砂の涙ー28

 アルファは翌日が待ち遠しかった。アパートに帰るとすぐに布団に潜り込んだ。また美海に会えるのだ。そう思うだけで胸はときめき、大蔵に殴られた痛みも和らいだ。

 彼女の芝居によって令嬢が妖怪の女王だという疑いは消えた。『覚は間違っているのだ。美海は悪魔なんかじゃない。大倉家のご令嬢だ。俺が愛する美海なのだ。』愛が男を愚かしくしていた。

 覚と優希は下宿屋大楽の外にいた。アルファの部屋の灯りは消えていた。クリスマス会に誘おうとここを訪れたのだが、風はまた通り抜けてしまった。

 覚は寒さを避けるようにモスグリーンのコートのポケットに手を突っ込んでいた。

 少女はセーラー服にコートを纏っていたが、つまらなそうに石を蹴った。

「もっと早く伝えておけばよかった」

 白石の事件などもありごたごたしていた。それでもささやかなクリスマス会は彼を偲んで行われることになった。明日がその日だった。

「今回は、私も出ないことにしようかな」

「優希ちゃんが来なきゃ寂しいよ」

「覚さんは出るの? 」

「多分」

「多分? 」

「何もなければね」

「そう。結構忙しいのね」

「そうでもないけど」

 優希にはX先生殺害事件に関連する話は何もしてなかった。彼女は天使でも悪魔でもなかった。普通の、本当にいい娘だった。そんな少女をややこしい事件に巻き込みたくはなかった。しかし、何も話さないでいたことは間違いだった。優希もまた明日の行動予定を話してなかった。彼女は三倉邸へ行き、片想いの若者を待ち伏せしようとしていた。そして彼がそこから出てきたら腕を組んで喫茶店カノンに連れて来ようとしていた。いっしょにクリスマスを祝うために。覚に言おうとしたが、優しい兄のような彼に話すのは恥ずかしかった。思いやりや羞恥心が災いとなり、二人の思惑は交差してしまった。

「優希ちゃんはもうじき高校卒業だね。

 どうするの? 」

 スターになるとは照れくさくて言えなかった。

「大学に行くのかなあ。お母さんは行けというけど。

 私の場合、家や大龍の手伝いをしていてもいいし、気楽なの」と笑った。

「覚さんは、大学へは行っているの? 」

 そういう質問は一番困った。

「まあまあね」

 これは行ってないという意味だった。親への言い訳をどうしようか、それだけは考えていた。ただ、今はX先生の事件解明が第一だった。

 身体の芯が凍えるように寒かった。

 優希は夜空を見上げて溜息をついた。その息が外灯に白く映えた。

「覚さんはいいわねえ、アルファさんの友だちで。私も男に生まれて友だちになればよかった」

 このような告白は二番目に困った。胸が切なくなるからである。『俺はアルファになりたかったよ。そして優希ちゃんに好かれたかった』心の中でそう思った。

「帰る。さよなら」

 少女は手を振って、水溜りを避けるように駆けて行った。

「さよなら」

 彼はその後姿を見えなくなるまで見送っていた。


               *


 翌日、アルファは三倉邸へと向かった。

 出会いから丁度一年が過ぎようとしていた。

 美海は別邸にいて壁に掛かっている自分の肖像画を眺めていた。彼と初めて出会った時と同じ黒いドレスを着ていた。

 アルファはいつもの白いポロシャツに薄茶のブレザーを着ていたが、シャツのボタンは外れていた。

 詩乃は「こほん。こほん」と咳払いをし、挽き立てコーヒーと八つ切りにしたメロンをテーブルに置いた。いつもは付いているスプーンがなかった。

「ごゆっくり。どうぞ」

 心なしか老婆の目が赤くキラリと光ったような気がした。

 美海は「不思議ね。ここにある絵を見ていると飽きないの。ずっと見ていても飽きないの。まるで魔法がかけられたみたい」と言った。

 アルファは「君が僕に魔法をかけたからだよ」と答えた。

 令嬢はふと誤解されそうな発言をした。

「あら、あなたには魔法はかけてないわよ。ありのままのわたしを見せただけ」

 そう言って視線を逸らし、メロンを手に取り、漆黒のソファに凭れ、果肉を指でつついた。汁がしみ出して指にからんだ。黒いドレスから胸の谷間が見えていた。

「それが魔法さ。

 君は、そのままで、自然が生んだ奇跡だよ」

 美海はさりげなくお礼を述べた。

「うれしい。

 あなたはいつもわたしを喜ばせてくれる。

 ありがとう」

 アルファは二人の距離が恨めしくなった。すぐにでも彼女をこの手で抱きしめたかったが、三倉大蔵の叱責があった翌日なのでそれは控えた。彼に見張られているかもしれないと思っていた。

「昨夜は父が、ごめんなさい。痛かったでしょう」

「へっちゃらさ」と笑った。

 でも、頬に青痣ができていた。

「今日は、私が話さないと・・」

 美海は人差し指についた果汁を唇で吸い、メロンを置き、赤いハンカチーフで指を拭った。それから、挽き立てのコーヒーを一口飲んで話し始めた。

「落ち着いて聴いて。

 わたしは外国へ行こうと思うの。そこで子どもを産んで育てたいの。誰も知らない異国ならわたしが子どもを育てられるわ。

 どこでもいいの。環境が良くて子育てができるところなら。お父様はそれを許してくれた。でも、あなたと行くことは許してくれないの」

 ハンカチをテーブルに置いた。淡々とした口ぶりだった。

 アルファは、彼女が渡航するのはよいことだと思った。でも、それが離れ離れになることならば耐えられなかった。

 沈黙が続いた。

「あなたと行きたい。でも、無理なの」

 投げやりになっているようだった。彼には答えが一つしか見つからなかった。しかし、それを口に出せずにいた。

 美海はそれを察するように立ち上がった。

「一緒に逃げたい。貧しくてもいいから、一緒に生活したい。

 でも、日本のどこに逃げても父の手からは逃れられないわ。最悪の場合、あなたに危害が及ぶかもしれない。

 でも、あなたと一緒に海外で暮らすのは、生活していく自信がないわ。いえ、それができたとしても、父の手から逃れることはできないでしょう。海外で見つかれば、あなたはもっと危険だわ」

 四面楚歌だった。一緒に死にたいと思った。しかし、新しい生命を宿している恋人を道連れにすることなどできなかった。

 別れを認めるしかなかった。しかし、それは心臓を引き裂かれる想いだった。どうせ死ぬのなら、彼女のそばで死にたかった。

「僕は君と離れられない。無理なのは分かっている。

 でも、離れられない」

 美海も別れたくなかった。しかし、自分の本当の姿は、妖怪の女王であり、世界の歴史を陰で操る悪魔だった。その大きな立場からすれば、アルファとの恋など取るに足らないものだった。別れは初めから覚悟していた。これは休暇だった。自分が誕生して以来、自分が自分に許した唯一のプレゼントだった。

 しかし、それは思いがけない成果をもたらした。懐妊だった。まさか自分に子どもが授かるとは思わなかった。彼との愛が本物だったため生命の神秘が扉を開けたのだ。これ以上の福音はなかった。これ以上は何も望めなかった。悪魔は自分の子の父親となる彼を殺さずにすませようと大芝居をうって留学させようとした。ところが承諾しなかった。だから、今度は自分が海外へ行くというシナリオで別れようとしていた。でも、彼は離れられないという。嬉しかった。しかし、もう邪魔だった。離れられないというのなら殺すしかなかった。

 悪魔は苛立った。愛している者を殺害することほど狂おしいものはない。ミウにも烈しい独占欲はあった。彼のすべてを自分のものにするために殺してしまうという選択肢もあった。しかし、生まれて来る子どもに私はお前の父親を殺した殺人鬼なのだよとは言いたくなかった。妖怪の女王の冷酷さが試されていた。別れを承諾させるしかなかった。それを認めないなら、殺すまでだった。懐には銃が忍ばせてあった。

「僕はどうすればいい? 」

 美海はアルファがもっとも聴きたくない言葉を口にした。

「別れましょう」

 男は俯いて頭を抱えた。

「わたしはあなたを愛している。これからもあなたを愛したように他の人を愛することはないわ。

 でも、別れましょう」

「本心なのか? 」

「本心よ」

「どうしても別れないと言ったら? 」

「その時は・・」

「その時は? 」

「殺すまで」

 令嬢はアルファに冷ややかな刃のような眼差しを向けた。その刃に愛が傷ついて彼女の目から、透明な細かい白砂のような涙が流れていた。

「砂の涙とは、

 君が流す涙だったのか? 」

 この世でもっとも悲しいもの・・と考えて、愛しさが込み上げてきた。殺害を予告されても愛していた。

 立ち上がった。

「僕が、その涙を乾かしてあげるよ 」

 アルファは美海を抱きしめようと近づいた。

「来ないで 」

 懐から銃が取り出された。

「来ないで! 」

一瞬足が止まったが、彼は微笑して近づいた。

 バァーン!

 空気を揺るがすように弾丸が発射された。

 弾丸は耳を掠るように後ろの鏡壁に当たった。鏡にビシッと蜘蛛の巣のような罅が入った。

 その時アルファには、X氏殺害の記憶がまざまざと蘇った。

 この音だった、X先生を撃ったのは。

「君が・・

 君が、X先生を殺したのか? 」

 美海は否定しなかった。

 男はがくんと膝を屈した。

「君が妖怪の女王なのか? そして白石さんも殺したのか? 」

 真っ直ぐに恋人を見つめた。

 硝煙の臭いが漂っていた。

 彼女は視線を逸らすように銃をおろし壁際へと歩いた。

「彼は天才だったのよ。あなたより、もっと」

 それ以上は何も言わなかった。無言の響きがすべての事実を肯定していた。

 異様に静かな時が流れていた。時間が虚無の牙に噛まれて血を流しているようだった。令嬢が口にした詩句を思い出した。『時の虐殺。それがもし可能なら、それだけで、地獄よりもいっそう地獄的な幻想がわたしをとらえる。同一の単調音。それさえも消えた白々とした明るさ!』

 アルファは叫んだ。

「その銃で、俺を殺してくれ! 」

 女は静かに振り向いた。銃口が男に向けられた。

 彼は足元をふらつかせながら立ち上がった。

 美海は見た。恋人が来る。死を望んでやって来る。彼をこんなにも深く傷つけてしまった。それなのに彼はやって来る。彼を私に近づけているものは何なのだろう。

 冷静に引き金に指を掛けた。今度は外さない。

 しかし、向こうから近づいて来たものは、自分のもっとも望んでいたものだった。ささやかな希望の光。孤独を忘れさせる愛の光・・ミウには何か聖なるものが自分を救いに近づいてくるように思われた。

 後退って壁に背を押し付けた。

「来ないで 」

 手が震えて止まらなかった。

 来る。

「いや

 いや、いや! 」

 美海は長い黒髪を振り乱して慄いた。息ができなかった。

 男の手が肩に触れた。

「ああ、だめえ! 」

 時空を切り裂くような悲鳴が上がった。

 悪魔は孤独を壊されて心臓を掴まれたようだった。銃が指から滑り落ちた。

 暗闇に日が差した。アルファは美海を抱きしめて唇を重ねた。愛が溢れ出た。悪魔は夢中で彼を抱きしめた。

「ああ、なんて馬鹿な人! 愛しい人!

 殺すことさえできない」

 すべての力が抜けて行くようだった。やすらぎが全身を覆った。天の世界に誕生して以来、初めて感じた魂の休息だった。

『負けた。この私が、男の愛に。

 でも、嬉しい。人間も捨てたもんじゃない』

 砂の涙が一筋の愛の涙に変わった。

 美海は優しく微笑した。

「あなただけは、ほんとうにわたしを愛してくれた。

 決して忘れないわ」

 悪魔が天使になった。その表情はアルファが最初に描いた肖像画の美海だった。

しかし、すぐにその顔は隠れた。

『私はX氏の殺害者。君の友人も殺した。もっと深い罪業を胸に抱えた悪魔なのよ。貴方は私のほんとうの姿を知らない。貴方にもその姿は見せられないわ。私は人類の歴史を陰で操り、神々の世界を征服しようとしている女王。私の孤独は宇宙の闇ほど大きいの。貴方は砂の涙を愛の涙に変えてくれた。しかし、それは一瞬の光。私は貴方と別れるしかない』

「今日は帰って。門まで送るわ」

「また、会えるね」

「ええ」

 アルファは強く美海を抱きしめた。

 悪魔は熱い抱擁に応えながら、心の中で『さよなら。愛しい人』と呟いた。

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