ」

 はいき。廃棄だとはすぐにはわからなかった。アガットにとってクチナシはとても大切な友人。いや、友人なんて言葉にはあてはまらない、特別なつながりを持つもので。

 話題の中心であるクチナシは椅子に無表情で腰掛けたまま、アガットだけを見つめていた。

「だ、だめ、だめよ。クチナシはわたしの……」

 息ができない。父にこの感情をどう伝えればいいのかもわからない。父はいらだたしげに髪をかきあげる。

「我が儘を言わないでくれ。父様はお前のためを思って言っているんだ」

 父はベッドに近寄りながら、招くように腕を大きく広げた。

「どうせ……どうせ永くは生きていけない。ええ、知っているの。お医者様もそう思っているに違いないわ。わたしのためだとしてもそれも意味のないことよ、お父様。どうせ、もうすぐ死ぬわ。クチナシが死神だとしても、そうでなくとも。だからそれまでわたしは好きに生きるのよ。お父様、わかっているのでしょう。いえ、見ればわかるはずよ。わたしの寿命が残りわずかなことぐらい。それでも、我が儘すら言ってはいけないの?」

 父はアガットの言葉に衝撃をうけたような顔をしていたが、なによりも彼女自身がおどろいていた。こんなことを言うつもりはなかった。そして、なぜ声が震えているのだろう。負けを認めるつもりはない。震えるのは弱い証拠。

「ごめんよ、アガット。でも、これだけは聞いてあげられない。すぐに、新しいのを買ってくるから」父は、低い声でクチナシに立つことを命令した。

「新しいのなんていらない! わたしは、クチナシがいいのよ。連れて行かないでっ」

 しかし、父はクチナシの肘をつかみ、背を向けてしまった。

「聞けないと、言っただろう」

 アガットが最後に見たのは、去っていく父とその後ろについて行くクチナシの背中だった。


 クチナシは行ってしまった。わたしを置いて。

 ああ、両肩が痛む。頭が痛い。胸がくるしい。右の足に違和感がある。


 もう、どうにでもなれ。

 わたしの身体よ。さっさと、全身腐ってしまえ。

 わたしを思いやるふりをして、わたしが唯一大切だと思ったものを引き離したお父様。

「わたしが夜の国へ行ったあと、思う存分『娘を亡くして哀しむ父親』を演じてください」

 涙が止まらない。視界がぼやける。アガットは掛け布団を力なく蹴った。かすんだ視野に、いまだ片付けられていない銀の食器とわずかな食べ残しが映りこんだ。

 クチナシを連れて行かれてしまった今、ものを食べなくてもいいのだろうか。このまずい病院食を。

 そう思うと、くちびるがほころんだ。

 手を伸ばせば、すぐそこに夜の国がせまっている。

 アガットの意識は遠のいていった。



 朝陽に目を覚ますと、となりには点滴があった。それをたどると、アガットへと行き着く。病院食を食べなくてもいいのかもしれないが、生きなくてはならないらしい。ため息を、ここ何日かで数え切れないほどしたため息を、さらにひとつ数えた。起き上がろうとしたが、自らを支える腕も、支えてくれるクチナシもいないためそれはできなかった。

 なにもしたくなかった。なにをしても味気ない。

「クチナシ……」旧式のロボットの静かな声が聴きたくて、アガットは返事を待った。あるはずがないと知りながら。

 梔子の花のように白いカーテンが、否応なしにアガットの孤独を引き立てる。以前はその花の名を持つロボットが開閉をしていてくれたのだ。

「クチナシ、わたしを呼んで。話を聴かせて」

 看護婦があいさつをしながら入ってきた。彼女は真っ白な服を着ている。髪は、アガットよりも濃い金。クチナシは黒かった。髪も、服も、その瞳でさえも。看護婦はカーテンを開き、笑顔でなにか話しかけてきた。クチナシは無表情という表情以外、その細面に浮かべたことはなかった。

 看護婦は眉をひそめた。彼女がなにを言ってもアガットが反応しなかったためだ。アガットは看護婦が入室したときからずっと同じことをつぶやいている様子だった。迷子になってしまった幼子のような顔で発した言葉は、花の名称だった。アガットを担当しているその看護婦には、昨日までいた黒いロボットの名前だということがわかった。病院にはおよそ似つかわしくない不吉なロボット。しかし、アガットが心を許していていたのはそのロボットだけだということも理解していた。

 看護婦はアガットの半身を起こし、両肩の黒くなった包帯を新しいものへと替えた。

 憐憫と愛情をこめたまなざしで彼女はアガットを見つめ、そっと彼女の足にかかった薄手の布団を除ける。

 右足が黒くなりかかっていた。

 看護婦はアガットに見せないようにとすぐに布団で隠したが、無駄な行為だ。アガットは右足の状態を、見えないながらもなんとなくわかっていた。そのうえ、看護婦の心配するような、自分の病気の悪化を知りショックをうけるようなことも決してないからだ。

 アガットは笑った。いつぞやのように、声をたてて笑った。

「夜の国、これでまた近くなったわ」

 看護婦は担当医とアガットの父に連絡を入れるため、ほとんど駆けながら退室していった。




 父は近いうちに見舞いに来るような口ぶりだったが、とうとう右足があるうちに来ることはなかった。アガットが衰弱していくにしたがって病気の進行は早まっていった。

 看護婦から父がクチナシをいまだ処分できないでいることを聞いた。何度か売りに出したが買い手がつかず、また買い手がついてもすぐに返品されたそうだ。一見人間と同じ姿をしているため、粗大ごみとして出すことははばかられる。ロボットを廃棄するのはなにかと面倒なのだと看護婦は言っていた。

 アガットは一日のほとんどを睡眠に費やし、やっと生きていた。ほんの少し起きていても、クチナシのことを考えている。先日から看護婦はよく病室に来て、古代神話を読み聞かせてくれるが、彼女は明るい話しか語ろうとしない。アガットにとっては不服だった。語り方が違う。声が違う。同じ話でも雰囲気が違う。


 ああ、クチナシに逢いたい。


 その晩、眠りについたアガットの前に夜の国が広がっていた。

 彼女は誰にも看取られることはなかった。ただどこまでも白い病室が夜の闇にとけこんでいた。

 

 看護婦はすすり泣きながら、アガットの父にクチナシを連れてくるように頼んだ。

 アガットがただひとり愛したロボット。彼女が夜の国へあこがれた最大の理由。それがクチナシだとわかっていたから。








『アガット……クチナシ……私はクチナシ。私は――』

 はじめてクチナシがその瞳に映したように、アガットはベッドに横たえている。しかし、もうあのときのように彼女は起き上がることはない。旧式であるクチナシを嘲るように笑うこともない。

 左手は、はじめて会ったときにはすでになかった。しかし、そのときには右手も右足もあった。少しずつ、少しずつ、病は進行し、美しい少女から、腕と足を奪っていった。

 クチナシはアガットの右肩に触れた。昔、あんなにも白かった肌は腐り、変色していた。

『アガット……アガット……アがっと、あがっと……』

 クチナシはただ彼女の名前を呼び続けた。祈るように、願うように。ただ寂しく、ただひっそりと――。

 白い病室にはひとりの、かつて美しかった少女と、彼女にかぶさるようにして夜の女神の姿をした黒いロボットがあった。

 看護婦は少女のために泣き、少女の父は少女のために少しばかり涙を流し、自らのために大いに哀しんだ。

 病室の闇は全てを理解し、それぞれの悲しみを抱擁していた。



End.

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梔子 藤枝伊織 @fujieda106

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