第2話

 階段をのぼり切ると、2階の廊下は人っ子1人居無かった。

 1階と違って窓を開けて無いので、そこはやや蒸し暑く、建材などの匂いが鼻につく。

 俺はそんなよどんだ空気が滞留している廊下をどんどん進み、ようやくその突き当りにある目的地のドアの前に立った。


 図書室のドアは閉じられていたが、ドアのガラス窓から様子をうかがうとすでに蛍光灯のあかりがけられており、そこを利用する何人かの生徒達が居た。

 通常、図書室に到着した図書当番は、そこが戸締りされていれば、まず職員室から鍵を預かって来て、その施錠せじょうされたドアを利用者の為に開放せねばならないが、きっと、先に来た桧藤が開室作業をしてくれたのだろう。

 閉じたドアのノブを握って内側に軽く押すと、やはりと言うべきかそれは開いていたので、俺は他の利用者の迷惑になら無いよう静かにドアを開き、そこに足を踏み入れた。 

 中に入ると、新聞紙の匂いにも似た、紙とインクの香りが漂う図書室独特の空気が俺を出迎える。

 既に空調管理も済ませたのか、窓が少し開けてあり、若干じゃっかんエアコンも利いていた。

 週末の休みを控えた午後であるせいか、今日は利用する生徒も少なく閑散かんさんとしている。

 俺は入り口の辺りから隅々すみずみを見渡して、先に来ているべき桧藤ひとうの姿を探した。

 この教室2つ分に廊下の部分を加えた、高さ3m、はば9m、長さ18mの空間とその内容物が、我が県立東浜ひがしはま高校の図書室の全てである。

 だが、ここから見た感じ、彼女の姿は見当たら無い。

 開室作業をした後、彼女が部長をしている美術部の部室である美術室にでも用事があって出掛けたか、あるいはトイレにでも行っているのだろうか?

 俺は衝立ついたてさえぎられて見え無い所にある、貸し出しカウンターの方へと足を進める。


 ──と、俺がこれから図書室のぬしとして鎮座するべき貸し出しカウンターの中に、誰かが着席していた。

 そこに座っていたのは──俺の探している桧藤ひとう朋花ともかでも、はたまた正体不明のバニーガールでも無く、桧藤と同様に俺のクラスメートで、春の始業式からこの学校に通う事になった転入生、有栖川ありすがわすみれ、その人であった。

 有栖川は、椅子の背もたれに軽く寄り掛かる若干くつろいだ姿勢で、持ち前のいつものニヤニヤとした生暖かい笑顔を浮かべつつ、手にした文庫サイズの本を読みふけっている。

 ぱっと見、その態度は誰でもイラ付きを覚えざるを得無い、如何にも不真面目で適当そうな不良女子高生の印象であるが、有栖川ありすがわの格好はいつもの様に、その真っすぐで黒々とした髪のセットはこざっぱりとしていて、制服や名札もきちんと校則通りに着用している為、全くそんな風には見え無い。

 俺は図書委員でも無い彼女がカウンターに座って読書をしているこの異様な光景に、しばし言葉を失い、反応に苦慮くりょした挙句、何かとんでもない天変地異が起きてるのでは無いかと、しばらく様子見ようすみを決め込む。

 彼女の読んでいる本の表紙を見ると、それは彼女と同じ名字のペンネームを持つ男性作家で、本格推理の大家の一人である有栖川ありすがわ有栖ありすの著書、『鍵の掛かった男』であった。

 流石さすが、新学期の始まり頃に、俺が籍を置いている推小研すいしょうけんこと推理小説研究部に入部希望し、部員になった早々に部長である高梨たかなしの信頼を獲得しただけの事はあるな。

 趣味か実益かは不明だが、彼女はこんな風に、寸借すんしゃく惜しまず、日々、推理小説に関わる様々な知識を仕入れているに違い無い。

 また、どう言う目的からかは大体想像出来るが、有栖川は時折、突拍子とっぴょうしも無い妙な事をするので、もしかして小声で音読などしてるんじゃ無いかと、頭の横に手を当ててしばし耳を澄ましたが、そんな事は無かった。

 特にこれ以上、異常な事が起こる気配は無いので、意を決した俺は、彼女に近付き、正面からカウンター越しに声を掛けた。

「よう、有栖川ありすがわじゃないか」

 じっと本に視線を落としていた有栖川は、ようやくその顔を上げる。

「──ああ、何だ。成海なるみ君か」

 彼女は本を開いたまま逆さにしてカウンターの上に伏せると、こちらに身を乗り出した。

「HR《ホームルーム》が終わった途端、速攻そっこうで教室を抜け出して行ったと思ったら、ここに来る為だったんだな。く、丁度ちょうどいタイミングでここが開いてたな。司書の先生に開けて貰ったのか?」

 って言うか、前にもそんな事があったが、その時の事に付いてはいまおもい出したく無い。

「まあ、そんな所かな。ねえ、所で、成海君。この椅子、読書をするには実に座り心地が良くて快適なんだけど、君もどうかなあ?」

 有栖川ありすがわは、呑気かつ上機嫌な口調でそう言った。

「ああ、俺はじきに座る事になる。今日は図書委員の貸し出し当番だからな。で、一つ聞いておきたい事があるんだが……なあ有栖川、お前、そこで一体、何をやってるんだ?」

「君は無粋な事を聞くなあ。何って、この本を見て、分から無いかな?」

 この言葉に、俺はすぐさま反駁はんぱくする。

「確かに野暮やぼな質問だったかも知れ無いが、俺が聞いてるのは、そう言う事じゃ無くてだな、図書委員でも無い一般の利用者が、何でその席に座ってるのかって事だ。それから、俺の前でそう言う松原の様な台詞を吐くな。そんな言葉を聞いてると、まるであいつと話してるみたいで、イライラする」

「それは、失礼しちゃったかな」

 彼女は苦笑しながら、そう謝罪する。

 俺はカウンターの後ろ側にあるガラス張りの小部屋、つまり司書室の内部を見たが、そこにも桧藤の姿は無い。

「まあいい。それよりも、ちょっと尋ねたい事があるんだが、有栖川がここへ来る時、桧藤を見無かったか? 今日、俺と当番なんだが、どうもこの図書室の中にはいないみたいなんだ。ここへ来る前に教室で阿部と話をしていたら、いつの間にか姿が見え無くなっていた」

「あれれ? 君には朋花からメールで連絡したと思うんだけど、まだ、見て無かったかなあ? 今日、あの子はちょっと用事があって、当番には出られ無いんだけどな」

「んっ? 桧藤から俺のケータイにか? そう言えば、さっきまで電源を切っていたからな。マナーモードにしていたから、気が付か無かった」

 急いでケータイを取り出してその画面を見ると、確かに、そんな題名のメールが来ている。

「それ、メールでも着信音が鳴るようにしていれば良かったんじゃ無いかなあ?」

 俺はケータイを仕舞い、再び有栖川の指摘に反駁する。

「お前は何を言っているんだ。放課後とは言え、こんな場所で無節操に着信音を鳴らす奴がいるか。ましてや、曲がりなりにも俺は管理を任されている図書委員なんだから、万が一にも、そんなふざけた真似をする訳には行か無いな」

「あはは! 成海君は真面目だなあ」

「それと、そのカウンター内の椅子だけどな。そこは司書の先生だとか、俺や桧藤の様な図書当番が、ここを利用する他の生徒の為に待機している場所なんだ。悪いが、一般の生徒はあっちに並んでる自習机か、真ん中にある大きな複数人用の机の方に着いてくれ無いか?」

「ああ、それは了解してるかな」

「何っ? じゃあ、なんだ、わざとやってたのか、それ!?」

 俺は拍子抜けして、思わず大声を出し、その後、声を低くして注意を促す。

「おい有栖川。頼むから、図書委員である俺の目の前で、そう言うけしからん真似をするのはめてくれ。もし先生にでも見つかったら、俺の管理責任が問われる」

「ええと……何から説明したら良いかなあ?」

 別に、何かを説明する必要何て無いだろう。

「下らない言い訳はし無くて良いから、早くお前はそこからどいて、どっかその辺に移動するんだっ」

「うーん……ちゃんと君は、朋花からのメールを読んだのかな?」

「どう言う事なんだ?」

「今日、私はこの図書室を預かる貸し出し係の一人として、彼女の代わりを務める事になったんだな。おおせかった以上は立派に努めを果たす積もりだから、君は大船に乗った積もりで、安心して欲しいな」

 いや、俺はその言葉を聞いて安心するどころか、すこぶる不安になって来た。

 何が大船だ。

 お前と肩を並べていると、お前んとこでしている秘密のバイトの事を思い出して、氷山にぶつかる直前のタイタニック号に乗っている気分になる。

「ああ、なるほど、そう言う事か。じゃあ悪いが、宜しく頼む」

 俺はそんな心にも無いセリフを吐き、回ってカウンター内に入ると、彼女の座席の隣にあるもう一つの『座り心地の良い椅子』に座った。

「それにしても、有栖川は桧藤の代打だいだで来てたのか……。全く、道理であたかも当然のように、その貸し出し係専用の席に座っている訳だ。だったら、早くそう言ってくれ」

 全く、今日の貸し出し当番の相方が桧藤で無いと言う事実を知った、この俺の底知れ無いガッカリ感をどうしてくれる?

 が、それもまあいい。

 明日は日曜日だし、幸い、大した量の宿題も出ていない。

 桧藤が来られ無いのは少しばかりと言うか大変残念だが、代わりの相方が話題の広い有栖川と言うのなら、退屈し無いだろうしな。

「換気用に少し窓を開けて、エアコンのスイッチは入れて置いたけど、特にやる事がなければ、この本を読んでても良いかなあ?」

 俺の内心などつゆ知らず、彼女はそんな呑気な事を言う。

「ああ、他に仕事があれば俺がやるから、有栖川はそこに座っててくれ」

 十分ほど経過した後、俺はふと思い出した事があり、有栖川に話し掛けた。

「なあ、読書中悪いんだが……部の事で、ちょっと相談があるんだ。今、その話をしても良いか?」

「へぇ、それは何かなあ?」

 有栖川は読み掛けの『鍵の掛かった男』に、六人兄弟のキャラクター物のしおりを挟むと、片手でそれをパタンと閉じて鞄に仕舞った。

 しおりのキャラについては、母性愛をかき立てられるとか何とか、そんな腐女子のアホな会話をしているのを聞いた気がする。

 俺は、今しがた目にしたしおりと、そんな有栖川の趣味に付いては完全スルーし、

「悪いな。実は、ずっと前から、高梨には部誌に載せる作品をせがまれてるんだ。殆ど幽霊部員とは言え、一応、俺も推小研の一員だし、卒業までには何か一つくらい、作品を上げておこうと思うんだ」

「それは良い心掛けじゃ無いかなあ」

「そうか。で、俺が上げる作品の事なんだが、それも、高梨や有栖川が載せてる様な如何いかにもな推理小説では無くて、本格推理の体裁ていさいを取りながらも、どちらかと言えばライトな方向に挑戦してみようと思ってるんだ。つーか、その方が書き易そうだしな」

「成海君が? 君がラノベを書くとか言い出すなんて──意外だなあ」

「そうやって心底意外そうに言うなっ」

「ああ、ごめん、ごめん。気を悪くしたなら、謝るけどな。ふぅん、ライトな推理物か……。私としては、君には本格推理の方に挑戦して貰いたいと思ってたんだけど、君がそう思うのなら、それも良いんじゃ無いかなあ。小説の、具体的な内容は決まってるのかな?」

「ああ、細かい設定はまだだが、全くノープランって訳でも無いな。おおざっぱな内容としては、思春期の男女が特殊な能力を身に付けて、事件に遭遇し解決する話を書こうと思うんだが……そんな感じでいいと思うか?」

 そう言った途端、にこやかに笑っていた有栖川の表情が、微妙に変化した。

 滑らかに話を切り出し始めた俺は、それを見るなり、凍り付く様な緊張を覚える。

 俺は知っている。

 この目の前の少女の浮かべる笑顔の下には、如何なる状況であっても冷静沈着に与えられた任務を遂行する、勇猛かつ非情な本性が隠れている事を。

 もし今の俺の話が、彼女や、彼女がこの学校の生徒として過ごす事に意味を与えている背景的な存在について何か不都合なら、ここでその話題を切り上げ無ければならないだろう。

 数秒の間を置いて、ようやく有栖川は質問を発した。

 瞬間的に発揮された殺意にも似たオーラは、やや和らいでいる。

「それは……どう言う事なのかなあ?」

 柔らかな物腰の言葉の上に、冷酷な意思が見え隠れする。

 触れてはなら無い部分に触れようとする人物に対する警告の一種だと察し、慎重に話を進める。

「ああ、そうだな……キーワードになるのは、『思春期症候群』って言葉なんだが、有栖川は聞いた事あるか?」

「思春期症候群? 私達の様な、子供から大人へ移り変わる思春期の時期に特有の、体や心の失調症の事だったかな?」

「あ……まあ、それはそう何だが、俺が言ってるのは、そう言う現実の医学用語としての思春期症候群じゃ無くて、最近読んだライトノベルに出て来る言葉なんだ。これを見てくれ」

 俺は床に置いた自分のかばんの中から、鴨志田かもしだはじめちょの「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない(通称・あおブタ)」の単行本を取り出した。

「ああ、それって、近くアニメ化されるとか言う噂のある本だったかなあ?」

「何だ、知ってたのか。それなら、話が早い」

 俺はほっとして、引っ込め掛けた相談事の話を再開する。

「確か、とか言ったかな?」

「あ……? いや、それはこの話とは全く関係無いな。完全に、部活動で行う創作の上での話だ」

 完全に、の部分を強調し、俺は釈明する。

「まあ、君の書きたい小説の事は大体分かったかな。他の人の作品とは違う意外性があって、割と面白いこころみだと思うな。でも、そうやって書かれたライトノベル風の推理作品について、部長の高梨君はどう思うか、ちょっと私には、予想出来無いなぁ」

「問題はそこなんだ。そう言うライトな作品でちゃんとした推理小説は無いかと思って、詳しそうなお前に相談したんだ」

「はぁ」と有栖川は呆れたように溜息を吐き、こう言った。

「なんだ、そう言う事かあ。──やれやれ、私は高梨君の保険に使われちゃったかな」

 ほぼ二人きりとは言え、そう言う誤解を招くような発言は止めろ。

 この際だから一応、断言して置くが、俺はお前を含む一部の女子達が趣味で想像するような、同性を恋愛対象にする趣向は持っていない。

「そう言う人聞きの悪い事を言うのはやめてくれ」

「あはは、ちょっと妬けちゃったからなあ」


(↑冒頭公開分ここまで。これでも冒頭1,000文字は削ったのですが、まだ中盤の初めです。やはり、これを5,000字に収めるのは無理でした( ノД`)シクシク…)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

THE NRN-4 南雲 千歳(なぐも ちとせ) @Chitose_Nagumo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ