砂の涙ー30

 翌日、アルファは武居家を訪れた。梨咲がいた時と同じブレザーを着ていた。幸江夫人は彼の来訪を喜んだ。

「お嬢さんに会いにきました」

 夫人は彼の意を汲んで梨咲の部屋に通した。

 あの時のままだった。壁にかかっている肖像画はまさしくアルファが描いたものだった。この部屋には二人の真実が残されていた。

 彼は自分が描いた絵に向かって「ごめん」とつぶやいた。

 梨咲はまだこの部屋にいるのだろうか? あの日のように俺の胸に飛び込んで来るのだろうか?

風が吹いていた。少女と過ごした日々が鮮明に甦った。

 そこに奈美が来た。クリーム色のセーターを着てジーンズを穿いていた。

「先生、いらっしゃい」

 リビングルームに招かれた。彼女はいつもより快活に見えた。

 ミルクティーとタルトが出された。

 アルファはそれを飲みながらさりげなく奈美に尋ねた。

「最近、三倉邸に出かけた? 」

「そういえば、行ってないわね」

 嘘を言っているとは思えなかった。

「美海さんて、バレーしていたのかな? 」

「何言っているの。舞踏会でいっしょに踊ったじゃない。踊りの絵だって何枚も描いたくせに」

 幸江夫人は二人の会話を楽しそうに聴いていた。

 武居家の次女は

「でも、美海さん、そんなに踊り上手じゃないけどね」と笑った。

『奈美の記憶は入れ替わっている。X先生のときと同じだ』

 アルファは頬杖をついた。

 若い娘は彼の絵を褒めた。

「先生の描く絵ってすてきだわ。ロマンチックというか、夢があるというか」

 少しも嬉しくなかった。心の中で叫んだ。

『三倉家に飾ってある絵は、俺が描いた絵じゃないのだ! 』

 あそこにあったのは、姿形は似ているが優希のように魂が抜かれた絵だった。俺は夢を見ていたのか? 違う。あの部屋には美海が撃った弾痕が残されていた。そうだ。悪魔があの絵から魂を抜いて別世界へと持っていったのだ。昨日会ったお嬢さんは、恋に身を焦がす乙女ではなかった。妊娠の兆候もなかった。抱いてキスしたら驚いて泣き出したろう。美海がもう一人の美海と入れ替わったのだ。

 恋人を悪魔と呼ぶのはつらかった。しかし、そうとしか考えようがなかった。妖怪の女王の居場所を探すしかなかった。

 アルファは立ち上がった。

「もう一度、梨咲ちゃんの部屋を見せてください」

 夫人は了承し、彼を独りにしてくれた。心遣いがうれしかった。

 部屋に行きベッドに座った。医療器具はなかった。それ以外の物は、壁も、本棚も、リカちゃん人形も、鏡台やレースの飾りもそのままだった。夫人は今でもここに梨咲がいるような気がすると言っていた。彼もそうあってほしいと願った。

「梨咲、君が残した想いは真実だよ。色あせることはない」

 肖像画を見つめた。その時、梨咲の笑顔が動いた。

『先生、元気を出して。負けないで』

 そう語りかけているようだった。

「そうだな。へこたれてはいられないな。君が病気と闘っていたように俺は戦わなければならない。君が描いてくれた戦士のような俺のデッサンに負けないように」

 拳を握りしめた。

「梨咲ちゃんに元気をもらいました」

 そう言って彼は武居邸をあとにした。幸江夫人は笑顔で「またいらしてね」と手を振った。奈美も手を振っていた。



        イカロスの歌


 彼は太陽と風とともに寝ていた。子ども心がよみがえり、翼を広げて大空を飛び、宇宙をめぐる。

 その子は光よりもはやく空を飛び、天地創造にまで思いをはせる現代のイカロスだった。そして翼を焼かれて地上に落下した!

 彼が落ちた原野にあふれ出たのは、透き通った悲しみの湖だった。空しさも滅ぼしてしまうほどに青く澄んだ湖。

 そこに漣が立つごとに、一つの世界が生まれ、一つの世界が滅する。その波の美しさは例えようもない

 それは愛の涙を集めた聖なる墓場だった。しかし、それが愛であるがゆえに幾度も蘇る生誕の泉でもあった。



 アルファは翌日、思い出の海岸を訪れた。優希がプレゼントしてくれたオレンジ色の襟巻をして黒いコートに身を包んでいた。潮風が体温を奪いとるように吹き抜けていく。

 梨咲と訪れたのは半年前の夏だった。陽射しが砂浜を焦がしていた。裸足で少女を背負って歩いた。あのとき、梨咲は後ろから俺を抱きしめて『死にたくない』と言った。そうだ。もっと生きたかったのだ。それなのにそれが叶わなかった。つらかったろう。くやしかったろう。それなのに生き残った俺はいったい何をしていたのだ。

 砂浜に腰かけて海を見つめた。波が寄せては返している。遠くに船影が見えた。心を洗うように絶え間なく波の音が響いていた。

 美海のことを思った。ヴィーナス、殺人鬼、そして悪魔。俺が恋した女だ。美しい幻想であってほしかった。しかし、X先生は死に、梨咲は死に、白石は死に、優希は眠り姫となっていた。この事実は否定できなかった。とすれば、美海を否定することもできなかった。今でも愛していた。彼は拳を握りしめて砂を叩いた。

「畜生!

 畜生! 」

 何度も何度も叩き続けた。

 彼女は砂の涙を流していた。

「畜生!

 畜生! 畜生! 」

 あの砂の涙と戦わなければならない。あの砂の涙を越えなければならない。

 戦士の魂が甦った。

「立ち上がれ。負けるな。勇気をふりしぼれ」

 潮風に向かって拳を突き出した。ビュッと鋭い音がした。

「負けない。絶対に負けない」

 前蹴りをし、左右の正拳を突き、回し蹴りをし、回転後ろ蹴りをした。砂の上の跳躍に体勢が乱れた。

「だめだ。こんなことでは勝てない」

 絵筆を剣に持ちかえる決心をした。そんなもので妖怪に勝てるかどうかは分からない。しかし、最善を尽くすしかない。

 そう覚悟して砂浜を歩いた。

 背負った少女の重さと温もりとが思い出された。

「梨咲

 梨咲

 梨咲 」

 波が足元を洗った。白い泡が砂に染み込んで消えていく。しゃがんで砂を握りしめた。水を含んだ砂は指の間からは零れなかった。

 波で手を洗い再び歩いた。

 梨咲の声が蘇った。

「先生。永遠ってあるのかしら? 」

「わたしはあると思うの。よくわからないけどあると思うの」

「だれにも言ってないけど、わたしね。この絵を見たとき、天使さまが見えたの。くっきりではないけど、透明な感じだけど、天使さまがほほえんでいたの。天使さまがわたしとこの絵を出会わせてくれたの」

 希望。

 そうだ。俺はあの絵の中に青空を描いた。あの青空は俺の希望だった。

荒れ狂う嵐に橋が架かっていた。その橋はどんな困難に耐えていた。その橋の向こうにあの青空は見えていたのだ。

 梨咲はあの青空に天使の姿を見たという。その言葉を信じよう。俺も希望につながる橋を架けなければならない。彼女の分まで強く生きなければならない。

 雲間からのぞいた太陽から陽ざしがこぼれ、海面がキラキラと銀河のように輝いていた。

 アルファは空を見あげ太陽に向かった。残りの力をぜんぶ使って優希を救済しなければならなかった。

 浜辺から青空へ数十羽のカモメが飛び立った。無作為ながら秩序を感じさせる鳥の飛翔だった。

「時が来た」

 カモメにまぎれて天使リウの声がした。


               *


 天使は、若者たちに手紙を送った。

『前略 X氏の事件・白石透さん、喜多原優希さんの件につき、お知らせしたいことがあります。次の日時・場所においでください。

 十二月二十九日午前0時 裏磐梯秋元湖畔の家

 行合 覚  様

 桜木拳士郎 様

 アルファ  様

 追伸 くれぐれも内密にお願いします。

                          ホワイトシールド リウ』

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砂の涙 日野 哲太郎 @3126

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