未晶の時

坂水

未晶の時

 〈しょうの森〉では生きとし生けるもの全てが凍てつき晶化する。

 人の身体も、声も、想いすら、硬質に、純粋に、透明に。

 だからこそ、人は足を踏み入れる。

 ――その生命いのちとすら引き換えに。


 きらりきらりと舞い落ちる雪かみぞれかと見紛みまがつぶては激しさを増し、マリアは防晶眼鏡ゴーグルを嵌め直した。ケレーレ山脈より吹き降ろされる風晶――別名、蒼の魔獣アグーのあくびは、目に入れば失明の恐れもある。

 〈晶の森〉の保護を司る保護司となって十年。日課である巡察に出ているが、今日は口悪い相棒が熱で寝込んでおり、一人きり。森はいつにも増して静かだった。

 密生する樹晶に、嘆息ひとつマスクに染み込ませる。防寒と防晶で装備は重く、また負うた仕事道具は別の意味でも重い。けれど今日は森の深奥まで赴くつもりだった。




 晶と雪を踏み締め、樹晶を迂回し、巡察記録をとり、辿り着いたのは、薄陽も暮れかかった頃。

 森の奥深く、その晶像はあった。雄熊ほどもあろうかという水晶の塊。覗き込めば、赤獅子のような蓬髪ほうはつの男が透ける。


「……冬王とうおう


 それはかの人の渾名あだなだ。長ったらしい貴族の正式名もあったが、呼んだことはない。第一、不似合いだ。

 善政を敷き、領民に慕われ、武勇の誉れ高く、だからこそ反逆罪の汚名を着せられた。前王の非嫡出子ということも無関係ではない。

 彼が致命傷を負わされ、最期の場所に〈晶の森〉を選んだのには意味がある。少なくともマリアはそう思っている。だからこそ、十年。

 けれど時折、堪らなくなるのだ。領民に囲まれていた貴方が、この極寒の地でひとりぽっち。


 いっそ、解放、できたなら。


 衝動に背負った仕事道具――採掘槌ハンマーを外し、振り被った。

 晶像は砕かれた時、末晶まっしょうをあげる。すなわち宿主の想いをわずかな間映し出す。その時間、約三百セクド


 ――マリア。


 晶像は叫ばない。過去からの呼び声であり、心の捏造だった。

 採掘槌ハンマーは晶像に触れる寸前で止まる。

 今砕いても何らかの末晶があがるだろうが、それは彼が真実伝えたかったではない。

〈晶の森〉では全てが凍てつき晶化する。人の想いすら、例外ではない。けれど完全な晶化には気の遠くなる時がかかる――長い長い時をかけ、結晶化し、美しい宝石が生成されるように。


 見立てでは、完全な晶化までに約四十年。生きている間は叶わないかもしれない。

 彼を裏切った咎人も、領地改革案も、そして、自分への気持ちも埋もれたまま。


 

 ……たった五分のための四十年の浪費。

 

 

 ふ、と我知らず笑みが漏れた。長きにわた未晶みしょうの時こそが、自分への答えなのだとしたら。

 マリアは分厚い手袋とマスク越しに唇に手をやった。その指先を晶越しに押し当てる。そっと。

 以前は軽々しくできなかった。貴方は私だけのものではなかったから。この変化は悪くない。

 

 衝動と安らぎは交互に訪れる。

 

 貴方ともう一度会えるなら。

 マリアは天を仰ぐ。雪より氷より冷たく残酷で美しい晶が降り積もる。


 ……私は自ら囚われる。この永く甘やかな牢獄に。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未晶の時 坂水 @sakamizu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ