四、本番後


 監督の声を聞いて、張り詰められていた緊張の糸が斬られたかのように、スタッフたちがざわざわと動き始めた。

 木吉もふらつきながら立ち上がり、ぼんやりとしていた。


 木吉の中では、血が沸騰している感覚が残っている。

 自分が血糊まみれであることや、ここが真夏の太陽の真下だということも忘れて、一先ずは落ちていた剣を拾うことしか出来なかった。


「小坂さーん、着替えをお願いしまーす」


 柳の方向からADの青年に呼ばれて、木吉はそちらを振り返った。


「分かりましたー」


 多少掠れた声で返答した木吉は、刀のレプリカを鞘に納めて、ADの元へと行った。

 最初は紅色だった着物は、木吉が俯せに倒れてしまったせいで、より鮮明な赤色に染まっていた。ADは嫌そうな顔をしながら、一番外側の着物から、つぶれた血糊袋を取り出した。


「すみません、着替える前に、水を飲んでもいいですか?」

「あ、構いませんよ」


 やっと痛むような喉の渇きに気付いた木吉がそう言うと、ADは小走りで大量のペットボトルが入ったクーラーボックスへ向かっていった。

 その背中を見て、暑い中悪いと思いながらも、木吉自身は駆け足が出来ないほど疲れていた。


 こんなに白熱したのは、いつくらいだろうかと、木吉は考える。

 目元に掛かりそうな汗を腕で拭ったため、メイクが酷く崩れてしまった。


 このまま終わりたくないと思ったのは、初めて浅岸監督の作品に出た『再熱』以来のことだった。

 ただ反射的に李卯の刀受け止めたのに、彼女は驚きながらも芝居を止めずに、さらに反撃を仕掛けてきた。


 その後の刀同士の交差は、楽しいというよりも、生死のやり取りを本気でやっていた心持ちだった。

 事実、木吉は仁左衛門という役が、一回きりのやられ役だということすら忘れて、李卯の命を本気で刈り取ろうとしていた。


 本当に李卯を斬ってしまったら大変どころの話ではないなと、木吉は改めてその恐ろしさにぞっとする。

 アドリブの応酬の果てに、李卯が勝利して、本当に良かったと今ではのんきに思っていた。


 木吉の飲み物を取りに行っていたADが、こちらの方へ戻ってきた。

 しかし、木吉にペットボトルを渡す前に、彼の背後を見ると、慌てて頭を下げた。


「お疲れ様です!」

「ああ、お疲れさま。木吉君も、ご苦労だったね」


 木吉が横を見ると、浅岸監督が彼らに歩み寄ってくるところだった。

 ADが恐縮しているのを見て、浅岸は笑顔で言った。


「気にしないで、彼に飲み物をあげたらどうだい?」

「はい! こちらをどうぞ!」

「ありがとう……」

「では、失礼します!」


 目を点にしながらペットボトルを受け取った木吉に、ADは九十度の礼をして、回れ右をすると走り去っていった。

 「監督と話しちゃったーーー」という心の声が聞こえそうな彼の背中を見送りながら、木吉はペットボトルのスポーツドリンクを飲んだ。口から離れた時、ペットボトルの中身は三分の一ほどになっている。


「……監督は彼女のこと、知っていたのですか?」


 浅岸に顔を向けた木吉は、開口一番にそう尋ねた。

 すると浅岸は、珍しく満面の笑みで頷く。


「偶然、テレビをつけたら竹見君がトークの番組に出ていてね。元々は、スタントマンになりたかったと言っていたんだ」

「へえ」

「父親が熱心なブルース・リーのファンで、彼女も小さい頃から一緒に見て、好きになったそうだ。キックボクシングのジムにも通っていて、見事なハイキックを披露していたよ。蹴る瞬間、今までと彼女の目付きが、大きく変わってね……君も覚えがあるだろう?」

「ええ」


 木吉は静かに頷いた。

 柳の木まで追い詰められた時に、李卯が頭上高く刀を構えた瞬間、彼は本心から殺されると思った。


「彼女の事務所から、ぜひ竹見李卯を主演女優として使ってほしいと打診された時、あの目を思い出して、受け入れたんだ」

「そうだったんですか」


 木吉は監督の言葉に納得して、何度も頷いた。

 そのような経緯があったのなら、一度も事務所の推薦を受理しなかった浅岸が、例外を作ったのだろう。


 また、木吉は浅岸がニュースとドキュメンタリー以外はテレビ番組を見ないことを知っていたため、李卯の出たバラエティを見たのは本当に偶然だったはずだ。

 チャンスは努力で掴むというのが座右の銘の木吉にも、「巡り合わせ」という言葉が頭をよぎった。


「ちょっと、監督!」


 二人がしみじみとしている所へ、プロデューサーが慌てた様子で駆け寄ってきた。


「もう、殆どのスタッフたちが撤退の準備を始めていますが、撮り直しはしないのですか!?」


 それを聞いて、木吉はやっと、今のシーンの半分ほどがアドリブだったことを思い出した。

 無我夢中で戦っていたが、冷静になってみると、あのままで大丈夫だろうかという不安が、湧き上がってくる。


 しかし、浅岸はむしろ何を言っているんだと言いたげに眉を顰めて、プロデューサーに断言した。


「あれほどいいシーンが撮れたんだ。カットするわけがないだろう」

「……しっ、しかし、尺の関係上、このままという訳には……」

「それは、おさねと幸助の逢瀬を一つ削れば大丈夫だ」


 浅岸はあっけらかんと、まだ撮影していないおさねと幼馴染の同心のシーンを削ろうと提案する。

 プロデューサーは、絶句した後に、声を張り上げた。


「なっ、何を言っているんですか! そんな無茶、通るわけが、」

「上辺だけのラブシーンよりも、命がけの殺陣の方が芸術的だと思わないか?」


 木吉の目を見て、浅岸はそう言った。

 その一言に、木吉は再び胸が熱くなるのを感じた。

 一生、この人についていこうと、改めて彼は誓う。


「じゃあ、木吉君、私は戻るよ。君も早く帰って、ゆっくり休んでくれ」

「はい! 監督、お疲れさまでした!」

「ああ、お疲れ」


 浅岸は軽く手を挙げて、踵を返した。

 プロデューサーははっとして、彼を追い掛けながら話し掛けるが、ただただいなされるだけだった。

 去り行くその背中に、木吉は深々と頭を下げた。


「あの、小坂さん、着替えの方を……」


 今まで、木吉と浅岸が話し終えるのを窺っていたのだろう、先程のADに、また木吉は後ろから話しかけられた。

 改めて、木吉は汗と血にまみれた着物を見下ろすが、まだ彼にはやりたいことが一つあった。


 ADにもそう断って、木吉はシャワールームの場所を聞いた後、ペットボトルを持ったままで、そことは別方向へ歩き始めた。






   □






「李卯ちゃん、お疲れさま」


 マネージャーの中田が、スポーツドリンクとタオルを持って、堀のそばへと駆け寄ってきた。


「中田さん……ありがとうございます」


 李卯は息を切らしながらも礼を言って頭を下げ、受け取ったペットボトルから一気に半分ほどを飲み干した。

 その後にタオルを受け取り、肌が出ている部分の汗を拭きとった。


「すごかったわ、李卯ちゃん。とても、とてもかっこよかったわよ」

「そうですか。ありがとうございます」


 中田は感極まって、涙目になって李卯を称える。

 しかし、李卯はあまり実感を込めずに、一応礼だけを言った。


 殺陣の間、李卯には殆ど記憶が無かった。

 必死に、木吉の剣を受け、彼を倒そうとしていて、自分がどう動いたのかすら、おぼろげだった。体中の疲れだけが、激しい戦いを、李卯に証明していた。


「小坂さんのアドリブを受けて、さらに攻撃も返してきたなんて、本当にすごいわ」

「あ……アドリブ……」


 中田の一言を受けて、李卯はやっと、殺陣の途中からアドリブ合戦になっていたことを思い出す。

 ただの新人女優の分際で、生意気にも大監督の映画ということすら忘れて、アドリブを行ってしまった。またこんな暑い中、木吉とスタッフたちにリテイクを撮らせるつもりなのか。


「李卯ちゃん? どうしたの? 気持ち悪いの?」


 見る見る顔が青ざめて、前屈みになった李卯を見て、中田は熱中症を疑い、優しく声をかけながら背中を擦る。


「いえ、大丈夫です……」


 李卯は小声で返したが、汗と共に涙がぽつぽつと落ち、乾いた地面の染みとなった。

 彼女は中田に連れられて、本番前に待機していたテントへ行き、元のパイプ椅子に座った。


「中田さん、私、大丈夫なのかな……」


 再びスポーツドリンクを飲んで、落ち着きを取り戻した李卯は、そう言って、アドリブを行ってしまったことによる不安を吐露していた。


「……私は、映画関係に詳しくないから、あんまり言い切れないけれどね、今撤収しているみたいだから、リテイクはないみたいよ」


 中田の優しい言葉に促されて、李卯は顔を上げる。

 所々に散らばっていたスタッフたちは、カメラを運んだり、機材をスーツケースに入れていったりと、忙しそうに動き続けていた。


 体の熱が冷めてしまったかのように、しばらくぼんやりと辺りを眺めていた李卯の視界に、木吉の姿が入ってきた。

 彼は真っ直ぐこちらへ向かっていて、李卯と目が合うと、微笑み返した。


 その瞬間、電撃が走るかのように、李卯は彼にしてしまったことを思い出し、素早く立ち上がると、木吉に向かって頭を下げた。


「二回も蹴ってしまい、申し訳ありませんでした!」


 丁度李卯と同じテントの中に入っていた木吉は、一瞬きょとんとしたが、ああ、あのことかと、笑いながら手を振る。


「気にしていませんよ。あの瞬間なら、あれがベストだったと、分かっていますから」


 李卯が不思議に思って顔を上げると、何故だか木吉は恥ずかしそうに言った。


「それに、謝らなければいけないのはこちらの方です。突然アドリブをしてしまって、申し訳ありません」

「いえ、こちらは無我夢中で、アドリブだったことに気付かなかったくらいでしたから」


 一瞬、木吉の両眼が驚いて見開かれたが、再び彼は目を細めた。


「監督が、褒めていましたよ。こんな芸術的な殺陣をカットできない、他の場面を削るとおっしゃっていたくらいで」

「そうなんですか」


 監督から褒められて、李卯は恋する乙女のように、恥ずかしそうに両手をくねらせる。

 中田は、それを微笑ましく眺めていた。

 一方で、木吉は真剣な顔で、口を開いた。


「それとはまた別に、僕は竹見さんに謝らないといけないことがあります」

「何でしょうか?」


 不思議に思って目を瞬かせる李卯に、木吉は淡々と語り出す。


「僕は、あなたのことを、ただのアイドル上がりの新人女優だと決めつけて、その部分しか見ていませんでした。はっきり言うと、あなたのことを、認め切れず、またその一方で、これほど早く浅岸監督作品の主演になれたことを、嫉妬していたのです」


 それを聞いて、李卯はリハーサルや本番前の木吉の様子を思い浮かべていた。

 あれには、嫉妬の感情によって拗ねていたのだと思うと、十歳以上年上の彼が、少し可愛らしく見えてくる。


「しかし……一俳優の高飛車な意見だと思って無視してくれても構いませんが、あなたの殺陣が、アクションが、この世で一番だと思っています。こちらから振っておいてなんですが、殺陣のアドリブに即座に対応できる役者は、ベテランでもいません」


 真っ直ぐに見つめられながら、木吉にそう言い切ってもらって、李卯の胸奥が、再び熱くなるのを感じた。

 『濡れた剣』で憧れた俳優にそう言ってもらえて、李卯はやっと、自分が夢の第一歩を、踏み出せたのだと、確信できた。


 心に点いた小さな火種が、段々と大きくなっていくのを感じている李卯に、微笑を浮かべた木吉は右手を差し出した。


「また、一緒に剣を交えましょう」

「はい。もちろんです」


 李卯は勢いよく木吉の手に、自分の右手をぶつけた。

 小気味よい音が響いた後、二人は力強くお互いの手を握った。

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火花を刹那散らせ 夢月七海 @yumetuki-773

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