清子さんと魔法菓子・エピローグ

「おーい清子きよこ、大丈夫ー? これは最悪、熱中症かもしれないよ」

「どうしようナッコ! 我ら愛しのきよちーが、猛暑の犠牲者に!」

「先にアンタを犠牲者にカウントさせてあげようか?」

 聞き慣れた話し声が聞こえてきて、清子は目を覚ました。心配そうに顔を覗き込んでいた科子しなこ伊智子いちこは、心底安堵して緊張を少し緩めた。

「あれ……私、どうしちゃったんだろう?」

「もう、急に姿は消えるし、携帯も繋がらないから心配したんだよ。かと思えば、どうしてか羽村はむらさん家の前で倒れてるし。どうなってんのさ」

 振り返ると、そこは確かに羽村が仕事と生活両方に使っている事務所だった。立ち上がろうとしてドアノブを掴むと、鍵はしっかり閉まっていた。

「あれ、羽村さん、いないのかな?」

「ありゃりゃ、きよちーまだ寝惚けてる? 羽村の旦那は急に仕事が入って、一人でウキウキ出発しちゃってたじゃんか」

 意識がはっきりしていくうちに、清子はようやく思い出してきた。たまたま三人で商店街を買い物していて、近くを通ったから羽村の顔を見に行ったのだ。

 しかし羽村の事務所は閉まっていて、家主である礼蔵れいぞうに聞いてみると、朝から仕事で嬉しそうに飛び出していったと教えられたのだ。

「それで暇潰しに、うちらは冷蔵庫さんの店の片付けを手伝ってたんじゃん。あのお兄さん、手伝ったら駄賃もくれるっていうからさぁ」

 小金持ちの娘の台詞とは思えない発言に苦笑いしていると、科子は背丈の低い伊智子を容赦なく腕力で押さえつけた。

「そうしたら、清子は急に消えちゃうし、今までどこに行ってたの? しかも財布置きっぱなしで」

 と、科子はポケットから出した清子の財布を、すぐに手渡す。そうか、このビル

「えっとね、えっと、えっと……」

 清子は、その質問に答えることはできなかった。二人が言う、消えていた間の記憶が、すっぽり抜けていたからだ。

 何かすごく楽しい夢を見た感覚は残っている。しかし、その内容を思い出すことはできなかった。

「というか、その袋は何さ?」

 科子に指摘され、清子は自分が後生大事にクッキーの袋を抱えていることに気づいた。しかし、どこで手に入れたかは覚えていない。

「きよちー、それはもしかして、チョコミントクッキーではござりませんかな!」

「チョコ、ミント?」

 いつの間に買っていたのだろうか、と清子は記憶を辿ろうとする。

 しかし、財布はここに忘れていたのだし、ポケットにも小銭は一枚も残っていない。結局どうやって手に入れたかは思い出せなかった。

 得体の知れないクッキーだが、清子は何故かそのクッキーを渡した相手が、悪い人ではないような気がした。誰かはまったく思い出せないが。

「そうだ、せっかくだからみんなで食べようよ」

「えー? チョコミントって、アタシは正直苦手なんだけど」

 そういえば科子はチョコミントアイスにハマる伊智子を見て、顔を引き攣らせていたことを思い出す。一方の伊智子は「凡人にはわからん味ってことっすよ、ナッコさん」と軽口を叩いて、頬を引っ張られていた。

「大丈夫、すごく美味しいから一緒に食べよう、科子ちゃん」

「そ、そんなグイグイと薦めてくるなんて、珍しいね……本当に大丈夫?」

 科子は清子の様子を少し訝しがったが、チョコミントクッキーを差し出されると、眉をひそめながらもしっかり受け取った。

「それでは、いただきます」

 と、三人は揃ってチョコミントクッキーを口にする。すると不思議なことに、涼しい風がビルの階段を吹き抜けていった。

「うーん、やっぱり美味しい」

「何がやっぱりなのか全然わからないけど、このチョコミントはアリ」

「きよちー、後でこれ売ってた店教えてぇ……」

 清子は、その質問には答えられず、伊智子は「良い店の独り占めなんてズルい」と項垂れてしまった。

 クッキーを食べていくうちに、科子はすっかり味を楽しんでいた。自分が苦手なチョコミントを口にしていることなど、とうに忘れているようだ。

「なんかさ、今ちょっと風が吹いたせいなのか、辺りの空気が美味しくなった気がする。伊智子の別荘いった時みたいな」

「ああ、言われて見ると確かに。目を瞑ると、なんとなーくだkど山の風景が頭に浮かんでくる感じがする」

 うっとりと味を堪能する二人の横で、清子はこの味の感想を作った本人に直接伝えたい気分になった。

 一体どこで手に入れたクッキーなのかは思い出せないけど、これを作った人が素晴らしい人だろうことは、間違いないと思った。

「とても、美味しかったです。ごちそうさまでした」

 なので、誰に伝えるわけでもなく、清子は風に感謝の言葉を乗せた。




 *******




 ピロートの店内で、蒼衣あおい八代やしろは呆然と突っ立っていた。

 時間が止まったかのような沈黙の後、まず口を開いたのは蒼衣だった。

「行っちまったな」

「うん、そうだね」

「……誰が?」

「……誰だっけ」

 どうして閉店後の店内で、片付けをするわけでもなく、並んで立っていたのか、二人は思い出せなかった。

 今日は家で妻が待ってるからと、八代は早々と残りの片付けを済ませていく。蒼衣もすぐに続いた。

「今日は予想外に忙しくなったけど、なんとか乗り切れたな」

「途中、お釣りが足りなくなって八代が抜けた時は、どうなることかと思った」

「うーん、やっぱり誰か居たのか? そういや、今俺達が座ってたテーブルさ、椅子が三つ使われてるよな。そもそもなんで俺達並んで座ってたんだってなるし」

 何故か置いてある試食品のミニマドレーヌも気になるところだった。頭を掻きながらテーブルを眺め、八代は必死に頭を捻るが、結局誰が居たかは思い出せなかった。

 スッキリしないまま、八代はテーブルの上のタブレットを手に取る。意味不明な単語が検索されていて驚いた。ますます謎は深まっていくが、家で待つ家族を思い、検索ブラウザを閉じてこの一件は流すことにした。

「あっ」

「ん、どうした? 何か思い出せた?」

「誰かが、僕の魔法菓子を美味しいって言ってくれた気がする」

 八代は驚いて、すぐに蒼衣の髪を見た。しかし、誰かの心を感じ取った時に光る蒼衣の髪は、普段と何も変わらなかった。

「いつもとは感覚が違うというか、一瞬そんな風に感じたんだ。たぶんこれは僕の気のせい」

 そう言って苦笑いする蒼衣の肩を、八代は豪快に叩いた。

「むしろこれは、蒼衣が自分の魔法菓子は世界一って、自覚できるようになった証拠じゃないか?」

 蒼衣は静かに首を横に振り「たぶん、そういうのじゃない」と答えた。八代は少しがっかりした顔になったが、蒼衣の顔はどこか晴れやかだった。

「美味しいと言ってくれて、ありがとう」

「……うちの魔法菓子を楽しんでくれて、ありがとう」

 どこの誰かはわからないが、魔法菓子を楽しんでくれた相手に届いてくれたらと、二人はお礼の言葉を風に乗せた。

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みんなここで、また明日 ~羽村さん外伝~ 灯宮義流 @himiyayoshiru

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