無意識のお供え物
江田 吏来
無意識のお供え物
私の夫は、飲み物を少しだけ残す人です。
マグカップのコーヒー、缶ビール、ペットボトルなど、容器や飲み物の種類に関わらず、いつも1センチメートルほど飲み残して、放置しています。
最初は、ただの飲み忘れだと思っていたのですが、いつも残っているのを見ると、ため息しか出てきません。
まだ飲むのか、片付けてもいいのか。判断に迷います。
その迷いは、ほんのわずかな時間のロスかもしれませんが、苛立ちが募ります。
食事はきれいに平らげるのに、飲み物だけは、ほんの少しだけ残す夫。
コップの底にゆらめく液体を見付けると、そのまま叩き割りたい気分になることもありました。
娘が生まれてからは、すべてをきちんと片付けたいという気持ちが大きく膨らんで、ついに我慢の限界がやってきます。
ようやく歩きはじめた1歳の娘が、ローテーブルに置いたままの缶ビールをひっくり返したのです。しかも、
私は、おさえつけていた不満をぶちまけるように怒鳴って、娘を止めると、夫を睨みつけました。
「どうして全部飲まないの?」
男は飲むだけで、最後の片付けは女がしろとでも、思っているのか。
激しい怒りを込めた甲高い声で、荒々しく叫ぶと、夫は、うろたえながら首をすくめました。そして、申し訳ないといった表情で、こぼれたビールをふき取りながらつぶやいたのです。
それは、消え入りそうなか細い声でしたが、私は耳を疑い、愕然としました。
「飲み残し? 俺が?」
夫の飲み残しは、完全に無意識だったのです。
そんなことがありえるのか。半信半疑でしたが、最後までちゃんと飲む。飲み残しはもうしない。と、約束をしてくれました。
夫は、約束を必ず守る人です。
飲み残しはなくなり、私のストレスも和らいだのですが……。
「あなた、大丈夫?」
真夜中、夫が、ひどくうなされるようになったのです。
翌日、うなされていたことを伝えても、「ぐっすり眠ってたんだけどなぁ」と、小鳥のように首をかしげるだけ。
仕事の忙しさに加えて、今年は異常なほど暑いから、きっと疲れがたまっているのだと思っていました。
しかし、八月のお盆の時期に、異変が起こります。
夫が苦悶の表情を浮かべてうなっているので、いったん起こしてあげようと、肩に手を置きました。
すると。
何かが、私の腕を、つかんだのです。
ねっとりとした、気持ち悪い温かさが、べっとりと腕に。
「ひぃっ」
思わず息をのみ込んで、振り払おうとしましたが、プラスチックが焼け焦げたような、独特の悪臭が鼻をつくと、身動きひとつできなくなりました。
そして、私は、見ました。
聞きました。
真っ黒にすすけた枯れ木のような老婆が、ずずずっと、近づいてくる姿を。
地の底から這いあがってくるかのような低い声で、私に向かって叫ぶのです。
「……みぃ……ずぅぅぅううぅ……、みずぅ……」
全身、焼けただれた皮膚を、赤黒く剥き出しにしたままで、私の腕を強く握りしめて、顔を近づけてきます。
骸骨のような顔に浮かぶ血走った目を、異様に大きくギョロつかせながら。
「ぃ、いやあぁぁぁぁぁああッ!!」
私は、身体がバラバラに壊れてしまいそうなほど大きな声をあげて、そこからの記憶はありません。気がつけば病院のベットの上で、目に涙をためた夫が、心配そうにのぞき込んでいました。
私が手を伸ばすと、涙をふいて、しっかりと握ってくれました。
ほっと胸をなでおろして、温かい大きな手にすがりつきましたが、夫以外の気配を感じるのです。
まだ恐怖が背中にこびりついていたので、ゆっくりと目だけを動かしましたが、恐ろしいものは何ひとつありません。
視界の片隅に、義父の姿があるだけでした。
「お義父さん、どうしてここに?」
弱々しい声でたずねると、義父は、白いものがたくさん混じった頭を、深々と下げるのです。
「すまない。本当にすまなかった」
なぜ謝るのか、まったく分かりません。それでも義父は、頭を下げたままで、語りはじめました。
「あんた、覚えとらんかもしれんが、焼けただれた老婆がどうこう叫んでいたんじゃ。きっとそれは、わしが継ぐはずだった寺におった人たちだったのかもしれん。それから……、飲み物を残すくせは、わしにもあるんじゃ」
義父の父、義祖父は、お寺の住職だったそうです。
戦時中はケガ人を介抱していましたが、戦況は悪くなるばかりで、毎日が、地獄絵図のようになりました。
たくさんの死体を物のように扱う悲惨な現実は、戦争が終わっても義祖父の心を苦しめます。
若かった戦後生まれの義父にとって、いつまでも過去を引きずる義祖父の姿は、決して好ましいものではなく、とうとう対立してしまいました。
最終的に殴り合いのケンカをして、お寺を継がずに、荷物をまとめて家を出たそうです。
その時に、義祖父は大きな声で言ったのです。
「家を出てもいいが、どうか、ひと口の水も飲めずに亡くなった人たちのことを、絶対に、忘れないでくれ」と。
しかし、もともと仲が悪い親子だったので、長い年月と共に、記憶からこぼれ落ちてしまいます。
それでも、ひと口だけ飲み物を残す習慣は、抜けませんでした。
焼かれてしまった人たちのために、飲み物を分けてあげるという本来の意味を見失っていたのに。
そんな義父の姿を見て育った夫も、いつの間にか飲み物を残すようになったのです。
「寺はもうなくなってしまってな、供養してやれんようになったんや。すまんかったな。わしが、もっとしっかりしておけば……」
「お義父さん、頭を上げてください」
私が嫌っていた夫の飲み残しは、熱い、熱いと悲鳴をあげながら焼かれた人たちへの、お供え物だったのです。
夫の無意識な行動でしたが、本当の意味を知ると、自然と涙があふれました。
「ごめん……な……さい」
知らなかったとはいえ、私は、自分の都合で、お供え物を無理やり奪っていたのです。
それから、夫の飲み残しについて口を挟まなくなりました。
むしろ、外出先の飲食店でも、ガラスのコップに残った水を見付けると、心の中で手をあわせています。
どうか安らかに、お眠りください、と。
【了】
無意識のお供え物 江田 吏来 @dariku
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