幸せの写真

枕木きのこ

幸せの写真

 くつ脱ぎを上がると、短い廊下の先に扉がある。そこを開くと、今度は正面にキッチン、左手に寝室、右手がリビングダイニングとなっている。二十五歳の真島幸助は、そのリビングのソファで足を抱えて、真正面の壁をじっと見つめていた。

 真島は部屋に入ってきた私を見ると、少し驚いたように顔を歪めたが、すぐにまた、それまでと同じ気難しそうな顔に戻って、視線も正面を捉えた。私は何を言うでもなく彼のほうに歩みを進め、ソファの傍らに立った。

 圧巻というべきか、壮観というべきか、壁一面には隙間なくポラロイド写真が貼られていた。

「全て、彼女との約束なんです」

 こちらには顔を向けないまま、真島は言った。まさしく私に向けられているとは思えないような小声であった。

「約束、とは」

 オウム返しで尋ねると、真島はぐっと腕の力を強めた。防御反応である。

 これが彼のアイデンティティなのだろう、と思った。

「幸せを感じた瞬間、シャッターを切るんです。それを都度壁に貼り付けていく。そういう約束です」

 改めて写真の一枚一枚を見ていくと、確かに、そこには真島と、その恋人であろう女性とが、楽しそうに、喜ばしそうに、写っていた。時折それは風景だけのものにもなったが、夕日や、道端の草花や、いかにもに見えた。

「優しいですね」

 ほとんど直情的にもらすと、

「そうなんです」彼は瞬間、強張った顔を緩めてそう言った。しかし一瞬あとには、「でも、貴方が来たということは、そういうことなんですよね」

 気弱そうな、酷く小さな存在になって、呟いた。

「ええ。もちろん、きちんとお話を聞いてからですが」

 私は、何度この役目を担っても、きっと悲しくなってしまうだろう、と思った。哀れに思ってしまうだろう。そして、自分のことを、許せなくなるだろうと考えた。

 半歩下がって、視線を寝室に向ける。

 ベッドの端が見える。

 そしてそこからだらりと垂れる、女の足が。


 ○


 木村良樹は、憐れんでいた。話を聞いたときには既に一年以上経っていたが、それでも真島のことを思うと不憫で、かわいそうになって、しかし目の当たりにした彼はあまりにも憔悴していたために何もしてやれず、それを半年もして不意に思い出して、元気付けてあげたいと考えた。

「まあ、今日は俺がおごるからさ。パーッと飲んでよ」

 木村が声をかけると、真島は申し訳無さそうな顔をして、じゃあビールを、と甘えた。

 しばらく飲んでいるうちに、真島はだんだんと饒舌になって、昔の恋人のことを語るようになった。やれ心の狭い女だったとか、几帳面だったとか、最初のうちは酔いのせいか酷い語り口だったが、それも徐々にしょげたような「でも、でも」に変化していった。

「いい女だったんだ」

 いよいよ抽象的に話し始めるようになって、木村はようやく終わるか、と安堵した。自分で誘い、自分で誘発させておきながら、聞いているうちにうっとうしくなっていたのだ。腕時計を何度盗み見たか。すっかり一時間は経っている。自分の思いやりも上っ面だったかもしれないと自覚するには十分な時間だった。

 真島の酒の許容量はそこまで多くない。せいぜいビールを二瓶空けられるかどうか。それなのに今日に限っては梅酒を飲み、日本酒を飲み、ウイスキーを飲みと、ちゃんぽん状態である。すっかりべろべろに酔っ払って、既に二回はトイレで吐いた。まだ買ったばかりのジーンズの裾に跳ね返りがあることを気にする余裕もない。

 だから彼にしてみれば、うっかり、だった。

「俺が殺したんだ」


 ○


「彼女の名前は?」

「小柳幸江、です」

 寝室へ顔を向けたまま、そして彼は恐らく、こちらを向かないまま、ひとつ会話を済ませる。もちろん私は小柳幸江の情報を持っていたが、当人に聞くことが大事だった。ひとつひとつをゆっくりと思い出してもらうために。そして、その先の末路のために。

「どこで出会ったんですか」

 正面の写真の左上、何故そちらを最初と思ったか分からないが、私はその一枚を見ながら聞いた。牧場で撮られたものらしく、牛にエサをやっている真島の姿が写っていた。この、すぐ近くにいる真島とは程遠い、満面の笑みである。

「最初は、出会い系みたいなサイトです。でも、別にいやらしいようなものじゃなくて、もっとこう、純粋な」

 いやらしくない、あるいはいやらしい思いの介在しない出会い系というものを私は知らなかったが、その事実如何はさほど重要ではない。

「経緯としては」

「お互い、前の恋人と別れたばかりで、多分、誰でもよかったんです。何通かやり取りして、じゃあ会ってみよっか、って。人との出会いなんて、そんなもんですよね」

 同意を求められ、私は少し考えてみた。確かに、私と真島のこの出会いも、偶発的である。作為がまるでないかといえばそうではないが、会うべくして会ったというよりは、たまたま、そういうタイミングが来た、というほうが近い。

 ただ、それには答えなかった。

「それで」

 不服そうにするでもなく、続ける。

「それで、会ってみたら結構趣味も合うし、なんとなくいい感じになって」

「その日のうちに」表現方法に少し迷ったが、「身体を合わせた、と」

「そうです」真島はじっと写真を見つめたまま、声音も変えず、「それで、それがきっかけってわけでもないけど、付き合い始めて」

 小柳幸江は本来消極的な人間だった、という情報が手元にある。だから、趣味が合うとか、身体を合わせたから、というのは、彼女にとっては重要な要素であったのだろう。

 写真を撮っていこう、という話は、付き合い始めて早々に交わされた。強制はしないけれど、家に帰ったときに真島との幸せの中にいたいと、彼女は言った。そのためにポラロイドカメラも買った。

「少し重い女だなと、正直思いました」そこで彼は自嘲気味に笑った。「でも、それくらいの枷があったほうが上手くいくのかもって、思いもしました。大抵、それまでの恋愛は自分が主導することが多かったし、そのせいで振られることばっかりだったから。だから、乗ったんです」

 ほとんど出かけるたびに写真を撮った。お互いにカメラをひとつずつ持って、ああ、幸せだ、と感じるたびにカメラを構えた。すぐさま現像される写真を見て、二人で微笑みあった。

「幸せでした。でも――」


 ○


「それ、どういう意味?」

 傾けていたジョッキを下ろして木村は聞いた。無意識に、少し冗談めかした口調で。真島は斜めになった頭を揺らしながら、

「そのままだよ」

 小さく言った。

 普段、木村は本を読まない。ミステリになど傾倒しているはずもないし、そういった類の娯楽は忌避さえしている。頭を使うのが嫌いだからだ。直感的に行動する。だから今日も真島を誘った。思い立ったから。

 でも木村は真島の言葉を聞いて、初めて感じる興奮を身のうちに覚えた。端的に言って、ぞわっとしたのだ。鳥肌が立った。楽しそうだ、と感じた。

 だから木村は、こういうときの空気を知らない。言葉を選んで、ゆっくり外堀を埋めて、慎重に引き出す、といった駆け引きは出来ない。

「殺したのか?」

 そのままの言葉で聞いた。もちろん、声は潜めて。

 真島は何も言わなかったが、首肯した――ように見えた。


 ○


「男の影がちらつき始めた。多分、付き合って半年くらいして。一緒にいるときにメールを確認していたり、何かを見て、明らかに気まずそうに視線を逸らしたり。極めつけは、彼女の住んでいる部屋に入っていく男を見てしまったんです、この目で」

 視線を追うと、壁の、最後の一列を見ているようだった。意識してなのか、あるいは気持ちとともに視線が下がったのか、判然としない。そのあたりの写真は、写るものから想像するに、ひとつずつの間の月日が長いように思えた。

 目撃してしまっては、真島も問い詰めないわけにはいかない。

「でも幸江は、違う、としか言わないんです。会話を拒絶するんです。違うの、違う、違う、違う……。それじゃ、何も分からない。だんだん、僕自体を拒絶しているように思えたんです。だから」

「出て行った」

「ええ。もういい、もう知らないと。連絡も絶ちました。このまま終わるだろうなと思いもしました。それから、僕の方がいつの間にか重くなっていたのかも、なんて。――最初のうちは彼女も何度か連絡を寄越してきていたんですけど、僕が返さないのがはっきりと分かったんでしょう。いい加減、それもなくなって。自然消滅みたいな形で僕らは終わった」

 ついに真島は目を閉じた。殻にこもるようにして、身を固める。

 いよいよ核心、ということだ。

「何日も経ってから、メールが来たんです。一言でした。――助けて、と」

 小柳幸江は余所見などしていなかった。真島のことを愛していた。たった半年の付き合いでも。安っぽく言えば運命だと思っていた。

 ただ、運命じゃない男が、彼女のことをまだ好いていた。執拗に連絡を寄越し、付け回し、家にまで侵入するような男が。

 真島幸助は話を聞かなかったし、小柳幸江は話をしなかった。巻き込みたくなかった。自分の面倒ごとに。真島を愛していたから。

「ニュースで知りました。共通の知り合いなんていなかったから。見慣れた部屋と、呼びなれた名前が、ニュースで流れていました。――そうです、この部屋です」そして真島は寝室へ視線を向けた。「あそこで、死んだと言っていました」

 以上が、事の顛末である。

 もちろん、私は最初から全てを知っていた。私は警察ではないし、ましてや探偵などといった類のものでもない。

 真島の肩に手を置く。

「それでは、本題に入りましょう」


 ○


 寝息を立て始めた真島の横で、木村は携帯を弄っていた。それは彼自身のものではなく、真島のものである。正攻法ではないが、木村の頭には正攻法などない。保存されている写真に、それと思われるものが沢山あった。友人の、恋人とのプリクラほど寒気のするものもなかったが、そこから下の名前も分かった。後は登録されている連絡先から該当する人物を探すのみだ。

 そっと真島の携帯を机上に戻すと、今度は自分の携帯を使って「小柳幸江」を調べた。するとすぐにネット記事が出てきた。「ストーカー殺人」の文字が、木村には安っぽく思えた。それから、内容を検めて、なんだ、こいつが殺したんじゃないのか、と、気持ちが冷めていくのが分かった。

 だから、こんな事に縛られている真島を、哀れに思った。こいつは、かわいそうな人間だ。自分のせいじゃないのに、一年半以上も前の恋人に、未だ縛られている。誰かが解放してやらなければならない。きっと小柳幸江もそう思っているに違いない――などと、思考力の低迷した頭で考えて、彼は直感的に、小柳幸江に関わるデータ一切を真島の携帯から削除した。

 溜まっていた小便を便所で放出して、会計を済ませてから真島をたたき起こした。

「ほら、帰るぞ。朝になっちまった」


 ○


「消えるのですね」

 真島はゆっくりと言った。

「ええ」

 だから私も緩慢に答えた。

「僕の守ってきたものは、何だったのでしょう」

「真島にとっては大事なことです。ただ、もうそろそろ彼も二十七になる。間もなく二年が経とうとしている。もう、解放してあげてと、頼まれたのです」

「そうですか」

 真島は笑った。安堵したような、その末に泣き出しそうな、そんな顔だった。

 私は胸が痛くなるのが分かった。いつもこうだ。これだから、記憶を消す役目を担うのは苦手なのだ。慣れない。

 忘れていい記憶など存在しないはずなのに。それでも記憶は消えていく。

 自分のために。

 誰かのために。

 例外なく、私たちのことも忘れてしまう。

 それでもいいというべきか、それがいいというべきか、判別のつかないところだ。

 ともかく私たちは人々の記憶――彼のような存在を、消していく。

「どれくらい掛かりますか」

「そうですね。多分、ひと月くらいでだんだんと思い出せなくなってきて、ふた月でほとんどの思い出を忘れる。でも大丈夫――という言葉があっているかは分かりませんが。貴方の場合はまつわるですから、完全に消えることはないでしょう。そうですね、きっと、写真一枚は残せると思います」

 真島は私を見た。

「そうですか。じゃあ、そのひと月ふた月で、どれを残すかじっくりと考えます」

「それがいいでしょう」

「有難うございました。話を聞いてくれて」

「それが、忘れるための重要なプロセスですから。それに、憎まれこそすれ、感謝される謂れは、私にはないですよ」

 そうですね、と言って彼は笑った。

 それじゃあ、と私が言うと、瞬間、真島の顔は強張った。

 ゆっくりと肩から手を離すと、空間が徐々に白んでいく。

 部屋を出るとき、二十五歳の真島幸助は幸せそうな顔で、壁面の写真を眺めていた。

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