第98話 東京の桜

 トラタ共和国へ、ナータの元へと帰るために日本を離れる日が近づいていた。 

 三年ほど前から会おうよと連絡をくれていた、学生時代に親しかった部活の先輩と卒業以来初めて会うことになった。奇遇にも彼女は、震災後に世話になっていた医者宅から歩いて三十分くらいで来られる場所に勤務していて、仕事が終わってから駅前で夕食を共にすることにした。


 駅前の指定された店の前で待っていると、互いに即気がついた。学生時代、身近に接する機会が多く渚沙を可愛がってくれていた由加里ゆかり先輩は、意志力が強くはっきり物をいい、長身で男っぽい印象を与える人だったが、久々に会ったら女らしく素敵に変身しているでないか。

「渚沙は全然変わっていないね」と由加里先輩は笑顔でコメントする。

 旧友たちにも必ずそういわれるが、渚沙の中身は昔とはまったくの別人だ。渚沙は天然ボケで人々のハートをつかんでいた。奇妙な運命に翻弄され、渚沙の性格はすっかり変わってしまった。

 悲しいけれど、あの頃の可愛らしさなどどこにもない。世の中のことを何も知らずに、穏やかだった学生の頃の自分に戻りたいとよく思う。 


 この時初めて、由加里先輩が趣味といえるくらいボランティアが好きなことを知った。産業心理カウンセラーの資格を持っていて、淡路・阪神大震災時も、今回の東日本大震災でもボランティア活動をしている奉仕の精神のある心熱い人になっていた。それで、渚沙のトラタ共和国での活動、特にスラム街や貧しい村落の子供たちのための、百三十校の無料教育学校にとても興味を抱いていた。渚沙はその他、ナータの日本の自然災害に関するメッセージや自分の特異な体験も打ち明けた。由加里先輩はそれらの話を深刻に受け止めて聞いていた。


 先輩と渚沙は、駅のすぐ近くにある蕎麦屋の二階の窓際の席に座っていた。食事を終える頃、窓の外に、夜の闇の中を店内の明かりに照らされて桜の花びらが舞っているのに気づいた。

 こんな町中に桜の木があるのかしら? 駅から歩いてきた時には気付かなかった。二人で桜の木を探そうとしたが、すぐ横の大窓からは、十メートルほど先の階下のスナックの看板のネオンと、駅方面から風にのってはらはらと踊っているピンクの花びらしか見えない。そのなんとも神秘的で優美な光景を、神が渚沙たち二人に示してくれた優しい祝福のように感じた。

 大惨事の痛ましい映像ばかりが生々しく記憶に残っていたので、桜の花びらを目にしていることが信じ難く、まるで夢のようだ。店から出ると、店のすぐ脇に静かに控えめに立っている一本の桜の木を見つけた。壮絶な苦難に見舞われたばかりの日本に、東京に、今年もこうして桜が開花してくれたのだと心が明るくなる。

  

「虹を楽しみたいのなら、雨に耐えなくてはならない」

  

 震災の日の夜、開いた本に載っていた言葉だ。この日の桜は、この「虹」を象徴しているように思えた。一時的な虹である。多分、被災地で自己犠牲を払ってきた心ある英雄、勇者たちのお蔭だろう。風に乗る桜の花びらが、彼らに注ぐ、神や自然の慈愛のように感じる。今後も雨はいくらでも降るに違いない。自分たちが変わらない限り、雨は止まず虹も出ない。我々の自己改革の戦いはこの先も長いこと続きそうだ。何故なら――


「過ちを犯した時、それを認めて責めを負う勇気と謙虚さを持ちなさい」 

  

 これができそうもないからだ。世界の人々からも愛される日本の桜を、みんなが心から安心して楽しめる日が来ることを夢見ながら、自分にできることをしながらしっかり生きていこうと誓う渚沙だった。



<第7章 サクラチル、サクラサク は今回のエピソードで終わります。第8章のスーパースプレッダーの更新はしばらくお待ちください。>

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渚沙の恋と捕まらない大量殺人犯ノート @himekon

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