二、本番三分前
小坂
自分を見出してくれた浅岸監督の映画オファーを、いつものように二つ返事で受け入れた。
しかし、もしも主演女優の話を聞いていたら、断っていただろうなと、彼は今更考える。
木吉は下積み時代が長い事もあって、様々な役を務めてきた。自分より若い相手に殺されるなんて役もざらだった。
それでも、彼はこの配役、というよりも竹見李卯の剣の錆にされてしまうことが、不満で仕方がなかった。
理由は単純で、
共演を知った後にホームページで調べてみたが、二時間のスペシャルドラマでしか、主役を張ったことのないような演技経験だった。
エキストラを含めた演者にも、仲間意識を抱く木吉だが、この話は小骨が喉に引っかかってしまったかのような気持ち悪さを感じていた。
さらに言えば、李卯が主演に選ばれた理由が、オーディションなどではなく、彼女の事務所からの推薦だということが、木吉の違和感に拍車をかけていた。
浅岸は今時珍しいくらいの頑固な映画監督だ。
砂浜のシーンを海側から撮りたいと、急遽船を用意させたり、あの雲が気に入らないと、流れていくまで撮影を止めたりと、様々な逸話に事欠かない。
業界では、時代遅れの黒澤明と、揶揄されているくらいだった。
もちろん、俳優に対してもその厳しさは健在で、演技が下手だからと、某大御所をクビにしたという事件も知られている。
その分、信頼に値する人物でもある。
六年前、木吉は初めて浅岸が監督する映画に出た。出たというよりも、一瞬でやられてしまうエキストラという言い方の方が正しいが。
その映画、『再熱』の主人公が通う剣術道場の弟子の一人が、木吉の役だった。 カメラに映るのは二回ほどで、突然道場に入ってきた暴漢に為すすべなく斬られてしまうだけだった。
演技の指定通りに、木吉は斬られて仰向けに倒れたが、恨みがましく暴漢を睨み、最後の力を振り絞って彼の袴の裾に手を伸ばすが、途中で力尽きるというアドリブを入れた。
これで怒られたりNGになったりしても別に構わなかった。ただ、尊敬する浅岸監督の作品に出られたのだから、ただ斬られるだけは嫌だと、倒れた瞬間に思ったが故のアドリブだった。
だが、そのアドリブを、監督が気に入ってしまい、そのまま放映された。
さらにその翌年に撮影された、『濡れた剣』の主役の一人に抜擢された。
高校を卒業したと同時に飛び込んだ演技の世界、十年以上の下積みを得て、三十歳でやっと花開くことが出来た。
もう六年以上昔の出来事で、木吉もベテランと呼ばれる立場になったが、アドリブを行った瞬間や、主演に選ばれた喜びを、まざまざと思い出せる。
そんな彼だからこそ、今作の主演の李卯には、どこか許せないという気持ちがあった。
アドリブという汚い方法を使ってでも手に入れた映画界への好機を、殆ど努力していない彼女があっさりもぎ取っていってしまったということへの憤怒だった。しかしそれは、ただの嫉妬だと言い切れるのだが。
……キャストを知った後、木吉は偶然、浅岸と二人きりでバーで飲む機会を得た。
「浅岸さん、なんで主役はあのアイドルの子なんですか?」
何十人もいる人気グループの一人で、それなりの人気があった李卯だったが、正直木吉は知らなくて、浅岸に殆ど喧嘩腰で話しかけていた。
酒の入った浅岸は、木吉の口の悪さにも気にかけずに、口を開いた。
「木吉君、君はまだ、アイドルの子はみんな同じ顔に見えるなんて言っているのかい?」
「それ、前に浅岸さんも言っていたじゃないですか」
不満そうにウイスキーを煽る木吉に、浅岸は驚くほど朗らかに笑った。
「君も会えば分かるさ」
その後日、木吉は李卯と顔合わせをしたのだが、正直彼は失望した。
「おさね役の竹見李卯です。初めての主演ですが、頑張ります。よろしくお願いします」
深々と頭を下げる李卯の容姿は、きりっとしていて美しいが、態度は非常におどおどとしていた。
彼女には、浅岸が見出した何かがあるとは、到底思えなかった。
きっと、所属事務所から無理やり押し付けられたのだろうと、木吉は考えた。特に珍しい話ではない。
浅岸はそのような要望は突っぱねる人物だったが、最近はその映画へのこだわりが業界で疎まれているという噂も聞いた。支援を断つとか何とか言われて、飲み込む他は無かったのだろう。
彼女は、木吉の十年以上の下積みを、あっさり飛ばして頂点に立った。その上、自分のことを踏み台にしようとしている。
どんな役でも、求められたらしっかりとこなす木吉だが、自分の中で渦巻く李卯への嫉妬に疲れてしまい、今はもう早くこのシーンを撮ってしまいたいという気持ちしか残されていなかった。
普段ならあまり気にしていないのに、紅色の着流しも髷のカツラの蒸れが不快で、早く脱いでしまいたかった。
木吉の登場シーンはここだけだから、さっさと撮影を終わらせて、衣装を脱いでメイクも落として、ビアガーデンで一杯やりたい気持ちだった。
溜息をついて、スマホの時間表示の方へ目を移す。
本番まで、あと三分を切っていた。
丁度小道具係の男性が来て、血糊を着物の中に入れるので立ってくれるようにお願いされた。
言われたとおりに直立して、血糊を詰めてもらいながら、風呂に入る時間も必要だなと、また憂鬱な気持ちで考えていた。
ふと左を見ると、自分と同じく立ち上がり、ヘアメイクの最終チェックを受けている李卯の姿が目に入った。
その緊張感を湛えた凛々しい横顔を見て、俺とは正反対だなと思い、鼻で笑いたくなってしまった。
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