第5話
思い出したくない思い出というものを、人は誰しも持っていると思う。悠にとってはそれは、転校先の学校で過ごした6年生の一年だった。
そして、今悠たちが立っているのが、そのメイン舞台である「6年2組」の教室。
黒板の前にしゃがみ込んで、悠は震えながら、横に立っている小学生を睨んでいた。
「…何してくれてんの」
悠は、もうこの一年のことを思い出すことはないと思っていた。
はるはそれには答えず、「あれ見て」と教室の中央を指差した。
悠が恐る恐る目をやると、そこには、フードをかぶって、机に突っ伏した少年がいた。
また周りの生徒は、まるでそこが爆心地であるかのように、少年から離れておしゃべりしている。その中のある子は、少年の方をちらっと見たかと思うと、鼻をつまんでクスクスと笑った。
悠は、その光景を目の前にするだけで、再び吐き気がして、口を押さえた。その背中をはるが優しくさする。
「これはひどいね」
はるも、苦しそうに胸を押さえて言った。
爆心地にいる少年、それは、小学6年生の悠、”ハル”だった。
ハルは小6のとき、いじめにあっていた。そのきっかけは、皮肉なことに、ハルが大好きだった野球だった。
ハルは、転校から7月の途中までは、まだ平穏な日々を送っていた。
その人柄の明るさのおかげか、四月中にはもうクラスに溶け込んで、5月のクラス会では、前の学校と同じように、色々な学級の役割を引き受けた。
ハルは、誰も立候補のない役を選んではいたものの、今振り返れば、この時点で「調子に乗っている」と思う生徒も少なくなかったのだと思う。
一方ハルは、地元の野球チームには、あまりなじめていなかった。メンバーの15人はほとんど全員、小学一年生からの古株で、その輪に溶け込むのはハルにとっても簡単なことではなかった。
事態が急変したのは、7月13日。野球の大切な公式戦の前の日のことだった。
監督から、唐突にレギュラー変更が言われた。一番ショートを、それまで務めていた宮野に変わって、ハルが任された。
宮野も古株の一人で、実力はハルとほとんど変わらない。それゆえ、その変更をよく思わないメンバーは多かった。
最初は、ユニフォームを隠すなどのいたずらだった。それが夏休みの間に、シューズやグローブなどのあらゆる道具に「やめちまえ」と書かれるようになって、最後は、
「あのさ、俺らってずっと一緒にやってきてんだよね」「正直宮野の方がうまいし」
「空気読んでくんないかな?」
そう、直接言われて、ハルは野球をやめた。
不運だったのは、ハルのクラス「6年2組」に、その野球チームのキャプテンがいたことだった。
彼は夏休みが開けると、クラスの中の、ハルのことをよく思わない人と結びついて、同じようなことを、「学校くんな」に変えて行った。
持ち物を壊してしまうまではいかなかったけど、代わりに言葉のレパートリーは増えていった。
「転校生のくせに、調子乗ってる」「偽善者が」「いい子ぶるなよ」
時には、こんな会話もあった。
「なんかあいつ、みんなに好かれようって必死だよね」
「ね、なんかむしろかわいそう(笑)」
その言葉たちは、一定の真実を伴っている分、「死ね」とか「きもい」よりもよっぽどたちが悪かった。
時間が経つにつれ、クラスのほとんどの生徒が共感を示すようになり、最後には、ハルと話す人は、誰もいなくなってしまった。
悠の吐き気が治まってきたところで、二人の左にあるドアが開いた。そこから、6、7人の男子の集団が入ってきて、先頭の坊主頭のやつが、
「あ、転校生いんじゃーん」
と大きな声で言った。
その声で、悠と、机に突っ伏しているハルの肩が同時に跳ねる。
その集団は真っ直ぐに、ハルの机に向かっていった。同じやつが、ハルのフードをはがしながら、
「ねえ遊ぼうよてんこうせい」
と言うと、取り巻きも後に続いて
「何で寝てるふりしてるの?」「今日も人気者だねー」と言う。
ハルはゆっくりと顔を上げる。そして、引きつった笑いを作って言った。
「うん」
「こいつまた笑ってんだけど、きもっ」
その言葉で、周りからどっと笑いが起きる。それに合わせて、ハルも笑いを作り続けた。
それからハルは、坊主頭に無理やり肩を組まされて、教室の外に出て行ってしまった。
はるが、その後を追おうと教室を出ようとすると、後ろから悠が呼び止めた。
「行かなくていい」
悠には、これから何が起こるのかが、痛いほどわかっていた。「素手バット」か「顔面ヘディング」。名前を聞いただけでも、痛みが身体中に戻ってくる。それほど、強烈に記憶に残っている。
はるは、「わかった」と言い、悠の方を振り向こうとした。しかしその時、はるの視界に、一人の女の子が現れた。
その女の子は、ハルの後ろ姿を見ているかと思うと、その後を小走りで追っていく。驚いたはるは、その女の子の背中を、見えなくなるまで目で追った。
はるは悠のもとに戻ると、いつのまにかできていた笑顔で、「次、行こうか」と言った。
ー今日、ある女の子に、嘘つきと言われました
ハルは、赤いキャンパスノートにそう書き出した。その様子を悠とはるは、後ろから静かに覗いている。
二人はハルの自室に来ていた。外は真っ暗で、机のスタンドだけが、寂しく部屋の中を照らしている。
ハルはその机の上で、まだ名前のないノートを開いて、力のこもった字で心の叫びを綴った。
ー最初は驚きましたが、たしかに、ぼくの正体は、嘘つきです。
ぼくはこの半年間、みんなのために、とか言いながら、配達係とか、整理整とん係とかやってたけど、その実自分が好かれようとしていただけなんです。全部、自分のためなんです。きっとそうです。
心配させたくないとか言って、いじめを親や先生から隠しているけど、その実、いじめに負けてしまう弱い自分を見せるのが、怖いだけなんです。きっとそうです。
ノートに、ぽとり、ぽとりと涙が落ちる。
ー悪口を言われても、平気なふりして笑ってるけど、あれは実は泣いてるんです。ほんとは、全然平気じゃないんです。平気なふりをして、自分にも嘘を吐き続けないとと、もう寂しさで、どうにかなってしまうだけなんです。きっと、そうです。
ーぼくは、嘘つきで、そして偽善者です
ノートはやがて涙で埋め尽くされて、その上にぼんやりとハルの字は浮かんでいる。
ハルは、リビングにいる両親に聞こえないように、手で口を塞いで、泣いた。
押し殺されたハルの声は、しかし後ろで立ち尽くす二人だけには、はっきりと届いていた。
二人の目にも、涙が浮かんでいる。悠がたまらず声をかけようとすると、はるはそれを制して、見てて、と小さな声で言った。
ハルは、突然、今まで書いたページを引きちぎって、ゴミ箱に放った。それから再び鉛筆をとり、新しいページに、こう書き出した。
ー2012年4月6日
思い出ノートが作られた瞬間だった。
はるが言った。
「ハルは、外の世界に居場所がなくなって、だから、自分の中に居場所を探したんだ」
ーそこでできたのが、”はる”という少年と、あの教室
「ハルは、時には記憶をすり替えてまで、ノートの中に、純粋にみんなのために生きる、そんな、理想の少年を作り上げた」
はるの目は、寂しそうに遠くを見つめている。
「ねぇ”悠"」
はるが、悠に向き直って、言った。
「”はる”の正体は、君が見ているこのぼくは、ハルが作った虚像なんだよ」
ー本当のはるは、もうどこにもいない
それからはるは、はるとハルの物語を語った。
ハルはノートを作って以来、毎日夢ではるの元を訪れては「”はる”のようになりたい」と言って泣いていた。
そしてはるは、ハルを慰めて、自分のできる限りのアドバイスをしようと努めた。
例えば、中学受験をしてみたら、とハルに助言したのもはるだ。不運にも、ハルの小学校は小中一貫校だったので、いじめから逃れるにはその方法しかなかった。
それからハルは、ただひたすらに勉強した。もともと成績が良かったこともあって、ハルは無事志望校に受かった。
その日、ハルはあの教室を訪れて、はるにもそれを伝えた。するとはるは、ガッツポーズを作って言った。
「中学に入ったら、みんな新しい子だから、きっと大丈夫だよ」
ハルは力強く頷いて、
「今までありがとう」
とはるに頭を下げる。
はるが首を振って、
「お礼を言うのはまだ早いでしょ」
と笑うと、ハルも、そっか、と笑い返した。
「じゃあ、ちゃんと友達できたら、またお礼しにくる。これ、約束ね」
「うん。あ、それなら彼女でもいいけど」
「それは、まぁ、頑張る」
二人は最後に、固い握手を交わして別れた。
はるが言った。
「ぼく、君が来たときすごい嬉しかったんだよ」
友達できたんだ、と思って。
「でも、よく聞いたら、約束のこと忘れてるし」
すごく、がっかりして、悲しかった。
悠はその言葉を聞いて、はると別れた後の、中学生の自分を思い返した。
入学初日。意気込んで入った教室で、隣の席の子に、「どこから来たの?」話しかけられたとき、ハルは気づいてしまった。
自分は、もう”はる”とは完全に別の人間なんだと。
答えようとしたけど、声が出ない。”はる”を相手に話すのとは、まるで勝手が違った。早く何か言わないとと焦るほどに、心臓の音は大きくなって、息が切れる。
ようやく「えっとね」と言えた時には、その子は困ったように「なんか、ごめんね」と笑って、別の人に話しかけに行ってしまった。
それから今に至るまで、悠には恋人はおろか、友達すら一人としてできなかった。
「ごめん、”はる”」
悠が謝っても、はるは続けた。
「おまけにさ、相談もなければ、おれは”はる”には戻れないんだ、なんて言って」
はるの頬に、一筋の涙が流れる。
「そんなこと言ったら、もうぼくが存在してる意味も、なくなっちゃうじゃん…」
涙は止まらずに、はるの目から流れ続けた。
その前では、ハルが必死の思いで、「思い出ノート」を書き綴っている。その上にも、一つ、また一つと涙が落ちる。
そんな二人の少年を前に、悠は何も言うことができなかった。
遠く地平の向こうでは、朝日が昇り始めている。夢が、終わろうとしていた。
「でもね、”悠"」
はるが、涙をぬぐいながら言う。
「”ハル"だって、君が作った虚像なんだよ」
悠は、黙って頷く。
「ハルだって、本当にこんなに、悲劇の主人公みたいな少年だったのかは分からない。”悠”がそう思いたいだけかもしれない」
朝日が、ゆっくりと冷たい部屋を暖めていく。それに合わせて、二人の少年の影は次第に薄くなっていった。
はるは、透明になったその手で、悠の手を取り、託すようにして、言葉を紡いだ。
「ぼくは、まだいいんだよ、幸せな少年として作られたから」
ーでも
「”ハル”は、悲劇の中に置いてけぼりで、そして永遠に忘れられちゃうなんて、そんなの、あんまりだ」
はるは最後に優しく笑って、言った。
「どうか、ハルを救ってあげて」
朝日が、眩しく部屋を包む。悠がゆっくり頷くと、二人の少年は、光の向こうに溶けて、消えた。
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