哄笑するアウトサイダー

甲斐ミサキ

永遠なる哄笑

 清々しい目覚めだった。

 底のまるで見えない黯黒星あんこくせいの淵のごとき底には、幾千もの尖塔に埋もれるようにして過去世ではとうに失われた夢見る匠の技術で加工された劫初の大理石を積み上げた正四角錐の建造物ピラミッドが見える。その金色こんじきの天辺から碧玉を巧緻に彫刻した蔦の葉、紅玉と金剛石を砕いて陽炎で加工したかぐわしい芳醇な香りのするロードアイランドの季節折々の花々があしらわれたかっちりとした、それでありながら狂えるアラブの詩アブドゥル・アルハザード人のごとき感受性の豊かなものであれば踏み出すのを躊躇し譫妄せんもう状態に陥ってしまう魔的な図像が暗示めく階段が途方もなく伸びており、一段一段踏みしめるごとにヴィオールの既知の音楽様式とは縁がありそうにない特徴的な和音で奏でられる旋律が大きくなってゆく。やや前を進むポーがオーゼイユでまたぞろエーリッヒが絶望的な嵐ごとき旋律に抗しておるのだろ、と愉快そうに笑った。ツァンの演奏を聴くたびありふれた曲調にしか思えぬのであったが、彼が笑うならきっとそうなのであろう。ちょうど階段を昇りきった頃にポーの影が極光たなびく宙からそそぐ朝陽に溶けた。別の夜に顔を合わせることもあるだろう。そう思った矢先、へその真上から胸にかけ甘やかな重みを感じて彼は目覚めたのであった。

 黒毛黒瞳の牡猫がうずくまっていた。夜の帳が訪れるとメネスと名付けた仔猫はセレファイスに住まうマルタ猫の長との会合に顔を出しにいき、彼が目覚める頃合いを見計らって帰ってくるのであった。胸に疼きを与えてはヤクの乳をねだるのだ。

 気持ちの良い朝だった。ダンセイニなら、あるいはマッケンなら、ブラックウッドなら、ホジスンならどのように描写してみせただろう。彼はメネスに与えたヤクの乳が余ったもので喉を潤すとうららかな陽気が差し込む窓辺に置かれたお気に入りのタイプライターの前に陣取る。

 局外者アウトサイダーであり続けた彼は今やそのくびきから自由を得た。

 流浪の王子イラノンの旅路についての考察が脳裏をかすめて詮無いことだと気づいた。もはや黄昏時に老いに老いた自分がアラビアの道なき流砂へ歩むことはない。旧世界で失われた青春といくばくかの美は過去世せいぜんのものであって、今の自分とはもっとも縁遠きものなのだ。銀の鍵を失ったランドルフ・カーターではもうないのだ。メネスと引き合わせてくれたウルタールの宿屋主人のせがれアタルに対する真心をこめた謝辞の手紙を打って伸びを一つした。タイプライターから離れた指先が朝陽を浴びて名状しがたい陰影おりなす浅浮彫のぬめりとした表面を無意識に撫でていた。指の腹に感じるぬめりとした皮膚感覚が、愉快な話し相手として彼が呼びつけることのあるリチャード・アプトン・ピックマンを想起させた。食屍鬼である彼は今頃墓所で眠りにつくころであろう。

 タイプライターを前に、彼はアーサー・ジャーミン卿を「白い類人猿」という題名でウィアード・テイルズに発表されたことについてあらためて徹底論戦を張る心づもりでいた。人種主義者である彼にとってコンゴの都市が白人文明の源であるという恐怖は何事にも耐えがたいおぞましさであって今一度しっかりと考察してみたかったのであった。時間はある。現在の彼はナショナル・アマチュア・プレス・アソシエーションの会長職の時に「会長便り」President's Messageを発表していた頃よりもはるかに自由なのである。書きたいテーマがとめどなく溢れてくる。一昔前であれば「原初の卵から還るもの」ではプロットを書けぬと思ったものであるが、今ではクローン科学は進んでおり、混合種の大型肉食恐竜インドミナス・ラプトルだって生み出すことが可能なのだ。とはいえありきたりな恐竜などと比べてはるかに古代めいた得体のしれない何かで書こうという着想に変わりはない。未だわだかまる胸をすかしたいのだ。『アウスタウンディング・ストーリーズ』の「ハイエナの糞野郎」ことF・オーリン・トレメインが無許可になした冒涜的な編集に次ぐ編集、大幅な削除、改竄かいざんについて彼は根に持っており、機会あればアルファベットの一言一句違えさせることのない完璧なる『真説:狂気の山脈にて』を鼻持ちならないやつばらの喉元に突きつけてやることで。

 この地より下界を眺めて思うところがある。彼の記した神々は単なる地球外生命体にしかすぎず彼らの信奉者が勝手にを誤解していることに関して。

「脱神話的」な特徴こそ彼が強調したいものであって、幻夢譚よりは地に足がついたもののように思える『外なるものに対する感覚』を表現したいがための物語サイクルにおける因子の要素の一つ、真摯な文学作品、例えばヨグ=ソトースなど己の未熟な発想の産物と云えると考えていたのだが、ミスカトニック・ヴァレー神話が広まるにつれて彼の知りえぬところで存外に神々は生を宿してしまった。人造の疑似神話を当初、およそ彼は真剣には捉えていなかったが、一般的な人間の法や利害や感情など宇宙の深遠さ広大さ、時間、空間、次元の巨大さにはまったく無意味であることは真理であると考えていた。含むところはあるが、彼と同じである作家仲間が用いる汎用的な人造魔神としての寄る辺をアザトースやナイアルラトホテップに求めてくれたことを嬉しくも思っていたのだ。用いられれば用いられるほどに汎用的な人造魔神たちがより優れたものになってゆく。そんな見返りとしてクラーカシュ・トンのツァトゥグアやハワードのブランなどを登場させて見せたのだった。

 彼はヘンリー・アンソニー・ウィルコックス青年が彫り上げた頭足類の特徴をもちながらも異形の翼を生やす芸術的知性をまるで感じさせぬ冒涜的な虹色の斑紋が特徴的である珍妙なる浅浮彫を改めて眺めやる。タイプライターの横に鎮座したそれはいかにも稚拙な悪夢の産物であったが、面長おもながの顎に指を添えて思考を馳せた。今や神々はいたるところに存在し顕現している。

 ユゴス星を訪ねた。月へ赴くガレー船にも乗った。ハイパーボリアで魔法使いエイボンの話を聞いた。ミ=ゴの言語を理解し、ヴァルーシアの蛇人間が発する歯擦音に震えた。スフィンクスより旧い石柱都市で踊り狂うフルート吹きをみた。セレファイスの王クラネスと盃を交わした。そうしてついには自分の足で窮極の門へとたどり着き金色こんじきの玉座でに相まみえた際、黄色い絹の仮面が外宙とつそらを指してわらったのだ。

 見よ、今や奈落の底にが生み出した、全てを罵り無窮の中心で冒涜な言辞を吐き散らかしているお方、時間を超越し絶え間のない混沌。ではなにものにも崇拝されず、ではありながらにおいてはあらゆる宇宙において崇拝なされる彼の、魔王アザトースを生んだ君にこそ最大の幸あれかし。

 厳かに宣言し黄色いローブの膝を屈して絹の仮面を剥いだ。

 哄笑はあがらなかった。創造主にかしずくその無貌に浮かぶ表情たるや。

 H.P.Lは今や識っている。

 一二八年前、一八九〇年。八月二十日。

 プロヴィデンスで生を受けたときには実存しなかった神性たち。

 身罷みまかった際に僅かばかりながら命を宿し始めたが、あまたの仮面を持つ名状しがたき無貌たちが、幾百幾千幾万もの名を与えられ未来世において原初のあぶくが沸き立つようにそこかしこで書き連ね続けられていること。

 今や神話は神話ならず。無窮の血肉を宿した実存在であることを。

 イア! ラヴクラフト フタグン!

 あれほど笑みを浮かべるのが苦手だった自分が、無表貌であった自分が、頬を緩め相好を崩してにこやかな表情を浮かべているなんて。血色の良い両頬にえくぼが窓から差し込むプロヴィデンスの陽を浴びて陰影をなしている。

 なんという恐怖なのだ。笑いと怪奇とはコインの表と裏なのだ。

 快哉を叫び面長のかんばせが哄笑した。

 物語は続くのだ。永久に。何度も連環を繰り返し滅びと再生を繰り返すのだ。

 後継者アウトサイダーに世界は満たされている。これからも溢れる。

 ゲラゲラとした主の笑い声にメネスが抗議するかに一声鳴いた。

 哄笑は止む気配を見せず延々と続くことであろう。


 そは永久に横たわる死者にあらねど

 測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるものなり


(了)


後日譚:筆名

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890734306

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