砂の涙ー29
夕闇が辺りを覆っていた。
二つの笑顔があった。喜びの笑顔と悲しみの笑顔。三倉邸の門が二人の分岐点だった。そこを境にアルファと美海とはそれぞれの道を歩き始めた。
曲がり角でそれを見ている人影があった。優希だった。セーラー服の上に着たオレンジ色のコートを風になびかせ、笑顔で彼を追って駆け出した。その時、門の脇で泣いている人がいた。美海だと思ったが頭から二本角が生えていた。深い嘆きのあまり変身の術が解けていたのである。
優希は血の気が引いて後退った。手にしていたケーキの箱が落ちた。
「見たな、 小娘! 」
逃げ出そうとしたが、足がかってに動いて大倉邸に入った。
悪魔の目は怒りで真っ赤に燃えていた。
「いや、いや! 」と叫んだが、妖怪の女王は手をかざし少女の魂を吸い取った。
優希は石畳に倒れた。生かしておくわけにはいかなかった。自分のもっとも見られたくない姿を見られたのだ。銃口を定めた。その時少女にバリアが張られた。放たれた弾丸が鋼鉄に弾かれたように跳ね返った。
「おやめなさい」
天使リウだった。純白の衣が風に靡いていた。
リウは白石の死を知り、彼に魔の手が伸びたことを察して、急遽三倉邸に駆けつけたのだった。
悪魔は「畜生! 」と吐き捨てて姿を消した。
リウは優希をそっと抱え、外へと連れ出した。通行人が倒れている少女を見つけ、救急車で病院に搬送された。ポケットに学生証が入っていたので、そこから家族が呼びだされた。
アルファが喫茶店カノンに到着した時、店内は騒然としていた。覚から優希の異変を知らされた。彼は続けざまの衝撃に気を失いそうだった。喜多原夫妻たちはすでに車で病院へと向かっていた。彼も覚たちとともに病院へ急いだ。楽しみにしていたクリスマス会がお通夜のようになった。
病院で愛結子は号泣した。拳士郎はかたわらでそんな彼女をしっかり支えていた。覚やアルファも到着して状況を聴いた。優希の容体については医師にもはっきりしたことは分からなかった。身体に特別な異常はなかった。しかし、魂が抜けたように意識がなかった。点滴で栄養をとり、ただ寝ている植物人間の状態だった。彼女が倒れていたのは三倉邸の前だったという。今のところ命に別状はないという診断だったので両親を残しそれぞれが家に帰った。若者三人はタクシーで愛結子を大河道場へ送った後、拳士郎の部屋に集まった。
覚は、今回の事件については自分にも責任があると考えていた。優希に三倉邸が危険な場所であると知らせておくべきだった。彼女を守ろうとしていたことが、逆に彼女を危険な場所に追いやってしまった。彼は自分の認識の甘さが許せなかった。
拳士郎は愛結子が号泣する姿を初めて見た。彼女の悲しみを和らげるためにも優希を救済しなければならなかった。覚の推理が正しければ美海は悪魔である。三倉邸で何かがあった。彼は戦いが近いのを感じ、拳を握りしめた。
アルファは頭が混乱して壊れそうだった。彼にとって優希は兄想いの妹のようだった。その子が三倉邸の前で倒れていた。彼女を意識不明にしたのは美海なのだろうか? もしもそうならば、今度こそ俺は彼女を許せるだろうか?
覚は、しっかりとメガネを掛け直し、口火を切った。
「俺は優希ちゃんに三倉邸が危険な場所であると知らせなかった。認識が甘かった」
彼の顔には後悔がにじんでいた。しかし、泣いているどころではなかった。毅然として話し出した。
「優希ちゃんは三倉邸でアルファを待っていた。そしてアルファが美海さんと別れてから、おそらく優希ちゃんは美海さんに会ったのだ。そこで何か見てはいけないものを見た。だから口封じのため魂を抜き取られた」
拳士郎は「見てはいけないものとは悪魔の姿か」と言った。
「そうだ」
覚は無言でデッサンをアルファに見せた。鋭い線、正確なタッチ、その人の内面までも抉るような素描だった。一目でそれが白石の絵であることが分かった。そこには彼が描いた絵とはまったく違う美海がいた。冷酷非情な悪魔だった。しかし、それはアルファが最後に描いた白い服の肖像画と似ていた。
『あの絵から愛を奪えばこんな顔になる。美海は白石さんを俺よりもっと天才だと語っていた』
天才画家の眼力は疑えなかった。彼女はX先生や白石さんを殺したことについて沈黙していた。あの沈黙はやはり事実の肯定だったのか。
『ああ、美海! あの時、あの銃で、俺を殺してくれればよかったのに! 』
アルファの嘆きは深かった。しかし、天使の心が一筋の光を残していた。
「もしもそれが事実なら・・」
言葉が途切れた。覚と拳士郎は耳を澄ませて彼の答えを待った。
「俺が行って確かめる。
そしてそれが事実なら、俺が優希の魂を取り戻す」
これ以上自分たちのことで周りに迷惑はかけられなかった。美海と刺し違えても優希を救出しなければならなかった。
覚「俺も行く」
拳士郎「俺もだ」
アルファには友人たちの支援が心強かった。
「すまない。だが、はじめは俺を行かせてくれ。そして一時間後、俺が出て来なかったら、その時は頼む」
若い戦士たちは顔を見合わせて頷いた。
翌日の夕刻、若者達は三倉邸に向かった。
拳士郎は懐に短刀を、覚はベルトに鉄扇を、アルファはポケットにジャックナイフを忍ばせていた。アルファはいつもの服装だったが、拳士郎と覚は戦いに備え、動きやすいように武道着を纏い、スニーカーを履き、その上にいつものコートを羽織っていた。
三倉邸の門の近くで彼らは腕時計を確認した。時計の針が16時を指していた。1時間後には暗くなる。17時までに戻らなければ、その時は覚や拳士郎も三倉邸に侵入する予定だった。
アルファが門の中に入ると詩乃がいた。
「あら、先生。いらっしゃい。またお嬢様にご面会ですか。ご熱心なこと。今、呼んできますからね」と気さくに話した。
顔形は詩乃だったが、『彼女はこんなにおしゃべりだったろうか』と不審に思った。別邸に向かうとその形がいつもより小さく感じられた。子どもの時に見た建物が、大人になって見た時に小さく感じるのと同じだった。画家はそこに足を踏み入れ、呆然と立ちすくんだ。彼が描いた絵がいつものように壁に掛かっていたが、そこに美海はいなかった。そこに描かれていた令嬢は魔法が解けたように凡庸な表情で微笑んでいた。
美海が来た。アルファの衝撃は大きかった。そこには壁に掛けられた絵に描かれているままのお嬢さんがいた。
彼女は白い衣服を着ていたが、「先生。いらっしゃい。また、絵を描いてくださるの? 今度はもっと美人に書いてね」と微笑んだ。
彼にはその微笑みが天使の嘲りのように思われた。
あまりのショックに口元が緩んだ。
「あら、何がおかしいの? 」
彼は冷めた口調で、
「あの壁にある絵は、僕が描いたのですよね」と確認すると、
美海は驚いたように一瞬口をあけたかと思うと、声を立てて笑い出した。
「まあ、先生ったら、自分で描いた絵をお忘れになったの?
若いのにもの忘れがひどすぎますよ」
彼は頭を抱えた。
「そうそう。きのう門の前に若い娘さんが倒れていたらしいの。警察の方が家にも来て事情を聴いていったわ。怖いわね」
まるで他人事のようだった。
これ以上、一人でここにいても無駄だった。
彼はエンジのコートを持って立ち上がった。
「あら、もうお帰りになるの? コーヒーだけでも召しあがっていってくださいな」
「また、次回に。今日は人と会う約束があるものですから」
「そうですか。今度おいでになる時は、もっとゆっくりしていってください」
アルファは帰り際、壁をジッと見た。鏡に蜘蛛の巣のような罅があり、中央に小さな穴があった。近づいて触った。弾痕だった。
「どうなさいました」
「いえ、何でもありません」
お嬢さんは、「あら、どうしたのでしょう。こんなところに罅が入っているわ。修理してもらわないと」と言った。
彼女が見たのは鏡に椅子の角が当たったような罅だった。
別邸を出た。
心の中で狂ったような叫びが上がった。
『あいつは美海じゃない! 顔も形も似ているが美海じゃない! ただの平凡なお嬢様だ。
俺は夢を見ていたのか? ああ、美海はどこへ消えてしまったのだ! 』
門から出て来たアルファに友人たちは駆け寄った。
彼は当惑していた。
「美海がいない。美海が消えてしまった」
覚はメガネを押さえ「どういうことだ」と訊いた。
「美海はいた。しかし彼女は昨日まで三倉邸にいた美海ではないのだ。
君たちは梨咲の葬儀の日、美海に会ったね」
「ああ」
「それじゃ、来てくれ。確かめてくれ」
三人はそろって三倉邸の正門を通った。
本館までは凡そ六〇メートルの距離があった。左の林の方角には別邸が、本館の右隣にはホールと広い庭があった。路の脇には糸杉の並木が茂っていた。
庭の見回りをしていた詩乃が遠くから声をかけた。
「あらあら、どうなさったの? 何か忘れものですか? 」
三人は立ち止まってホームメイドを迎えた。
アルファが「そこで友人達と会ったので、ちょっと紹介しておこうと思いまして。玄関先でいいのです」と言うと
「そうですか。ちょっとお待ちを」と言うなり本館に入って
「お嬢さん! お嬢さん! ちょっと玄関までおいでください! 」と叫んだ。
若い娘が現れて
「あら、また来てくれた。今度は三人で」と口に手を当てて笑った。
アルファ「そこの道で会ったのです。紹介しておこうと思いまして」
覚「僕が紹介してくれと頼んだのですよ。梨咲さんの葬儀の日、お見かけしたことがあったものですから」
「そうでしたか。梨咲さん、ほんとうに残念でしたね。お若いのに。奈美さんもかわいそうでした」と同情の表情を見せた。
拳士郎が突然パッと右の手の平を差し出すと、彼女は「キャッ! 」と箱入り娘のように叫んだ。手の平にタコができ、指のつけ根が血豆で赤黒くなっていた。
覚「そんな手で握手は求められないよ」
拳士郎は「失礼」と懇ろに会釈した。
アルファは淡々と二人を紹介した。
「こちら行合覚、K大の学生。
こちら桜木拳士郎、調理人です」
令嬢は嬉しそうに「おもしろいお友達をお持ちですね。先生にまた絵を描いていただくことがあったら、いっしょにおいでください。ただジッとしているのは退屈なのですもの」と述べた。
覚「そのときはぜひ」
そして若者たちは三倉邸をあとにした。
歩きながら話した。
拳士郎「かわいいお嬢さんだな。でも、あれは俺が見た美海さんではない。彼女はもっと恐ろしい美人だった」。
覚は「あれなら優希ちゃんは嫉妬しないな」と言って振り向いた。
アルファは呆然自失の体だった。
友人は彼の肩を支えて歩いた。
「対策を考えよう」
そうは言っても手掛かりをすべて失った。彼らは羅針盤を失った水夫のようだった。
夕焼け雲が真っ赤に染まっていた。カラスが鳴きながら飛んでいた。からりと晴れた寒空に奇妙な幻影が広がった。
暗雲が立ちこめ、風花がちらつくなか都市が異常な増殖を始めた。その形態は巨大なピラミッドにも似てその裾野は見えないが、その頂上はいくつもの国と組織とが統合することで明確な三角の意匠となり、その中央の闇には恐るべき魔の実体が亡霊のように垣間見えた。
それは西の空をまたぐように浮かんだ巨大な一つ目だった。キプロスやオージンを思い出すまでもない。その表情を形容するのが困難なくらいに不気味な化け物の目だった。その正体が善神なのか、悪神なのか、判断はつかなかった。
その目は、瞳というにはあまりに大きな瞳孔を悲しいようにも嬉しいようにも光らせていた。それが恋人の憂いのようにも見えたのは思い過ごしではなかった。しかしその目には、神の清らかさとは相容れぬおぞましい呪いの痕跡があった。
妖怪、あるいは悪魔と形容せざるを得ないモノノケ。それは野蛮な破壊簒奪者というにとどまらない。もっと異様な悲しみを秘めた魔の片目だった。それを見た者は髪の毛から爪先に電流が走ったような金縛りにあう。あまりに巨大な眼光は、それだけでも充分に恐怖を煽ってしまう。
その睫毛の一つひとつはメドゥサの髪のようであり、その蛇が剣のように尖り、あるいはうねりながら赤い舌を炎のように吐いていた。
「妖怪などに負けてたまるか!」
若者たちは拳を握りしめた。
一つ目の黒い色彩は、プリズムを通したように片端から虹色に変化してパチパチと火花を散らし始めた。それが巨大な光のシャワーとなって世界を照らしたが、それが徐々に紅い色彩を増して血の流れを透視したように目は深紅に変化した。
目脂は硫黄のように流れ、涙は漆黒の影となり、様々の形象となって世界を黙示した。さまざまの人間生活の血となり肉となり、敵する者の目と骨とを挫いて、その威力を世界の隅々まで行き渡らせている悪魔の支配機構・・その洞察に間違いがなければ、未来はあの一つ目の中に回帰する。
その幻影は、あまりに大きな地球ぐるみの演劇だった。暗い河の淵に青ざめた人の群が堕ちていく。
待て! 方向が違うのだ! あの一つ目を超えて進まなければ、地上にユートピアが訪れることはない。イエスの十字架は闇の向こうにある光の世界を暗示しているではないか? 度重なる試練を経て、やがて人々は気づくに違いない。何が真実なのかということに。
カタルシスの時代は続く。だが、希望を捨ててはならない。神が示されている愛と永遠の世界を、世界の終わりが来ても信じ続けよう。
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