青春ブタ野郎は台風一過の夢を見ない

井守千尋

青春ブタ野郎は台風一過の夢を見ない

「台風13号は、明日早朝にかけて三浦半島に最接近し……」

 その日、天気予報は大雨と出ていた。梓川咲太は、憂鬱に濡れ、そして傘が意味を成さないくらいに制服を濡らしながら峰ヶ原高校に向かった。

「ひどい雨だな」

下駄箱で、国見佑真が話しかけてくる。風雨にぐしゃぐしゃになった咲太とは違い、佑真は無造作ヘアと水滴によってワイルドなイケメンに見えた。靴下まで濡れた不快感と張り付いたスラックスのせいで、気ののらない一日が始まった。普段であれば抜けるような青空が広がる七里ヶ浜の海岸も、曇天で誰も見当たらない。波もどんどん強くなっていく。


 五時間目の授業の途中で、大雨警報と暴風警報が発令され授業が中断となった。急いで下校し始める生徒たち。咲太は妙に気分が乗らないので、物理実験室に向かう。

「なんだ、双葉もいたのか」

「下校しないのか? 警報が出ているぞ」

「それは双葉もだろう」

理央は、ぶつぶつ言いながら、アルコールランプで沸騰しているお湯を別のビーカーに注ぎ、咲太の分のコーヒーを作ってくれた。

「早く帰ったところでうちには誰もいないし、自宅よりはここの方が安心じゃないか?」

どこかの大学入試問題を広げ、ノートに数字やら記号を書き並べていく理央。咲太には、なにもわからないことがわかった。

「そのコーヒーを飲んだら帰ったほうがいい。かえでちゃんが待っているんだろ?」

「そうだな。でも、双葉も帰らなきゃ駄目だぞ」

「心配性だな。ブタ野郎の梓川に言われちゃ、私も帰るしかないか」


峰ヶ原高校の校門を出れば、左手に七里ヶ浜が広がっているが、モノクロームな風景を一瞬だけ確認すると、すぐに江ノ電の駅に向かった。駅員が、電車がとても遅れていると叫んでいる。四両分しかない小さなホームには峰ヶ原高校の生徒で溢れており、一度では全員乗れないのが明らかだ。十分後、既に多くの乗客でごった返したクリーム色と緑色の電車がやってきて、生徒を詰め込んで走っていった。

「十五分後くらいかな?」

時刻表を眺めると、今藤沢方面に走っていった電車は24分遅れのものらしい。それでもあと二時間くらいは走るとのことなので、家には普通の時間割で帰るのと同じくらいには帰れるだろう。スマートホンを持っていない咲太は、何をするでもなく荒れる風の音と、トタンの屋根にあたってばらばらと鳴る雨を聞いていた。全く景色が違う非日常空間は、まるで彼女たちが迷い込んだ思春期症候群の世界のように思える。


「咲太じゃない」

駅にやって来たのは、咲太の一つ上の先輩で、女優・桜島麻衣。長くて黒い髪に、大きくて澄んだ瞳と、ととのったプロポーション。ただ、いつもと違う点に咲太の意識は向かっていた。常に長い脚を包んでいるストッキングを履いていない。

「み、見ないで、エッチ!」

「朝濡れたんですか?」

「そうよ。ストッキングが濡れたまんまって気持ち悪いのよ」

白くて美しい脚線は、やはり雨に濡れていた。麻衣は咲太の隣にやって来て、持ってとビニール傘を差出す。骨が折れており、うまく留まらなかった。麻衣の傘は誰かが間違えて持っていってしまい、このおんぼろ傘が残っていたらしい。カバンからタオルを二枚取り出す麻衣。

「はい。これで拭きなさい」

「麻衣さんの綺麗な髪を?」

「咲太の髪。風邪引いちゃうわ」

この季節の平均気温から五度以上下がっている。放っておけば風邪を引いてしまうのも当然だ。

「ありがとうございます」

乾いたタオルに顔を埋める。ふつうのスポーツタオルだが、なんだかいい匂いがする、気がした。

「これじゃあ藤沢駅でもう一本傘を買わなきゃならないわね」

麻衣は丁寧に自分の髪を拭いていく。

「それなら、入ります?」

「相合い傘? そうね、入れてもらおうかしら」

「いいんですか!?」

麻衣がオーケーするとは思っていなかった咲太は、驚いて麻衣を二度見した。すると、ニットのベストも濡れてしまったなあ、と見下ろしていた。裾を掴んで、これを脱ごうかどうか躊躇している。

「……やめた」

「風邪引いちゃいますよ」

「咲太にエッチな視線で見られるよりは良いわよ。それに、電車の中でも見られたくないし」

「それはそうですね、僕の麻衣さんが周りからそう見られるのは悔しい」

麻衣はむっ、とした顔をすると、ふたたび無言で髪の毛を拭きだした。

雨はまだまだ止む気配はなく、電車もやってくる様子はない。いつの間にかホームには、咲太たちの他に誰も人がいなくなっていて、これならもうすこし電車が遅れてもいいかなあ、なんて罰当たりなことを咲太は考えたのだった。

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