三、本番
「おさね役の竹見さん、仁右衛門役の小坂さん、入りまーす!」
ADに紹介されて、堀のすぐ横、スタッフに囲まれた二人は頭を下げた。
しかし、お互いの目を合わせようとしない。
浅岸監督から、最後の指示が入った。ただそれは、殺陣のシーンの直前までの演技の指導だった。
場所は堀の真横。木吉は一本の柳を背に歩いてきて、李卯はその向かいから向かうことになっていた。
カメラも音声も準備が出来たので、パイプ椅子に座った監督の「アクション!」の声が甲高く響いた。
最初は、前を睨むような表情で前を歩く李卯のカットからだった。線路に乗せたカメラが、滑らかに彼女の歩みに合わせて撮影する。
そのフレームに、俯き気味に歩く木吉が、李卯の右手側へ入ってきた。
逆光になっているため、表情が暗く伺い知れない。
「……
李卯の真横で立ち止まった木吉が、ぼそりと呟く。
突然父の名前を聞いた李卯の役、おさねははっとして、咄嗟に後ろへ飛び上がる。手は勝手に、左腰の刀の柄へ伸びていた。
ここが前半で最も重要なシーンであり、つつがなく進行した。
カメラは李卯の背後へ配置した手持ちの一台へ切り替わり、李卯の背中から、徐々に喜吉の姿が映るように移動する。
不敵な笑みを浮かべて李卯を見つめる木吉に、照明が当てられた。
『濡れた剣』の時とは全然違うと、李卯は頭の片隅で思った。
今の小坂木吉は、冷たい氷のような雰囲気をまとっている。目元を吊り上げるようなメイクの力もあったが、これはやはり、本人の演技によるものであろう。
つい先ほどまで、退屈そうにスマホをいじっていた人物には見えなかった。
一方で木吉は、まだ早く帰りたいという気持ちはあったものの、役に没入していた。
自分を殺して、一人の冷酷な用心棒として、李卯の顔を眺めている。
「俺は用心棒をしている、鳥部仁左衛門という者だ」
「……お前を雇ったのは、堂崎鹿太郎か?」
同心の幼馴染がいるという設定のおさねは、彼の情報から、父を殺害した最有力候補の名前を挙げる。
すると、木吉は嬉しそうに、右手で笑いをこらえながら言った。
「それが分かっているなら話は早い……ここから先を通させるなというのが、依頼の内容でな」
二人の冷たい視線が交差した直後だった。
一番広範囲を撮影できる固定カメラが、一足で間合いを詰めて、刀を抜いた李卯の姿を捉えた。
木吉の左肩へ向かって容赦なく振り下ろされた刀は、彼が右手だけで抜いた刀によって、受け止められた。
ガシンと、鉄と鉄がぶつかり合う重たい音が響く。
木吉の反応の素早さと、片手だけで自分の剣を止められたことに、李卯はおさねという役も忘れて、驚愕の目を開く。
一方木吉も、レプリカとはいえそれなりの重さを持つ刀を、渾身の力を込めて振り下ろしてきた李卯に対して、内心ではっとしていた。表情には全く出なかったが、何かのスイッチが入るのを、彼自身だけが感じていた。
木吉は両手を用いて、李卯の刀を弾くと、そのまま自身の刀を彼女に振り下ろしてきた。
半歩後ろに退いて、李卯はそれを躱す。
木吉の両眼は、テントの下の時とは別人のように、ぎらぎらと輝いていた。
それはまるで、刀がぶつかり合った瞬間、李卯の熱意が彼の瞳に飛び火したかのようでもある。
この様子を、二人を囲む三方のカメラと、堀の向こうのもう一台のカメラが捉えていた。
勢い余って、地面ぎりぎりまで刀を下ろしてしまった喜吉の心臓に向かって、李卯は突きを繰り出す。
しかしその気配を察知した木吉は、右足を軸に体全体を半回転させて避けると、刀の峰で李卯の刀を上へ弾いた。
カチンという音が、青空に吸い込まれていく。
一瞬、時が止まったかのように二人は膠着するが、電光石火で李卯は木吉の右手首に向かって刀を振り下ろすが、それはまた受け止められてしまう。
李卯は木吉の右鳩尾、臍の辺り、左腰、左肩を狙って刀を振るが、それらは全て受け止められてしまう。
短くも激しい戦いに、李卯の顔は疲弊の色も見せて、息も切れていた。
だが、今まで余裕を見せていた木吉も、浮かべていた笑みが引き攣り始め、滝のような汗が流れ出ている。
決着を急いた木吉は、左肩への刃を逆手で止めた状態から、全力で横へ弾いた。
その勢いを利用した李卯は、自分の体全体を回転させて、木吉の胸部を水平に一閃して、服ごと血糊袋が破れ、喜吉が演じる仁左衛門はその場に倒れるという台本だった。
袴や黒髪を軽やかにたなびかせて回る李卯の姿が、その刹那、スローモーションになっているように、木吉は見えた。
その、がむしゃらな李卯の瞳と目が合った直後、無心で仁左衛門を演じている筈の木吉は、このまま終わりたくないと、感じてしまった。
無意識に、両手が振り下ろされて、彼の刀は李卯の愛刀を受け止めていた。
ガキーーーーンと、今までで一番重い音が、堀の水面に波を生み出した。これまで無言で自分の仕事に徹していたスタッフたちが、息を呑む。
李卯は再び驚きの表情になる。
それは、木吉が台本に無いことを行ったことではなく、おさねとして渾身の一撃を止められたという衝撃によるものだった。
それも刹那のことだった。
相手が先に体勢を立て直す前にと、李卯は木吉の腹に膝蹴りを入れた。
「ごふっ」
木吉は思わずエビ反りになって、後ろへよろめく。咄嗟に刀を地面に刺して、持ち堪えた。
無理のある動きだったが、李卯の膝には十分強力だった。
二人が全く台本にない動きを初めても、浅岸監督は止めようとしなかった。
監督が「カット」と言わない限り、他のスタッフたちも示し合わせたように撮影を続ける。おろおろしていたのは、監督の隣にいたプロデューサーだけだった。
李卯は木吉が刀を動かせない今が好機だと、一歩足を踏み出して、右肩を狙った袈裟斬りを繰り出す。
冷や汗を掻きながら、木吉は後ろに退いた。しかし、まだ刀は抜けない。
再び、李卯が左からの袈裟斬り、木吉は間一髪で避けた。
もう一度足を下げたため、木吉も自身の刀を抜いたが、構える暇を与えないように、李卯は追い打ちをかける。
何とか防いだものの、李卯の猛追は続く。
じりじりと後ずさりしながらも、先の読めない李卯の刃先を、木吉は全て受け止める。反撃の隙を伺うが、そんなものは見当たらなかった。
木吉の背中に、突然痛みが走った。後ろを見ると、柳の木が立っている。
追い詰められ続けて、数メートル後ろにあった柳の木にぶつかってしまったのだ。
はっとした木吉の頭上に、李卯の刀が迫る。
その真っ黒な瞳に、煤けたような殺意の匂いを嗅ぎ取った木吉は、必死に刀を振り上げた。
二本の鍔と鍔がぶつかりそうなほど、二人は接近する。
目の前に、刹那の火花が散ったかのようだった。
現代の誰も見たことのない、剣豪同士の戦いが、この瞬間に宿っていた。
力で上回る木吉が先に刀を振るい、李卯の刀を上空へ弾いた。
李卯は、刀を蝶のような優雅さで、半円を描きながら降ろしていく。
この一瞬を、待ち構えていた木吉は、彼女の胸に向かって刀を突いた。
しかし、その剣先は、届かない。
李卯が左足で、木吉の両手首を蹴り上げていた。即座に、彼女の足は下げられる。
驚愕のあまり、頭が真っ白になった木吉の胸へ、右から刀が一閃した。
ぶしゃりと、斜めの切り傷に合わせて血糊が噴き出す中で、李卯は静かに刀を下した。
後ろへ少し下がると、目を見開いて刀を持ち上げたままの木吉が、膝から崩れ落ちた。
俯せになり、胸からまるで本物のように血を流し続ける木吉の手は力を失い、勝手に刀を放していた。かしゃんと、刀が地面にぶつかって小さな音がした。
それを無言で眺めていた李卯は、刀についていた血を振り払うと、鞘に納めた。そして、少し悲しそうな顔のまま、静かに目を閉じた。
その姿がカメラのアップで撮られていることをモニターの一つで確認した浅岸監督は、「カーーーット!」と、腹の底から叫んだ。
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