第6話
悠は今、ある小学校の門の前に立っている。その建物を見るだけで、悠の頭には様々な記憶が蘇った。勿論、いい思い出ではない。むしろ本当なら忘れてしまいたいはずの、つらい記憶だった。
悠は目を覚ました後、とにかく、昔の記憶を取り戻そうと、あの小学校へ行く決意をした。土曜日の学校に電話で見学の許可をもらって、ここまで来た。
ーでも、記憶を取り戻すことが、本当にハルを救うことになるんだろうか。
悠がそう疑問に思いながら、門に手をかけたその時、
「あれ?はるくん?」
唐突に名前を呼ばれて、悠は振り向いた。
するとそこには、一人の女の子が立っていた。心底驚いた顔で、悠を見ている。
「…って、西条さん?!」
なんでここに、と続けようとすると、ゆいが先に口を開いた。
「はるくん、本当に来てた」
「…え?」
「あ、いやなんでもない!」
ゆいはそう言い、慌てた様子で手を前で振った。
それから、一つ咳払いをすると、
「はるくんは、なんでここに?」
と落ち着いた声音で聞いた。
悠も、なるべく落ち着きを払って答える。
「おれは、この学校、母校なんだけど、見学しようと思って。あ、許可はもらってる」
ゆいは、そうなんだ、と頷き、そして一呼吸置いた後で、
「…それ、私も行っていいかな」
そう、強く意志を込めて言った。
二人は今、職員室に向かう階段を上っている。許可をもらった先生に、挨拶に行くためだった。
あの後、ゆいは、「私もここ卒業したんだよ」と言い、また、「クラス違ったけど、はるくんとは、ちょっとだけ話したことある」とも言った。
悠はここに来るまでに、記憶の底を何度もひっくり返したが、ゆいのことはまるで思い出せなかった。
諦めてゆいに「ごめん、覚えてない」と言うと、ゆいは、
「そっか。…でもその方がいいのかも」
そう返して、少し寂しそうに笑った。
職員室で、担当の先生にゆいのことを話し終えると、ゆいは「保険相談室って入れますか」と言った。
どこに行こうか迷っていた悠は、ゆいについて行くことにして、二人で行く先までの廊下を歩いた。
その間二人には、昨日のやり取りの気まずさが、今になって戻っていた。二人とも視線の置き場に困って、ゆいは窓の外を、悠は足の先を見つめた。
しばらく黙って歩いた後、先に口を開いたのは悠だった。
「実はね、いとこのお下がりって、嘘なんだ」
それから悠は、ことの経緯を話して、嘘をついたことを謝り、ゆいは何度か首を頷かせながら、静かに悠の話を聞いていた。
ちょうど話し終えたところで、二人は保険相談室についた。鍵をドアに差し込みながら、ゆいは最後に
「ありがとう、話してくれて」
と安心したように笑って、ドアを開けた。
ゆいは中に入るなり、奥にある黒いソファーに座った。
「私ね、昔ここで、はるくんに助けられたんだよ」
ゆいは、はるくんは、覚えてないんだよねと、また一度笑ってから、
「私も、いじめられてたの」
そう、顔に影を落として言った。
ある日の放課後、ゆいが帰ろうとして、下駄箱の中を覗くと、靴がなかった。
ゆいは、またやられた、とため息をつき、昇降口の周辺を探した。しかし、下駄箱の上や、植木鉢の後ろを見つつも、ゆいは自分の靴がどこにあるかを、実はもうほとんど分かっていた。
男子トイレ。それが、ここ一ヶ月ほどの、決まった隠し場所だった。
ゆいは、周辺にないことを確認すると、職員室に向かった。男子トイレにあると、さすがに自分では取りに行けないから、男の先生に頼むしかない。
ノックをして、担任の先生を呼ぶ。
ゆいは、びしょびしょに濡れた靴を持って帰る時と同じくらい、先生に「靴、なくなりました」と言うこの瞬間が、たまらなく悔しかった。
先生に、保険相談室にいなさいと言われ、ゆいはそこで先生が来るのをじっと待っていた。
しばらくして、ドアが開く音がした。先生にしては早いと思って、ドアの方を見ると、そこには知らない男の子が立っている。
どこかで見たことあるような、と思っていると、その男の子は「あ、いた」と言ってそのまま中へ入り、まっすぐゆいの方へ向かって来た。
ゆいが、誰?と聞く暇もなく、その子はゆいの目の前へ来ると「これ、君のでしょ」といって、一足の靴を差し出した。
受け取って見ると、それは、たしかに自分のだったが、それよりもゆいは、その靴が全く濡れていないことに驚いた。
どうして、と聞くと、
「昼休みにさ、男子が、女子たちに渡されたこれを持っていくのが見えて、あの、その…」
「…男子トイレ?」
「…うん、そう。だから追いかけて、何してんだって言って、取り返したんだ」
そう言って彼は、照れ隠しのつもりなのか、ボクシングのジャブを、二発空中に打って、笑った。
「誰のか分かんなかったから、先生に聞いたら、ここにいるって言われて」
んで、来た。男の子はそう言って、また笑っている。
ゆいの目には、その笑顔がとても眩しく映っていた。
ゆいは、いじめを、かわいそうと思われるのが嫌だった。しかし、ゆいに優しくする人はみんな、そういう目でゆいを見ていた。
その度にゆいは言いたくなる、私はかわいそうなんかじゃない。だって、私は落ち込んでない、悲しくもない、負けてもない。だから、私はかわいそうなんかじゃない。
しかし彼の笑顔は、ただ純粋だった。テレビのヒーローはこんな感じで笑うのかな、とも思った。
ゆいにはそのことがたまらなく嬉しくて、必死の思いで言った。
「ありがとう」
すると彼は「いやーどういたしまして」と、わざとらしく左手で頭をかいている。
今一度頭を下げようとした時、しかしゆいは、男の子の、めくれた左の腕の袖から、青黒いあざがのぞいているのに気づいた。
「そのあざ、どうしたの?」
すると男の子は、やべっ、という顔になってから、
「ちょっと転んじゃって」
と言って、あはは、と笑った。
それは、ゆいのよく知る、作り笑いだった。
「私思ったの、なんであんな風に笑える人が、作り笑いなんかするんだろうって」
ーほんと、自分を見てるみたいだった
ゆいが、男の子に名前を聞くと、”安藤ハル”と答えた。その名前とあざで、ゆいはようやく思い出す。
ーこの子、二組でいじめられてる子だ
それからゆいは、ハルに何度も問い正したが、しかしハルは、転んだだけ、と答えるばかりで、結局そのまま帰ってしまった。
「あの女の子、西条さんだったんだ」
悠が言った。
「覚えてたの?」
悠はうん、と頷き、またその後に起こる出来事を、ゆいが語るのに乗せて思い出していった。
「次の日、何か私に出来ることないかなって、はるくんのこと見てたんだけど、そしたら私のより、ずっとひどくて」
ハルはその日の昼休み、教室で寝ていたところを、山田たちに体育館裏に連れて行かれ、そこで20分くらい、いつも通りの”素手バット”をやらされた。
「ボール当てられてるときも、ただ見てるしかできなかった」
チャイムが鳴り、山田たちが帰った後、ハルも、またあざが増えた腕をさすりながら教室に戻ろうしたところ、昨日の女の子が、体育館の角に立ってこちらを見ているのに気づいた。
「はるくんがこっちに来て、せめて何か、声をかけてあげられないかなと思ったけど」
女の子が、自分の腕を見ていると分かると、ハルはとっさにあざを隠して
ーまた転んじゃった
と言って、笑った。
「その笑顔を見て、私すごく悲しくなっちゃって。同情とかじゃなくてね、ただ、ああ、私は何もできないんだなって」
ハルのその寂しい笑顔を見るなり、女の子の目にはみるみる涙がたまっていった。そしてー
「はるくんに作り笑いさせてしまう自分が、泣きたいほど情けなくて、でも、作り笑いをしなきゃいけないはるくんのことを思うと、もっと哀しくて、それで気づいたら」
ー嘘つき
女の子は、一言そう呟やくと、校舎の方へ走り去ってしまった。
思い出ノートができたのは、その日の夜のことだった。
ゆいはお腹の前で手を強く握り、前のテーブルを見つめて、涙をこらえる声で、言った。
「私、はるくんにひどいこと言っちゃった」
悠は、ゆいの視界の外で静かに首を振る。
「ずっと、謝らなきゃいけないって思ってた。それでも全然話しかけられなくて、高校で一緒になってからも、全然言い出せなくて」
ゆいは手で涙を拭った後、ソファーから立ち上がると、悠の方に向いて、「ごめんなさい」と、深く頭を下げた。
「西条さんは、悪くないよ」
確かに、ゆいの言葉がそれからのハルの人生にどれほど影響したか分からない。でもそれは、ハルが本当に”嘘つき”だったからだ。つまり、ゆいは事実を言ったに過ぎない。
悠が言うと、ゆいは顔を上げて話を続けた。
「私ね、ずっとどうしてあんなこと言ったのか分からなかった」
ーでもね
「昨日やっと気づいたんだよ」
校庭の隅の、あの小さな流し場で。
「昨日、はるくんの話を聞いて、また作り笑いしてるのが分かって、やっぱり、私は頼りにならないんだなって悲しくなって」
それから一呼吸おいて、
「気づいたら、また”嘘つき”って思ってた」
ゆいはそう言うとまた、ごめん、と頭を下げた。
「私、きっとあの時もただ、はるくんのために何かしたかった、はるくんに頼って欲しかった」
そして再び、顔を上げたとき、ゆいは、笑っていた。
「はるくんの本当の笑顔が、見たかった」
ーハル、聞こえるか
俺と君は、もう”はる”のようには生きられなかった。
君は”はる”とは違う自分のことを、「偽善者」と呼び、”はる”を取り戻すことで、また人と関わろうとした。
俺はそれを諦めて、人と関わるのをやめた。
俺は今まで、君が言った、「全部自分のためなんだ」という言葉を、ずっと十字架にして生きてきた。
でも、その言葉は、果たして本当なのだろうか。
君はゆいを助けたことについても、偽善だったと言うかもしれない。でもゆいは、君の中に確かに”はる”を見ていた。
また、それは、俺と君が思うほどの罪悪なのだろうか。
君は、ゆいのように「君のために何かしたい」という人がいたら、どう思う。それでも、”君が”、”君のために”、生きることを罪だと思うのだろうか。
例え”はる”になれないのだとしても、ゆいのような人がいてくれれば、君と俺は、生きていけるんじゃないか。
「西条さん」
突然呼ばれて、ゆいはびっくりして、悠の顔を見た。
「はい!なんでしょう」
ーこれが君の救いになるのかどうかは分からないけど、
「ともだちになってください」
ゆいは、もちろん、と言って、笑った。
僕とぼくとボク あずき @azukisakuramoti
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