作家とのデート

 二〇一一年四月四日。震災時の帰国中、渚沙はとある作家と会うことになった。それまで何度も会おうという話はしていたが、いつもどちらかの都合で叶わなかった。今回も震災でつぶれるかと思ったけれど、ついに約束が果たされるのだ。


 滞在先の医者一家の奥さんに「デートなのね、いいわねー」といわれた。渚沙が誰に会うか、奥さんは知らない。

「あの、人の旦那さまですよ……」と渚沙。相手はかなり年上だから。それに仕事の話もあるのよ。

 プレッシャーをかけられ、行く前は緊張していたけれど、友達に会う気分で会えばいいんだと自分にいい聞かせ、やっと足下が軽くなった。


 某出版社がその作家の催しに渚沙を招待して、その後内輪だけの食事まで同席させてくれたのは三年前だ。


 えー、あの人が隣に座っている。コマーシャルでしか見たことのない人だよ! こんなの、いいのかなぁ。

 ミスキャスト。凡人が、夢かドラマの中で彼と競演して、NGを出されているような気分だ。

 それにしても、なんてかっこいいんだろう。渋いなぁ。


 渚沙の本をちゃっかり持ってきていた出版社は、その人にプレゼントしていた。

 そ、それはやめてほしい。恥ずかしいよ。こんなプロに読んでいただけるしろものじゃないと心から焦る。

 だが、出版社の社長も社員も渚沙の抵抗を無視していた。

 すると作家はすぐに「じゃあ、サインして下さい」といって、渚沙の本の裏表紙を開いた。


 ええーっ、なんて謙虚な方なの。悪いよ。私のサインなんて……。

 渚沙は、断れずに仕方なく慣れないサインをした。罪悪感を感じながら。


 彼はさっきもロビーで人に捕まり、「ファンなんです」っていわれていたけど、とても丁寧に応対していた。大物なのに、偉そうな態度を全然とらない。

 トラタ共和国で暮らし、ボランティア活動をする渚沙に興味を持ったらしい。作家は「連絡くださいね」といって、丁寧に名刺をくれた。


 これはすべて礼儀なんだ。出版社の人に聞いたら、やはり普段からそういう人なのだといった。



 渚沙は図々しく帰国時に作家に連絡してみた。会うつもりが結局お互いの都合が悪くて、次回の渚沙の帰国時に延期となった。その連絡の取り方も非常に丁寧で、自分が多忙なため事務所の人から丁寧な電話がかかってきて驚いたものだ。

 大物なのに謙虚な人ってすごいな、と渚沙は心から尊敬した。


 いよいよ約束の日が来た。夕方、待ち合わせ場所に先に着いたのは渚沙だった。

 作家が来たときはすぐにわかった。背が高くてさっそうした歩き方はやはり凡人ではない。光っていた。


「今日はあなたにまた会えて嬉しいよ」とかっこよく自然に口にする。

 飾らないで自然で礼儀正しい。難しいことだけど、この人には身に付いているんだろうな。

 渚沙はますます腰が低くなってしまった。

 気になったのは、いつになくやつれた感じがする点だ。少し年をとったようにもみられる。震災疲れといった。家族の面倒をみていたそうだ。しかも、何人かの知人が被災地で亡くなったという。傷心を察した。


「いつまでこちらに?」と作家。

「数日後、日本を出なくてはいけないんです」

「日本は早く出た方がいいよ」


 渚沙は「そうじゃないんです」と始めた。

 日本人の素晴らしさは外から見ていたら分からなかったし、震災で得られた体験に感謝しているというと、作家の顔が明るくなった。

「若いのに偉いよなぁ」と渚沙の活動や異国での生活ぶりに興味を示して、いろいろと質問してくる。

 渚沙も彼からいろんな勉強をさせてもらった。彼の謙虚さは会話の端々に表れていた。


 突然その彼の携帯に電話が入って、少しの間席を外した。

 急遽仕事場に戻らなくてはならなくなったそうだ。楽しみはそう続かないよと、おやつを急にとりあげられた気分だった。


 別れ際、温かな握手を二度してくれた。いつものように謙虚な感じで。みんなにそうしているんだろうなと思いながら、自分の手が冷たくて渚沙は申し訳く感じた。

「また帰って来たときは早めに連絡くださいね」と作家は添えた。

 それ、いつもみんなにいわれるんだよね……。渚沙は、帰国するのをみんなに黙っていて気まぐれに突然連絡するからだ。


 彼が乗ったタクシーを見送ってから、渚沙は駅に向かった。

 こんなふうに気持ちが明るくなったのは久しぶりだ。作家には、人間的な暖かさを感じた。あの人、やっぱりすごい人だな。

 夜の青山の骨董通りを歩きながら、涙が出てきそうになる。そして、ふと思い出した。何日か前の夜、やはり同じ骨董通りを泣きながら歩いたっけ。

 その日の朝、被災地で働く方々の心痛む話を聞いちゃって。

 泣いても何もならないと、自分なりに働いたけれど、でも、同夜また涙が出てくるのを止められなかった。


 今日はね、ちょっと違う。とても感謝して涙ぐんだのだ。

 これは神様の贈り物だよね。

 大変だった日本滞在の終わりに、人間的にいい人に会って、慰められて。

 日本を離れるのが名残惜しい。日本にいてみんなと頑張りたいよ……。

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