砂の涙ー26

 風が冷たかった。雲が流れていた。夕闇が迫っていた。

 大河道場に息を切らして駆けつけた覚は、拳士郎を見つけると外へと連れだした。彼は道着の上にコートを羽織ってついてきた。

 覚は指で服をつまみ汗ばんだ身体に空気を送り込むようにしながら、誰もいない河川敷の石段に座った。拳士郎が隣に座るとデッサンを見せた。

「白石さんが描いた絵だ。だれに見える? 」

「不気味な絵だな。だれだい? 」

「三倉美海だ」

「まさか」

 覚はメガネに手をやり、声を押し殺すように語った。

「女王様だよ」

 拳士郎は混乱した。

「美海さんが、X先生を殺した魔物だというのかい? 」

 彼は、気を落ち着けて解説した。

「どうしてX先生を殺害した魔物が俺達を殺さなかったのか?

 妖怪たちは女王がX先生を殺したことをほのめかしていた。女王っていったい誰? ‥‥その後、三倉美海はアルファの前に現れた。女王が三倉美海に姿を変えて現われたのだ」

「なぜ? 」

「惚れたのだよ」

 拳士郎は覚の推理にぽかんとした。

「惚れた? 」

「笑うな。笑うなよ。

 そう考えればすべての疑問の糸が解けるのだ。

 妖怪たちと戦ってわかっただろう。やつらはとんでもない力を持っている。それなのにX先生殺害の目撃者であるわれわれがどうして殺されなかったのか? X先生を殺した女王がアルファに惚れたからだよ。俺たちは女王の恋のお陰で撃たれなかった。代わりに女王は部下に命令して俺たちを見張らせた。その見張りの妖怪たちと俺たちは戦った」

「ああ、ポチに救われた」

 拳士郎は苦々しく語った。それを屈辱と感じているようだった。

 覚はつづけた。

「アルファは肖像画を依頼され、絵を描くために三倉邸に出入りしている。女王は彼を誘惑し、自分の恋をかなえようとしているのだ。このところアルファの様子はおかしかった。しかし、三倉美海は、X先生の殺害者であり、妖怪たちの女王であり、悪魔だ。悪魔との恋がハッピーエンドになるはずがない。

 白石さんは彼女が悪魔であることを見破った。だから、殺されたのだ。X先生は病死と報道された。しかし、本当は銃で撃たれた。白石さんは事故死だという。でも、彼はこの絵を俺に見せた直後に死んだ。タイミングがよすぎる。おそらく魔の手が伸びたのだ。

 アルファがご令嬢を悪魔だと気づけば、彼も殺される 」

 拳士郎は黙って覚の推理を聴いていた。それは正しいものに思えた。X先生の殺害、妖怪との戦い、武居梨咲の葬儀のとき美海をみて異常に美しいのに何かが違うと思ったのは、彼女が悪魔だったから。

 そう言われてもう一度白石の書いたデッサンを見ると、不気味ではあるが見方によっては美しかった。そこにはどこか三倉美海の面影があった。

 拳士郎は叫んだ。

「アルファが危ない。

 こいつは殺人鬼だ! 」

 覚は、ぜんぶを話し終えた後で

「ただし、証拠はこの絵だけ。正しいと結論づけられない」と語った。

 三倉邸に乗り込んでいくのは無謀だった。不法侵入で豚箱行きになる。警察にこんな説明はできない。アルファに話して止めるしかない。しかし、彼はその夜アパートには帰らなかった。


 朝方、部屋に戻ると、覚と拳士郎が厚着姿でドアの前にいた。

 アルファは疲れた様子だった。薄茶色のブレザーの上に羽織ったエンジのコートがよれよれに見えた。友人達にも美海との関係が深いものになっていることが察せられた。

 部屋の主は画材を片づけて座るスペースを作った。

 覚はそこに座ると心配そうに「君は美海さんが好きなのか? 」と訊ねた。

 彼は腰を下ろしながら「ああ」と、ぶっきらぼうに答えた。

 否定されなかった。

 友人は畳に頭をこすりつけるように土下座した。

「すまない。俺がもっと早く気づくべきだった。

 心を落ち着かせて聴いてくれ」

 覚は自分の推理を伝えた。白石さんが描いた美海の絵、それは悪魔の姿をしていた。その絵から推測するに三倉美海はX先生を殺害した女王だ。その女王である悪魔が君に一目惚れした。彼女は自分の恋を叶えるため三倉家の令嬢に化けて君を誘惑している。俺たちが戦った妖怪は悪魔から命令された監視役だった。そして白石さんは彼女が悪魔であることを見破ったために殺された。

 アルファは驚いたような素振りを見せたが、反応は意外に冷静だった。

「君は危ない綱渡りをしている。今後、三倉邸には出入りしないでくれ。美海さんとは縁を切ってくれ! 」

 覚は真剣だった。

 アルファは友人の忠告を静かに聴いていた。彼が自分を心から思っていることがひしひしと感じられた。でも、心の中では『もう遅い』とつぶやいていた。『美海との間には子どもまでできているのだ。彼女がX先生を殺した女王かどうかはわからない。しかし、白石さんを殺したとは考えられない。いっしょに悲しんでくれていたのだ。彼は間違って奇妙な幻影を見たのだ。あれはあまりに不幸な事故だった』

 若い画家は言った。

「すこし休ませてくれ」

 友人たちは部屋を出た。ドアが閉まった。

「重症だな」

 拳士郎の一言に覚は答えた。

「信じるしかない」


 アルファの異常に誰よりも早く気づいていたのは喜多原優希だった。でも、それをずっと口に出せずにいた。

 初めは三倉家の令嬢と彼との恋はあり得ないと思っていた。しかし、胸騒ぎはしだいに現実味を帯びてきた。美人なお嬢さんに嫉妬しているのか、はしたないと思った。でも、それだけではなかった。彼は少し痩せたようだった。初めは梨咲のせいだと思った。しかし、瞳の輝きからそれが令嬢のせいだと知った。少女と接していた時、彼は青空のように澄んだ瞳をしていた。しかし、その後、夕焼けのような熱い瞳に変わった。奇麗だった。鏡を見て私のような目をしていると思った。女のように恋する瞳、しかしそれは自分を見てはいなかった。誰を見て瞳を輝かせているかは明白だった。その疑いが日一日と強くなった。しかし、『行かないで』とは言えなかった。覚にも相談できなかった。そこで自分で調べる決心をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る