最終章

最終章



 等々力渓谷のロケ。

 ここが都内かとおもうほど森閑としていた。渓谷の流れに沿ってふたりは、散策していた。ふいに美智子がいった。樹間から漏れる都会の陽光のもとで山藤が数房咲いていた。木漏れ日をうけて。紫色の光の雫となっている。藤の花はまさにいまが盛り。それで思い出したのだろう。

「霧降もフジの花がきれいに咲いているわ。いってみたいな。なつかしいわ。三年も霧降の山藤の花をみてないなんて信じられない」

「はじめて会ったとき、藤の花を見にきましょうって誘ってくれましたよ」

「直人が生き返ったと思った。おどろいたわ。ただもう夢中だった」

「まだ直人の夢をみますか」

「まえほどではないけど」

「死ぬには若過ぎましたから」

 

 美智子がさびしそうな横顔をみせて撮影現場のほうに去っていった


『ああ、わたしたちの命が永遠につづくといいのに。あなた、あなたはどうしてわたしをのこして死んでしまったの。わたしをつれていってくれればよかったのに。わたしだけをのこして死ぬなんてどういうこと。わたしもあのとき死んでいればよかった。わたし、さびしい。さびしい』 

 美智子がセリフの練習をしていた。 直人に聞かせたいのかもしれない。隼人には美智子のさびしさがいたいほど伝わってきた。



『今年の春もおわりね』

 はらはらと山藤の花が散っている。

「はい、カット」

 美智子が頼んで監督が承諾した。美智子のわがままが聞き入れられた。急きょ撮影現場が霧降りの滝への道沿いに移動した。街道には雑木林がせまっている。むせるような緑の葉。藤の花はナラやクヌギなどの木に巻きついて花を咲かせていた。

『山藤の花、見る約束だった。ふたりでここにきて、霧降りの「山のレストラン」で食事して、夕暮れどきの藤を見にくる約束だった。それなのに、あなたはさきに死んでしまった。どうしたらいいの。教えて。直人。わたしはこれからどうすればいいの』

 つぎのシーンでは。美智子が相手役の名前を「直人」と間違えてしまった。

あまりに美智子の実体験に近いシーンだった。

『戦火の村で』での、ラストシーンだった。

 亡き恋人に語りかけるシーンだった。

 それで、つい直人と呼びかけてしまった。

 なんどかNGがだされている。

 美智子がこの三年間かかえてきた悲しみと孤独。

 隼人にはじぶんのことのように受け止めることができた。

 ――直人。あなたの愛した人をぼくも好きになりました。あなたの代役は務まらないとしても、彼女の孤独は癒すことができるでしょう。

「隼人なにボゾボソいっているの」

 美智子が缶コーヒーを片手に近づいてきた。

 隼人は思いきって美智子に聞いてみた。

「直人でなければだめですか。ぼくでは、まだ……だめですか。ぼくをあなたの生涯のボディガードにしてください」

 わたしが、こうして女優をしていられるのは、生きていられるのは、直人やキリコさん、鹿沼のジイチャンとバアチャン、そしてクノイチのみんな、大勢の人に大勢のひとにささえられているからだ。だから……。だから……。

「もういちど、ひとを好きになってもいいかな……とおもっている。だって初めて隼人を浅草の駅の構内で見たときから、直人に見えていたもの……。隼人は交際することはを直人もよろこんでいてくれる。隼人を好きよ。直人のことをいまも愛していいる。忘れられない。それでいいのだったら……」

 ほのぼのとした美智子の感情が隼人につたわった。

「わたしは永遠に直人のことを思いつづける。けっして、忘れることはできない。そんなわたしでよかったら、わたしのそばにいて」

 それが美智子の応えだった。

「よかったら……。そこからスタートしましょう」

 隼人は同意した。

 藤の花房が彼女の肩にとどいていた。


                                  完

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シーラカンスの初恋 麻屋与志夫 @onime_001

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