第4話
母から”思い出ノート”を受け取り、表紙を開いたところで、いきなり妙なものがあった。
最初からページが数枚、いや十数枚ほど切り取られている。
とりあえず気にせずに続きを見ると、日記は、2012年4月6日から始まっていた。また6年前。思った通りこれは、悠が小5の時に書いた日記らしい。
あの夢の原因は、きっとこの日記にある。願わくばまたあの夢に、と思って日記を読み始めた。
班長として行った遠足。リレーに選ばれた運動会。大太鼓を叩いた音楽発表会。四番として出た野球大会などの、特殊なイベントから、友達と川で遊んだ、空き地でキャッチボールをした、などの、日常の些細な出来事まで、日記は毎日つづられている。
そこには、当時の学校や町の景色、そしてそんなカラフルな日々を、どこまでも明るく生きる自分の姿が、確かにあった。
悠は、頬を緩ませて、こんなことあったなぁと、こんなことあったっけを何回も頭の中で繰り返しながら読み進めていった。
日記を読み終えても、そのイメージはしばらく頭に残った。その余韻に浸りながら、懐かしい、懐かしいと何度も頷く。
しかしその一方で、胸のどこかにぽっかりと穴が空いたような感覚があることにも、悠は気づいていた。
それがどうにも煩わしくて、再び日記を開く。読んでいる間は懐かしさで胸は満たされる。しかし読み終えると、また例の虚無感が戻ってくる。
そんなことを何度も何度も繰り返すうちに、気づいたら悠は、ノートに突っ伏して寝てしまっていた。
気がつくと、悠は、昼間の夢の続きに来ていた。
目の前に、ドアがあった。窓のない水色の、遠く昔に見覚えのあるドア。
どうやら本当に、あの日記を読むとこの夢に来れるようだった。
一つ息を大きく吸って、そのドアをノックする。
すると、
「おーきたきた!入ってどうぞー!」
中から、高く元気な声が聞こえてきた。
その声に、尋常でない聞き覚えを感じながら、悠はドアを開けて、中へと足を踏み出すと、いきなり強烈な懐かしさが悠の体を包んだ。
夕陽照らされた教室。そこにある、背の低い机と椅子。時間割がついた黒板。ロッカーに入った赤と黒のランドセルたち。
それら全てが、ほのかに光るような暖かさをたたえている。
そして教室の中央あたりに、それらの物に囲まれて座る少年が一人。
紺の半袖に、ベージュの半ズボンを着たその少年は、お気に入りのイーグルスの野球帽をくるくると回しながら、言った。
「ほら、入り口で突っ立ってないで、早くこっちきてよ」
悠は言われるままに、少年の前の椅子に座る。先ほどと同じく、二者面談の形だった。
「いやー久しぶりだね、”悠"」
少年は帽子を膝に抱えて、言った。
久しぶり、か。確かにそういう言い方もできるかも知れない。
「ああ、久しぶり、”はる”」
その少年は、小学五年生の自分、”はる”だった。
「ずいぶん元気そうだね」
はるは、やけににやにやして悠のことを見ている。
「うん、だって”悠”が来てくれたんだもん」
と言って、また嬉しそうに笑う。
悠が照れくさそうに「そうなんだ」と答えると、
はるは机に身を乗り出して、興奮気味に話を続けた。
「ここに来たってことはさ、できたんでしょ?」
「何が?」
「何がじゃなくて、ともだち!」
ーともだち?
この少年は何を言ってるんだろう。俺にそんなものできるはずないじゃないか。
「できてないよ」と答えると、はるは一瞬驚いた顔をした。しかしまたすぐに気を取り直して、
「そっか!かのじょか!」
「はい?」
「そっかそっか、”悠”は今りあじゅうさんなんだね」
と、勝手にうんうん頷いている。
ーかのじょ?
「いや待って、おれ彼女なんかいないよ?」
また何を言ってるんだというように答えると、はるは、今度ばかりは信じられないと言った様子で、
「嘘だよね?」
と聞いた。
「嘘な訳あるか、おれは生まれてこの方、女子と付き合ったことなど一度もない」
悠は、特に恥じるでもなく、ただ事実を述べた。
ぼっち歴五年のおれを舐めるな、というようにはるを見下ろすと、はるは何故か引きつった笑顔で、
「約束、忘れちゃったの?」
そう聞いた。
「約束?何のことそれ」
悠がそう言うと、はるは、見るからにがっかりした様子でうつむいてしまった。
何故だろう。悠がぼっちだったことが、そんなにもショックだったのだろうか。
窓の外を見ると、夕陽がいくらか傾いているようで、教室は少しだけ暗くなっている。
はるはずっと黙ったままだ。流石に心配になって、「そっちは最近どんな感じ?」と言っても「ぼくのことはいい」といって聞かない。
あまりに何もない時間が過ぎ、悠がふざけて「もう帰ろっかな〜」と言うと、はるは、ようやく一言だけ、
「君はもう、”ハル”じゃないのか」
そう、ポツリと呟いた。
「なにいってんの、俺もお前も安藤悠じゃないか」
「そういう意味じゃない」
はるは、大きなため息を一つついて、それからやっと顔を上げて、
「前みたいに相談とかは、ないの?」
と言った。その顔には笑顔が戻っていたが、来た時とは違い、どこか影のある笑顔だった。
なるほど、さっきの夢の中では、フードの子が何か相談していたけど、
「いや、おれは、別に相談しにきたとかじゃないんだ」
はるに話すようなことは何もない。「やる気が起きない」なんて言ってもどうにもならないだろう。
「そうじゃなくて、この教室が居心地がいいから来ただけで、後は”はる”の元気そうな話が聞ければいいなって」
実際その通りで、この場所は、高校よりも家よりも、自分の部屋よりもうんと居心地が良かった。
「だからさ、昨日何して遊んだとか、あ、今日の昼休みのことでもいいけど」
そういうのが聞いたい、と言ってとしてはるを見ると、しかし、はるはまた下を向いている。
そうして悠に答えない代わりに、低く小さな声で、「なにそれ」と言い捨てた。
「え?」
思わず聞き返すと、はるは顔を上げて
「いや、ともだちとか、作ろうって気はもうないの?」
と聞いた。
「いや、今さら友達とか、そんなこと言ってる高校生の方が少ないし」
「そういう意味じゃなくて」
そして小さなため息をつきながら
「…教室で、軽く話す人もいない?」
心配するように言った。
西条さんとは、あれを会話と言うのかは微妙なので、首を縦に振ると、
「もっと、頑張ってみようよ。趣味が合う人とか、クラスに一人は絶対いるよ?」
今度は、励ますように言う。
「別に、関係ないよ」
なんで、とはるの目がのぞいてくる。
「おれと話したって、向こうは楽しいはずないし」
「そんなの、話してみなきゃ分からないじゃん」
何おかしなこと言ってるのという風に、はるは言う。
「ほら、流行りの曲の話とかすれば、結構盛り上がるよ。ぼくは、今日のお昼それでうまくいったし」
ーおれと”はる”は違うだろ
その言葉を、すんでのところで飲み込む。
「…第一おれ自身が話してて楽しくないんだから、話してもしょうがないだろ」
はるは、それこそどういうことか分からないという風に首を傾げた。
仕方なく続ける。
「おれはね、人と話す時、恐ろしくネガティブになるの。これを言ったら嫌われるとか、だから楽しさを感じる余裕なんてない」
するとはるはそんな、と小さく呟いて、それきり黙ってしまった。
気づくと、あたりはだいぶ暗くなっている。夕陽は、もう半分しか顔を出していない。
窓際では、そのわずかな光を反射して水槽が光って、中には一匹の亀がいた。
悠が言った。
「確かあの亀、転校するまで”はる”が世話してたんだよね?」
日記に、そう書いてあった。生き物はそんなに好きじゃないけど、誰かやらなきゃ、みんな困るから、と。
はるは「え?」と一度首を傾げてから、「ああ、日記の話ね」と呟いた。
変な返答だったが、はるは構わず続けた。
「”はる”は偉いよ。おれなんて、もう誰かのために何かをした記憶ないもん」
全部が、自分のため。自分が好かれるため。自分が嫌われないため。自分が傷つかないため。
そう話す間にも、夕陽はどんどん沈んでいく。
はるが途中で、
「ぼくだって、そんないい人じゃないよ」
と笑いかけたが、悠はそれを
「謙遜しなくていいよ」
と切り捨てた。
「いや、本当だって…」
「もう、いいんだ、分かってる」
あの日記を読めば、はるのことは十分にわかる。その姿が自分とどれほどかけ離れているかも、痛いほど、分かる。
ー悠は、はるとは違う
その言葉をもう一度頭に浮かべた。
そして太陽が地平に沈む瞬間、あの時感じた虚無感の正体が、悠の口を突いて出た。
「おれは、もう”はる”には戻れないんだ」
教室が暗闇に包まれる。はるはまた下を向いて、喋りだす気配はなかった。悠が、ちょっと言いすぎた、声をかけようとした、その時。
「戻れないってどういう意味?」
一瞬、誰の声か分からなかった。聞いたことがないほどの、冷たく重い声。
しかしその声の先には、確かにはるが座っている。
また、同じ声が響く。
「戻れないからしょうがない」
「…え?」
そして、はるは淡々と続けた。
「戻れないから、上手く話せなくてもしょうがない。おれは”はる”じゃないから、友達ができなくてもしょうがないんだ」
顔をあげ、悠を見て言った。
「ぼくを言い訳にしないでよ」
「いや、そんなつもりは」
悠はとっさに否定したけど、胸の奥は少しうずいていた。
「こんなこと言いたくなかったけどさ」
はるは続けた。
「ぼくは”はる”だけど、昔の君ではないんだよ」
背中に、得体の知れない悪寒を感じた。教室には、もう先ほどの暖かみはとうに消えている。
「…何言ってるの、君は昔の俺でしょ?」
はるは答えない。代わりに、窓辺の水槽を見てもっと訳のわからないことを言った。
「あの亀ね、本当は9月に死んだの」
「…それって、今年の、だよね」
はるは首を振る。
「6年前の、9月」
「…でも日記には、引っ越しの前日にお別れしたって」
日記には、確かにそう書いてあった。
はるは、その横顔に、微かな笑みを浮かべて言った。
「あの日記、読んでておかしいと思わなかった?」
「…あ、ページが切り取られてた話?それなら」
「それだけじゃない、全部」
はるは一体何を言ってるんだろう。日記自体は、おかしいところなんて何もなかった。むしろ楽しい思い出ばかりで…
「そう、あの日記には楽しい思い出ばっかり」
はるがこちらを見つめている。全てを見透かすように、まっすぐと。
「いや、楽しい思い出”しか”ないんだよ」
「え…」
突然、強い頭痛が悠を襲った。
「ともだちと遊んで、人のために何かして、暇さえあれば野球する。それだけ。辛いことも悲しいことも、なんにもない。おかしいよね」
頭痛は次第に激しくなる。はるの言葉が、直接突き刺さってくるようだった。
「忘れたふりなんてやめなよ。もう、分かってるんでしょ?」
何がと聞く間もなく、はるは続けた。
「あの日記は、何のために書かれたのか、
破れたページには何が書いてあるのか」
ーそして
「いつ、書かれたのか」
凍りつくような悪寒が全身に広がる。吐き気が波のように押し寄せて、何も出ないのに、床に向かって何度もえずいた。頭痛がひどくて、もう何も考えられない。
「考えられない、じゃない。思い出して」
何も聞きたくない。必死に耳を塞いだけど、無駄だった。
「この日記が作られたあの一年を、無かったことにしちゃいけないんだよ」
はるの声は、無慈悲にも直接頭の中に響き渡る。
最後にはるは、寂しそうに笑って、言った。
「会いに行こう、日記と”はる”の作者に」
それから夢は一度、完全な闇に包まれて、消えた。
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