火花を刹那散らせ

夢月七海

一、本番五分前


 竹見李卯りうはやる気で燃え上がっていた。


 始めて、映画で主演女優を務めることになった李卯は、その映画がアクションの時代劇であることを知った瞬間に火が付いた。

 一カ月前にアイドルグループを卒業した彼女だったが、元々はスタントマンになりたくて芸能界に入った。今、やっと夢に近付くチャンスが来たことを強く感じている。


 アイドルの仕事も、とても楽しかったと、李卯は振り返る。

 しかし、踊っていても、歌っていても、トークをしていても、夢に後ろ髪を引かれているような気持ちだった。


 私はこれから、本当に自分の夢を叶えられるんだと、李卯は屋根だけのテントの下でパイプ椅子に座ったまま、くるりと辺りを見回した。

 江戸の街並みを再現した室外のセットで、ジーンズとTシャツ姿のスタッフたちがあっちへこっちへ動き回っている様子は、何ともちぐはぐで、現実味がなかった。


 一方李卯は、衣装として紫苑色の袴を着て、長い黒髪をポニーテールにしていた。何度も何度も読んで皺だらけになった台本を持つ手に、余計に力が入る。

 本番まで、あと五分を切っている。今から撮影するシーンは、李卯が初めて撮影する殺陣のシーンだった。


 李卯はこの瞬間も、ぎりぎりまできっちり練習していた殺陣を、イメージトレーニングしていた。ただそれだけなのに、額から汗が頬へ流れ落ちた。

 テントの位置は堀のすぐそばで、比較的風も入ってくるのだが、今年の酷暑には応えるものがあった。着なれない袴も、暑さを加速させているようでもある。


「李卯ちゃん、汗出てるよ?」

「あ、ありがとうございます」


 すぐ隣でマネージャーの中田が、ハンカチを李卯へ差し出した。

 彼女からハンカチを受け取り、李卯はそれでメイクを落とさないように気を付けながら汗を吸わせる。


 中田は李卯が二十四歳になり、グループからの卒業を半年前に発表した直後からの新しいマネージャーだった。

 短い付き合いだが、中田は李卯の本当の夢を理解して、それを叶えられるようにと全力を尽くしてくれた。渋る事務所所長を説き伏せ、この仕事を持ってきてくれたのも、中田だ。


 いざ、卒業を発表した後、これからどうすればいいのか悩んでいた李卯に、中田はアクション女優になればいいと提案した。

 「あなたには、これまで培ってきた努力がある」――何度か、李卯が通っているボクシングジムに同行していた中田は、そう言って彼女の背中を押してくれた。


 そんな中田の期待に応えたいという気持ちが強いが、またその一方で、この映画の監督が浅岸鉄郎だということも彼女大きな原動力となっていた。

 今生きている映画監督の中で、殺陣を撮らせたら彼に並ぶ人がいないと、世界中から絶賛されているのが、浅岸監督だった。


 初映画主演が、それほどの有名監督ということは、李卯にとって最大のプレッシャーでもあった。意識してしまうと、背中から脂汗が滲む。

 しかし、それ以上に浅岸監督の映画に出られるという喜びが、彼女を奮い立たせた。彼女は浅岸監督の一ファンとして、これ以上ない名誉を受けた気持ちだった。


 昔見た浅岸鉄郎の『濡れた剣』のクライマックス、さめざめと雨が降る中で小さな橋の上での決闘を、李卯は何度も見て目に焼き付けた。

 橋という場所を上手く利用した立ち回り、戦いのスタイルが全く異なる二人の動き、そして雨を受けてまるで泣いているかのような刀の煌めき――それらは激しくも美しくて、初めて見た李卯は自然と涙を流していた。


 また、『濡れた剣』の脚本にも、浅岸は大きく関わっていた。

 唯一無二の親友同士だった二人の男が、己が信念ゆえに仲違いを起こしてしまい、最後には剣を交えるという物語で、アクション以外のドラマシーンも丁寧に作られていた。


 李卯が主演の『花は散れども』も、五年前に亡くなった父が、実は陰謀によるものだったと知り、娘がその敵討ちを取りに行くというのが本筋だった。この作品の脚本にも監督は関わっている。

 すでに撮影してきた数回のドラマシーンでの李卯の評判は上々だった。しかし、それだけで彼女は満足しない。


 監督の持ち味である殺陣で、納得させないといけない。

 小さい頃、父が無理矢理見せて、衝撃を受けたブルース・リーのような動きを――そんな不相当なことを考えてしまうほどに、彼女は今回の映画に熱を入れていた。


 李卯は息を吐いて、自分をヒートダウンさせた。

 ふと、右隣のテントを見ると、今回の相手役である小坂木吉きよしが、衣装とカツラのままパイプ椅子に座り、自身のスマホをいじっているのが目に入った。


 相手が気付いていないとはいえ、李卯ははっきりと眉を顰めた。本番直前なのに、彼からは全くこの映画に対するモチベーションを感じられなかったからだ。

 木吉とは初めて共演するのだが、こんな人だとは夢にも思わなかった。


 彼は浅岸監督作品には常連のベテラン俳優で、『濡れた剣』にも、お人好しの昼行燈、しかし剣を抜けば鬼神のような強さを見せる、主人公の一人を演じていた。

 長い下積み時代の中、斬られ役のちょっとしたアドリブを浅岸監督に気に入られて、一躍脚光を浴びたという逸話を持っていて、その点も李卯は好意的に見ていた。


 今回、木吉は黒幕の雇った三人の用心棒の一人として、李卯に最初に立ち塞がるという役柄だった。

 しかし、リハーサルは、スローモーションで動いて、お互いの立ち回りを一度確認しただけだった。


 私は舐められていると感じて、李卯は自然に貧乏ゆすりを始めていた。

 これからの本番で、彼を見返してやろうと、心にさらなる燃料を投下された李卯は、無言で八月の暑さで揺れる、家のセットの間の蜃気楼を眺めていた。

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