The last summer of xxxx
空き缶
The last summer of xxxx
今から始まるのは、平成最後の夏だ。そんなフレーズをどこかで聞いた。
来年の五月には元号が変わって、それまでで僕らが生きてきた時代、平成が終わる。そんなのは人間が勝手に決めた節目でしかないのだけれど、〈平成最後の夏〉というのは確かにどこか魅力的な、みずみずしい響きを持つように思えた。
どうせ今年の夏も、いつもと何も変わらない。相変わらずセミはうるさいし、煮えたぎった太陽はアスファルトをこれでもかと灼くのだろうし、自転車を漕いだ後にシャツが汗ばんだ肌に張り付く不快感もきっとそのままだ。
それでも、何か、今回こそは。これまでとは違う何かが起こるんじゃないか。夏という季節はいつも希望を持って僕らの前に現れる。平成最後、というキーワードはそれに拍車をかけるように心を揺れ動かすのを、僕は認めざるを得なかった。
でも、起こりもしない何かに期待するのは、後がしんどい。だからこそ僕は決意した。何も起こらないなら、何かを起こせばいいのだ。
「平成最後の夏だから、彼女を想う夏はこれで最後にしよう」
誰かに言い訳をするように、でも覚悟を形にするように、僕はひっそりと呟いた。
市民病院の第二病棟の四階、廊下の突き当たりにある病室に、悠里は住んでいる。住んでいると言ったのは、彼女がそこを自分の家として公言しているからだ。実家はもちろん別にあるけれど、年賀状とか、図書館の貸し出しカードの記入欄には平気で病院の番地と病室の番号を書く。それは入院生活が長い彼女なりの、何かに対する皮肉だった。例えば神様とか運命とか、どうにもならないものがあると仮定して、そういう存在に自分の意志を表明するのが彼女のやり方だった。
僕は週に三回、ここの白いドアをノックする。すると「どうぞ」という透き通った声が聞こえて、僕は部屋に入る。
「やあ、また来たのかい」
パジャマを着た悠里は、文庫本のページをめくりながら、いつもそんな言葉で僕を出迎える。照れ隠しでも呆れでもなく、ただの確認。その穏やかな海風のように落ち着いた態度が、僕には心地よかった。
普通の人が彼女を見てまず驚くのは、そのアンバランスな美しさだと思う。細い身体に、絹のような白い肌。髪は腰まで届くほど長く、ベッドの上で過ごした時間を窺わせる。そんないかにもな印象に釣り合わないのが、彼女の瞳だ。薄幸の美少女なんて言葉にはそぐわない、意志の強さを宿す凛とした光を、その綺麗な形の瞳は湛えていた。
――まるで燃えているみたいだ。
悠里に出逢ったとき、僕はそう感じた。その強烈な光が、彼女の生への執着から来るものだと知ったのはしばらく後だった。
「頼まれてた本、借りてきた」
僕はカバンから分厚い本を三冊取り出して、ベッドの脇にある小さめの机の上に置く。悠里は頬をほころばせて、本のざらりとした革表紙を撫でた。
「助かるよ。ずいぶん前からリクエストしていたのが、ようやく図書館に入ったんだ」
「借りてくるのはいいけど、ここのところペースが早すぎないか? この本なんか千ページを軽く超えてるぞ」
「できるなら私もじっくり読みたいんだけどね。人生はあまりにも短い、百年本だけ読み続けたとしても国じゅうの本を読み切ることすらできないのさ」
「そういうことじゃなくて。身体に障るだろ」
悠里は眉をひそめた。「私にとっては、本を読まない方がよっぽど堪える。きみも知っているはずだけれど」
「何事もほどほどにしろってことだよ。フルマラソンの序盤で全力疾走する選手がいると思うか?」
「わかるようなわからないような例えだね」
「とにかく。読書灯を持ってるからって夜更かしするな。看護師さんに言いつけて見張ってもらうぞ」
「それは困るな」
彼女は窓の外を見つめた。その視線の先にある、入道雲がもくもくとそびえ立つ青空は、とても眩しい。特にこの病室から見ると、なんだかその景色は遠い世界のものみたいだった。
悠里はその胸の奥に、もう一つの不均衡を抱えている。心臓の収縮する力が弱く、血液を全身にうまく送ることができないのだ。
そのせいで彼女はこの白い部屋からせいぜい病院の中庭くらいまでしか、普段の生活で移動することができない。
「夏が始まるね」
悠里はまだ外を見ながら言った。
「今年の夏も、きみは停滞するのかい?」
家に帰ると、ポストに秋山さんからの手紙が入っていた。返事なんて出したこともないのに、毎月懲りずに送ってくる。三度目くらいから、もう文面も読まなくなってしまった。この人はたぶん、九十九回チャレンジして壊せなかった壁も、百回目でもしかしたら壊せるかもしれない、と考えるタイプの人なのだ。
手紙を捨てようと思って、ゴミ箱に放り込む寸前で手を止める。代わりに机の引き出しを開けて、乱暴に突っ込んだ。捨てられないのも、いつものことだ。
僕は、いわば作家の抜け殻だった。
机の中には、秋山さんから届く何十通もの手紙と、一冊の本が入っている。三年前、向こう見ずな熱意のままに書き上げた一冊の本。そして分不相応にも、当時の新人賞を獲得してしまった、哀れな本。秋山さんはその本を出版した時の、担当編集者だった。
その頃の僕は、自分の可能性を信じて疑わなかった。純粋な想いとたゆまぬ努力があれば、どんなことも成し遂げられると本気で信じていた。だからこそ、鼻っ柱を挫かれた時、立ち直れなくなってしまったのだと思う。
僕は悠里とは違って、本が嫌いだ。新米作家として挫折した瞬間から、本が全く読めなくなった。白いページにおびただしく並ぶ黒い文字も、購買意欲を誘う表紙や帯も、そんな本が平積みにされている本屋という空間も、全部嫌いだ。編集者も作家も読者も、消えてなくなればいい。
そう思っていたのに、滑稽なことに、物語を何より愛する彼女から僕は離れられない。本当は図書館に足を運ぶのだって気が進まないけれど、彼女の頼みを引き受けることをなぜかやめられない。
あの日、精神科を受診しに行った病院のロビーで悠里に逢った時から。あの吸い込まれそうな瞳に惹きつけられて仕方がないのだ。
悠里の病状は思わしくない。本人は弱音を一切口にしないけれど、発作を起こせば危険な状態で、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えて生きているようなものだ。
だからなのか、彼女は僕の何倍も、濃密に人生を生きようとしている。物語を読むことは世界に思いを馳せることだ、というのが悠里の口ぐせだった。
病院から出ることができないからといって、そこで諦める彼女ではない。物語をひたすらに読み漁ることは、自分を勇気付けるのと同時に、世界に対して叛旗を翻すことなのだ。
ベッドへと仰向けに身を投げ出して目を閉じる。脳裏に浮かんでくるのは、やはり悠里のまっすぐな瞳だった。
『今年の夏も、きみは停滞するのかい?』
いつも通り悪意のかけらもない、純粋な疑問。今日はやけにそれが、胸に刺さった。
わからない。どうしたら前に進めるのかも、前に進むべきなのかも。
だから、答えが見つかるまでは悠里のそばにいたいというのは、そんなにおかしいことだろうか。
それから三日後、僕が悠里の病室を訪れた時は、あいにくと検査中で彼女はいなかった。その次も、そのまた次も、検査やら担当医との面談で忙しいらしく、僕は悠里に会うことができなかった。
「あの、彼女の容態、もしかして悪いんですか」
ベッドメイクのため病室にやって来た看護師さんに僕は尋ねる。看護師さんは一瞬驚いた顔をした後、「そうか。きみは、知らないのね……」と思案げに呟いた。
「どういうことですか」
「うーん、個人情報だから、話してはいけないんだけど。きみと悠里ちゃんの仲なら、私は知っておくべきことだと思う」
そう前置きして、遠慮がちに、看護師さんは話してくれた。
悠里がもうすぐ、大きな手術を受ける予定であること。その手術が成功すれば、病気との付き合いがかなり楽になること。そして、手術の成功率はそんなに高くないということ。
僕はその時なんと答えたのか、全く覚えてはいない。
頭が真っ白に焼きついたような感じがして、廊下にある長椅子に腰掛けた。リノリウムの床を眺めながら、思考にならない思考が弾けては消えていく。
心臓の手術って、失敗したらどうなるんだ。
今のままでは多分、悠里は長く生きられない。でも手術を受けてもし失敗したら。まだ彼女は死ぬには若すぎる。
そもそも、どうして悠里は僕に手術のことを言ってはくれないのだろう。
いつの間にか日が沈んで、夜間用の照明が点いた。ペタ、ペタとスリッパの足音がして僕は顔を上げる。悠里が母親に付き添われて病室に戻ってくるところだった。
「悠里」
自分で思っていたよりだいぶ情けない声が出て、僕は口をつぐむ。きっと声だけじゃなくて、顔もこの世の終わりみたいになっているだろう。
こんなところに座っているのだから、きっと彼女を待っていると思われたに違いない。最悪だ。どちらかといえば、いまの僕は悠里に会いたくなかった。
無言で立ち上がって会釈だけして、歩き去ろうとした時、悠里が「お母さん」と落ち着いた声で言った。
「送ってくれてありがとう、ここで大丈夫。少し彼と話したいんだ」
「……そう。じゃあ、おやすみなさい」
悠里のお母さんは微笑んで、歩き去って行った。娘のことを信頼しているのだろう。そんな当たり前の絆ですら、いまの僕には眩しかった。
「その様子だと、きみは知ってしまったんだな」
ため息をつくように、悠里は言った。
「やっぱり、隠してたのか」
「そういうわけじゃないよ。余計な心配をかけたくなかっただけさ」
「……成功率がそう高くないって聞いた」
「何にでもリスクはある。成功率が何%だったらきみは命を賭けるに値するというんだ?」
「本当に、今すぐ手術を受ける必要があるのか?」
噛み合わない質問をしているのはわかっていた。でも、彼女にぶつけたい気持ちが多すぎて、自分の中でうまく整理することができなかった。
悠里は数秒黙って僕を見つめた。まるでその沈黙をもって、僕を諭そうとするみたいに。窓から差し込む青みがかった月の光に照らされながら、悠里は僕を見据えた後、すう、と息を吸って吐き出した。
「きみに、私の夢を否定する権利はないよ」
優しい口調で紡がれる、突き放すような言葉だった。
悠里の夢。それについて僕ははっきりと彼女から聞いたことはない。けれど、少なからず一緒にいればなんとなくわかる。
この白い部屋から、彼女の〈家〉から飛び立って、普通の女の子としての生活を送ること。物語の中でしか触れられなかった世界のあれこれを実際に体験すること。
わかっているからこそ、それ以上何も言えなくて、僕は黙りこむ。
「ついでだから言うけど、きみはいつまで私にしがみついているつもりだい?」
悠里の言葉は鋭さを増す。たぶん僕を傷つけるためではない。それでも勝手に心が抉られていく。
「きみには本来、私なんて必要ないはずなんだ。きみには力がある、物語を創り、表現する力が。それは誰にでも与えられるものじゃくて、間違いなくきみの持つ武器の一つだ。何を迷うことがある?」
「……簡単に、言うなよ。創作をするっていうことが、どれだけ苦しいのか。わからないくせに」
「ああ、わからないね。デビュー作をネットで叩かれたくらいで三年もふて腐れる人間の気持ちなんてわからない。うじうじ悩んでないでいい加減立ち直りたまえよ、としか思うところがない」
「っ、この――」
「でも私は、きみの書いた物語が、もう一度読みたいよ」
不意打ちだった。
悠里は僕の目から視線を逸らさない。だから逃げ場所がなかった。
PCの画面を睨みながら、一文字一文字を絞り出すように書き綴った日々を。自分の作品が初めて世に出た瞬間を。魂を込めた作品が酷評され貶められた絶望を。
きみの言葉は、いとも簡単に認めてしまうのか。
目頭が熱くなって、僕は下を向く。そんな僕を見て、悠里はふふ、と笑った。
「まあ私の気持ちはさておき、別に物語から離れて筆をおいたっていい。きみはどんな未来も選ベる。やろうと思えば何にだって取り組めるんだよ。ただ」
言葉が一度切られる。何かに思いを馳せるように、彼女は天井を見上げた。
「停滞したままというのは、よくない。時には必要なことかもしれないけれど、長すぎる停滞は、きみを苦しめるだけだ。物心ついてからずっとここで停滞している私が言うんだ、間違いない」
だからさ、と悠里は言った。ひとりごとみたいにかき消えそうな声だったけれど、確かに彼女は僕に語りかけていた。
――だからお互い、頑張ろうじゃないか。約束だ。
彼女は微笑んで、僕は涙をこらえて、小指を絡ませた。
それから一月後、その夏で一番暑かった日。悠里は県外の病院で手術を受けた。手術室にストレッチャーで連れていかれる直前、僕は彼女の元へ駆けつけることができたが、特に言葉は交わさなかった。
僕の姿を見ると、悠里は悪戯っぽく笑った後、真剣な顔つきでうなずいた。彼女の瞳は最後までまっすぐで、強くて、美しかった。
*
あれからもう、一年が経った。やっぱり僕は僕だから、悠里がもういないことをうまく受け止められなくて、ついつい停滞を延長してしまったけれど。そろそろ彼女との約束を果たさないといけない。
今から始まるのは、平成最後の夏だ。誰にとってもきっと、少なからず特別な夏だ。この夏を僕は、停滞から足を踏み出す、前進の季節にしようと思う。
「彼女を想う夏は、これで最後にしよう」
そう口に出して、埃をかぶった机の引き出しを開ける。手紙に記された秋山さんの番号に、僕は電話をかけた。
The last summer of xxxx 空き缶 @hadukisou
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