箱とわが解体

夢見里 龍

   


 箱がある。


 紙製の箱だが、板紙を多層構造に加工しているので、素材からは想像できないほどに硬くて衝撃にも強い。直径は私の腕がまわらないほど。極めて精密な正方形を象っているが、残念ながら左下部の角が潰れているので、完璧とは言い難い。肌触りは比較的すべすべとしていて、なめらかな外装の内側に波紋のような起伏が隠れているのが指の腹から感じ取れる。柔らかな胸の裏側に肋骨がきしきしとひしめいているように。凍えた膚の内側に熱く脈動する血管があるように。どうにもぱっとしない、萎びたような外装をめくれば、脆い紙の箱を強靭にする為に埋め込まれた、精緻な波紋があるのだ。


 鼻を寄せると、微かではあるが、この箱には独特な香りがある。

 僅かに甘い、極めて科学的な香りだ。香りには動物的なものや植物的なもの、食べ物に近いものがあるが、そうした種類に属するどのような特徴もこの香りからは嗅ぎ取れない。不自然な香りは、しいていうならば人間の体臭に近い。紙の原材料である樹木の香りは残っていない。舌を伸ばして舐めようとしたが、恐らくはどんな味もせず、ただ自分自身の唾液の味だけしか味わえないだろうからやめておく。



 私は、この箱を解体しなければいけない。

 箱にはもうなにも収まっていなかった。詰まっていたものは全部取りだした。

 あとは解体して棄てるだけだ。



 解体という言葉が正確かどうか。はてさて私は、ここで考えねばならない。

 解体とは基本的には大規模なものを破壊、或いは分解する際に用いる言葉だ。例えばそれは建築物である。船である。鉄道である。動物を捌く際もこの言葉を適する。映画や小説のなかではしばしば浴室で夫や妻、恋人や親友を解体する、という場面が登場する。実際に事件となったこともあった。解体という言葉に適するのは、物理的なものだけとは限らない。例えばそれは政治である。集団である。思想である。


 いずれにせよ、日常的には聞かれない言葉であることは間違いない。



 さて、ここにあるのは箱だ。

 解体するといっていいものなのか。



 紙を破り捨てることを解体とは呼ばない。丁寧に組み立てられた箱を平面的な紙板にもどす作業を解体と言っていいのかどうか。一般的には言わないはずだ。だけれど私は、この箱を解体するのだ、と言ってしまいたかった。


 分解でもなく、畳むのでもなく。解体するのだ、と。


 箱の起伏を指でなぞり、その香りに人間臭さを嗅ぎ取ったからには、この作業は単なる分解であってはならない。生物の分解は作業であってもその真髄は儀式だ。

 故に人間の四肢や頭部や胴体をばらばらにすることは解体と報道される。



 そうだ、私はこれからこの箱を解体するのだ。



 手許にあるのはひとつの、金属製の鋏だ。立派なものではない。どこにでも販売しているような安物だ。

 見れば瞬時に値段が解る程に安い日用品の一種。



 それを握り締めて、振り上げる。

 箱の側面に先端をむけ、呼吸を整えた。


 貫くのだ、極限まで強度を高められた紙製の箱を。どれほどの技術を持って生産されていようと、結局は安価な紙の塊でしかない量産型の箱を。人間の臭いが染みついた、つまらない、からっぽの箱を。


 心拍が上昇。肋骨が震動する。箱の姿が、ぐにゃりと曲がった。既に箱は有り触れた正方形の無機物ではなく、生き物か何かのように息衝いている。誰かの心臓になり、誰かの肩甲骨になり、誰かの頬になり、また一瞬だけ箱にもどり、ひとつのかたちになりきれない肉塊のように蠢く。


 誰かは、見慣れた姿にも受け取れ、面識がない赤の他人のようでもあった。

 私は誰を解体するのか。誰かを解体したいのか。



 箱の顔が、微笑う。

 嘲りと懇願という、両極端な感情を滲ませて。



 腕から指に掛けての筋肉が伸縮する。降り降ろそうとして一瞬ためらったのがいけなかった。僅かな逡巡が背骨を凍らせる。もう二度降り降ろせないのではないかと疑うほどの、嫌に重い沈黙。


 ぎゅっと詰め込んでいた酸素が、肺が抜けた。


 息ができなくなる。私はどこにいるのだろうか。ここは浴室などではないのに、浴槽の底にしずんでいるかのようだ。ああ、そう言えば、この箱の質感は琺瑯ほうろうの浴槽に近いのだ。あくまで表層的な肌触りであって、内部の感触はもっと人間的だけれど。


 人間的。その言葉が、頭蓋をすり抜けていく。


 他の誰かを解体したいわけではない。怨む相手がいないわけではないけれど。傷つけられた経験がないわけではないけれど。この箱は、誰でもないのだ。誰でもないならば、誰だろうか。私が、解体したいのは――。


 恐怖が微かにたわむ。鋏を握る指に力を込めた。


 降り降ろす速度は緩慢だ。勢いがない。思いきりはついていない。箱の側面に先端が当たる。誰かを呼び留めるくらいの、とん、という軽い振動が二の腕を昇っていく。突き刺さりはしない。表装を僅かに穿っただけだ。そこからゆっくりとちからを込めて、鋏を握る両腕に体重をかけた。ぎしぎしと箱が軋んで、痩せた胸板の幻影が、そこに覆い被さる。ぷつ。貫通する音がして、指さえ濡らさない幻の血潮が珠になって膨れる。あとは一気に鋏の先端部分が箱の反対側まで通り抜けた。身体が前のめりに倒れる。傾いた上半身を箱が受け留めてくれた。


 ふと力が抜ける。解体だなんて言葉ばかりだ。私には、人差し指程度の傷を穿つのが精一杯だ。


 鍵穴のようなそれ。襞のようなそれ。

 なぜれば、ただ紙の感触。人肌には似ても似つかなかった。



 今度は一息で、と。また箱と対峙するであろう私自身に懇願する。

 戸惑わず、逡巡なんてほんのひとかけらもはさまずに。

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