砂の涙ー27
アルファは翌日も三倉邸を訪ねた。
美海はその姿を自室のカーテンの隙間から見ていた。彼が別邸に向かうのを確認すると、サッとカーテンを閉めた。
別邸はがらんどうだった。鍵は開いていたが、そこには誰もいなかった。ここに一人でいるのは初めてだった。詩乃も姿を見せなかった。
そこには美海との思い出が今も熱く渦巻いていた。肖像画をひたすら描いていた時、キャンバスを越えて美海を愛した日々、ぬくもりは身体にもこの広間にも残っていた。今すぐに会いたかった。暗くなるまで待った。それでも彼女は現われなかった。取り残されたような気持ちだった。空調機が停まっていた。寒さが身に沁みた。何かあったのかもしれない。心配だった。
覚は、美海がX先生を殺し、白石を殺した女王だという。信じられなかった。しかし、強く否定もしなかった。どうしてだろうか? 彼女に魔的なものを感じていたからではないのか? 自分が誰よりもそれを知っているのではないか? 広間には彼が描いた美海の絵が飾ってあった。このような美人はこの世のものとは思われなかった。異界から訪れたヴィーナス・・それが悪魔であり、美海だったのか?
彼が考える悪魔とは『ファウスト』のメフィストフェレスだった。あるいは聖書のサタンだった。人を誘惑し破滅させる者だった。剣を抜き倒さなければならない相手だった。彼女には確かにそれだけの魅力があった。しかし、アルファには美海と戦うことなど考えられなかった。むしろ彼女と戦う者を相手に戦うだろう。彼女が剣を抜き後ろから背中を刺したとしてもかまわない。そのときは血の花びらに包まれて死ぬだろう。彼にとってそれが愛することだった。
しかし、美海がX先生や白石さんを殺した犯人だとすれば、俺はそれを許せるだろうか? それを安易に許してしまったならば、人間として大切な何かを失ってしまう。しかし、許さず彼女と別れたならば、それ以上に大切なものを失ってしまう。俺は銃で頭を撃つしかない。やはり美海は悪魔か? 俺を滅ぼすものなのか?
三倉邸の本館を見るとそれが炎のように揺らいで見えた。行くしかない。首には彼女の部屋の合鍵がお守りのようにぶら下がっていた。この目で確かめるしかない。そう思って鍵を握りしめた。
サンダーはアルファに慣れて吠えなくなっていた。彼は人目を忍び、館に入る通路にたどりついた。ノブを回すとスッと扉が開いた。誰もいない。静かに歩いたが、泥棒のようにこそこそとはしなかった。部屋が近づくにつれ足早になった。若い男は鍵を開け、ノブに手をかけてドアを開いた。
「美海」
灯りが点いていた。その瞬間、心臓が止まるかと思った。
正面に三倉大蔵が立っていた。彼は犯罪者を睨みつけるように鋭い視線を送った。白髪が混じったオールバックの髪が乱れていた。舞踏会で見た温厚な表情とはまるで違っていた。立ち尽くしている彼に主人は「ようこそ。掛けたまえ」と勧めた。
ベッドには美海がいた。その近くに奈美もいた。
武居家の次女は「あらあら、とんでもないところにいらしたわね」と言った。
彼らはそれぞれにガウンを纏っていた。そこは王女の宮殿のような部屋だったが、とても場違いのところに来たと思い、アルファは黙って出て行こうとした。
「待ちたまえ。警察を呼ぼうか? 」
恫喝するような大蔵の声だった。
「お父様、やめて! 」
娘の制止に、いくらか声色を和らげて「まあ、掛けたまえ」と促した。言われるままに白い円卓の前にある椅子に腰掛けた。まるで裁判所の被告席についたようだった。
「美海、おまえのいう通りだったな。
アルファ君はやって来ると」
彼女は自分の到来を予測していた。だから、主人は『ようこそ』と言って迎えたのだ。
三倉会頭の声が検事であるかのように響いた。
「これで二つのことがわかった。
一つ、君は美海とともにこの部屋に来たことがある。
一つ、君は不法侵入を平気でおこなう馬鹿者だ。
それだけではない。娘の身体にまで侵入した。言い訳はできるかね」
身が竦んだが、率直に答えるしかなかった。
「いえ」
令嬢の父はグラスを持ち、歩きながら語った。強い憤りを押し殺していた。
「通常であれば、使用人を呼んで叩きだすところだ。警察を呼ぶのは手ぬるい。手を回して君を社会から抹殺するところだ。わかるね」
「はい」
主人は若い男が意外に落ち着いているのに興味を持った。
「君には絵の才能はありそうだ。私も美海の絵には感動した。
でも、ただそれだけだ」
アルファにも彼の考えは理解できた。彼が持っている富も地位も名声も社会を動かす人脈も情報も学識も何もないということだ。
「君はいったい何を持っている? 」
答えは一つだった。
「僕は何も持っていません。
でも、美海さんを愛しています」
一番聴きたくない言葉だった。令嬢の父は顔を顰め鬼の形相をした。
「愛があれば何をしてもいいのかね。親の承諾もなく火遊びをして、子どもまでこしらえた! 」
声を荒げ、怒りが迸った。
「愛とは身勝手な行動ではない。相手を尊重することだ。美海の将来を考えれば、こんな破廉恥な真似はできないだろう! 」
大蔵は腹立ちのあまりグラスを床に投げつけた。それはバリンと砕け散った。奈美が小さく「キャッ! 」と声をあげた。
「おまえは娘を幸せにできるのか? 」
アルファはあくまで率直だった。
「わかりません」
父親の怒りは頂点に達した。
「わかりませんだと。そんな中途半端な気持ちで抱いたのか? 」
大蔵は髪を振り乱して若者に近寄ると、左手でその襟首をつかみ右の拳を固めて殴り倒した。椅子が倒れ床に叩きつけられた。反抗はしなかった。立ち上がって彼の前に行ききっぱりと言った。
「なぐってください。
でも、僕は美海さんを愛しています」
「こいつ、まだ言うのか」
令嬢の父は拳を振り上げたが、美海はその腕を両手で抑えた。
「お父様。やめて!
殴るならわたしを殴って!
わたしがアルファさんをこの部屋に誘ったの」
「この馬鹿者めが! 」
彼は吐き捨てて、背を向けるとブランディーの瓶を取って口飲みした。
アルファの口元からは血が流れていた。美海は彼に寄り添ってそれをハンカチで拭い、それから父のそばに行き、その背中に身を寄せた。
「ごめんなさい。お父様がわたしを愛してくださっているのはよくわかっているの」
まるで夫に寄り添う夫人のようだった。
しばらくすると大蔵は落ち着きを取り戻した。奈美はベッドの脇で震えていた。
三倉グループの会頭は、冷静に問題解決の整理をしているようだった。
「私は君を許したわけではない。
だが、美海とその子どものことは考えなければならぬ」
彼は椅子に座った。それから裁判官であるように告げた。
「結婚は認めぬ。
君は留学したまえ。金はわしが出す。
子どもは、隠して産んで、しっかりした里親にあずける」
美海は「赤ちゃんはわたしが育てます」と言った。
「おまえに何ができる。働きながら子育てなどできるのか? 支援などせんぞ! 」
アルファは美海に寄り添った。
「僕が働きます」
「君はアメリカへ留学するのだ。娘を本当に愛しているなら、勉強して、国際人として働けるだけの教養をつけてこい。立派に大学を卒業したら、わしがよい就職先を斡旋する。そこで企業を経営するだけの才覚があると見たならば結婚を許そう。娘を愛しているならば、これくらいの条件はクリアできるはずだ」
それが不倫の裁きならば夢のような話だった。一瞬心が揺れた。会頭の指示に従い、必死に勉強してこの家の跡を継ぐ。この上ないシンデレラボーイストーリーだった。しかし、名位寿福のために自分を捧げる、それは彼の人生ではなかった。何より自由と愛とを欲していた。しがない絵描きでよかった。ただ、愛する人と生まれる子どものそばにいたかった。彼女たちを自分の手で守りたかった。自由に絵を描き続けたかった。
「お断りします。
僕は美海さんのそばを離れません」
主人は失望したようだった。
「だから、それが甘いというのだ。愛だけで生活できるほど人生は甘くない。絵を好きに描いているだけで生活などしていけると思うのか? 」
大蔵は首を横に振り、我を取り戻したように語り続けた。
「いや、たとえ君が一流の画家になったとしても、結婚は許さぬ。美海は三倉家の跡取りだ。私の娘なのだ。絵描き風情にはやれぬ。私が愛するたった一つの希望なのだ」
父親は哀願するように訴えた。
「お願いだ。別れてくれ。金ならいくらでもくれてやる。一億でも、二億でも・・百億でも・・」
アルファが沈黙を続けていると、決然と拳を握りしめ、威を振るう虎のように円卓を叩いた。
「それでも別れぬというのなら、よいか! どんな手を使っても、わしがおまえたちの仲を引き裂いてやる! 」
大蔵の怒りは本物だった。そのまま放置すれば銃でも持ち出しかねなかった。
「お父様。きょうはこれくらいで許して」
そう言って父に近づきその頬にキスをした。怒りに震えていた大蔵だったが、愛する娘のキスにふと苦笑いを浮かべた。
美海はアルファに告げた。
「ありがとう。あなたの心は嬉しいわ」
彼の手を固く握った。
「奈美。今夜は泊まっていって」
友人の顔に喜びが溢れた。
「アルファさん。きょうは帰って。明日、いつもの離れで会いましょう」
若者は大蔵を見たが、主人は背を向けたまま最後まで視線を合わせなかった。
令嬢は腕を組んで彼を玄関まで送った。
「どうして留学の話を断ったの? 成功のチャンスなのに」
そんな言葉が洩れた。
頑強な使用人が二人の後からついて来た。彼は恋人を抱きしめたかったが、堪えた。
令嬢は別れぎわ「See you! 」と言った。
アルファも「See you! 」と言った。
美海が部屋に戻ると大蔵は跪き、一匹の妖怪に姿を変えた。
詩乃だった。
「女王様。あんな具合でよろしかったでしょうか? 」
「結構よ。下がってよろしい」
魔法使いは姿を消した。
奈美は目を輝かせた。
「美海さん、すごいのね」
令嬢は若い娘にキスしてベッドに押し倒した。
「女の喜びを教えてあげる」
ガウンが脱がされた。
『小娘よ。一夜の夢を与えてあげる。後できれいに記憶は消してあげるから。
さ、おいで』
奈美は身を震わせて美海の愛撫に身を委ねていった。
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