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 ようやく寿司に手をつけ始めたエリカを見ながら、私は自分のことを棚にあげた状態で考える。八つ当たりだということはよくわかっていた。たしかに私が彼女のかわりに事を起こせば、きっとこのもやもやは晴れるだろう。でも私は、小学校の教室で、クラスメイトを睨みつけることしかできなかったあのころの自分から、ちっとも変わっていないのだ。無理だ。私には、なにもできない。

 エリカにも自分にも腹が立ってきて、私は近くにあるオードブルの皿からエビフライを箸で掴むと、それをばりばりと食べた。その次は唐揚げを掴み、咀嚼する。次はイカの寿司。そこまでしたところで、私はいつの間にかエリカが小刻みに肩を震わせていることに気づく。よく耳をすましてみると、私と彼女の間に置かれた首入りの黒いバッグから、すすり泣きが聞こえてきた。

「やっぱり無理だよ」

 なにが、と聞き返す間もなく、エリカは続ける。

「本当はリザキの遺影の前でへへーざまあみろ、って叫んでやるつもりだったの。でもよくよく考えたらそれってわたしが納豆まみれになったときと同じじゃん。リザキにキレてもなんもいいことないよ、あのときはいじめのきっかけになったし、今はあちらが死んじゃってるからキレたところで頭のおかしい人に見られるだけし。まあ頭は体についてないけど。だから、普通に手を合わせることにした。リザキはわたしのことをいじめたけど、わたしはリザキをきちんと弔ってあげることで、逆に辱めようとしたのよ。わたしはもう、あんたが昔やってきた、幼稚でバカで最低な行為を許してる。そういう風に振る舞おうとした。でも、無理だった」


 そんな簡単に、許せないよ。


 本格的に泣き出してしまったエリカをなだめながら、私は自分が大きな思い違いをしていたことに気づく。彼女は、ずっと我慢していたのだ。成長し、大人になったからこそ、なにもせずにマナーに則って行動していたのだ。心に残った、大きな傷をひた隠しにして。

「先に壊しにきたのはあっちなのに、それに腹を立てて大きな声をあげたほうが負けになるんだよ」

 サーモンの寿司を小皿に満たした醤油に浸したまま、エリカはうなだれている。シャリに醤油が染み込み、米粒がぱらぱらとほぐれていく。首元から発生する煙は見ているこっちの気分が沈みそうになるほどの水色に変化していた。あのときと同じだ。小学校の教室。納豆に潰された棒人間。消しゴムを手に泣いているエリカ。周りを威嚇することしかできない私。あのときと違うのは、彼女に普通の人間ならばついているはずのものがないことと、クラスメイトがいないこと。そして、リザキが無防備であることだった。


 私はエリカの背中をさすっている手に力を込める。ここは、あの教室の中ではない。もう、私たちを取り囲む悪意の檻はないのだ。私は意を決すると、座っている藤色の座布団の上に力なく投げ出されているエリカの手を握った。彼女がゆっくりと体を起こす。

「今からでも遅くないよ。リザキをしにいこう」

「え、もういいよ。それに言ったじゃん。我慢できなくなったほうが負けなのよ。過去にいくら酷いことをされていようが、自力で立ち直ることしか被害者には許されてないの」

「エリカはそれでいいの? エリカに顔を取るという選択をさせたあいつが憎くないの? もうリザキは死んでる。そりゃ生きてる人には後腐れが残るようなことはしづらいかもしれないけどさ、死んでるんだしどう思われようがいいじゃん。あの世から干渉するのはほぼ不可能に近いし。このままだと、あいつはなにごともなかったかのように焼かれて灰になって安らかに眠るだけだよ。だったら最後にささやかな仕返しをしてもいいんじゃないの。エリカをいじめたということで、少しは後味悪い人生の終わりになってもらっても構わないでしょうよ。あいつはそれだけのことをしたの」

「でも」

「いいから! つべこべ言わずにいくよ」

 自分でもびっくりするほど大きな声が出て、気がつくと私はエリカの首が入ったバッグを持ち、もう片方の手で彼女の手を握り、来た道を戻っていた。お坊さんの読経と線香の匂いが、再び体を包む。弔問客はまだ途切れておらず、入り口の外まで黒い集団が列をなしていた。その人たちと、椅子に座っている親族たちが、突然順路を逆走してきた私とエリカに視線を向けた。それを無視して、私たちは並んで棺の前に立つ。


 しかしここで少しだけ思考が正気に戻る。勢いでここまで来たはいいけど、どうするつもりだったんだ私は。異変に気づいたお坊さんがお経を読みあげるのを止めてしまったことで、斎場の中にいる人間がうろたえはじめた。その人数は加速度的に増えていく。黒いワンピースタイプの喪服を着た女性が、どこからか呼んできたらしい男の職員を二人率いた状態で斎場の入り口に現れる。

 逃げる。動く。謝る。脳は選択肢だけを吐き出すばかりで、体を動かすということをしてくれない。すると次の瞬間、パニックに陥っている私の肩を、誰かの肩が優しく叩いた。ごめんそのバッグかして、というエリカの声。バッグが私の手から離れ、棺の覗き窓の前に置かれた。

「リザキ、あんたわたしのこと覚えてる?」

 バッグから聞こえてくるエリカの大きな声に、辺りが徐々に静かになっていく。そうして形成された沈黙の中、彼女はゆっくりと覗き窓を開く。ところどころ皮膚がはがれ、赤黒い肉が露出して『肉塊』という言葉がふさわしい様子に変貌したリザキの顔が出現する。業者による努力の跡がそこかしこに見られるそれは、遺影と同一人物とはとても思えなかった。

「もっとよく顔を見たいな」

 エリカはそう言って、今度はバッグのファスナーをおろし、中から自分の顔を取り出した。室内の数か所から悲鳴があがる。昔から変わらない、顔にできたたくさんの吹きでものが、私の視界に映り込む。小学生のころから大きくは変わっていないが、確実に年齢を重ねていった痕跡のあるそれを見て、私は少しだけ嬉しくなる。


 エリカは完全に顔を捨てたわけではなかった。今もこうして顔をたずさえ、生きていた。


 しばらく、リザキとエリカは見つめ合っていた。久しぶりに見る彼女の顔は、笑みを浮かべたかと思えば無表情になったり、そうかと思えば、突然悲しそうにしおれたりして目まぐるしく変化した。遺体の入った棺の上に生首がのっているというよくわからない光景が放つ雰囲気に、場は完全に支配されていた。小さな話し声や、悲鳴はまだどこからか聞こえてきていたが、誰もこの状況を崩そうとはしない。


 そんな時間がいつまでも続くかに思えた矢先、エリカの体が沈黙を破るかのように動いた。いつの間にか床に置いてあった、マグロとホタテと納豆巻きが二貫ずつのった皿を彼女は持ちあげ、棺の中のリザキの胸元にそれをそっと供えた。そして彼女は先ほど焼香のときにしていたように手を合わせる。それが終わるとエリカの顔が笑っているようにも泣いているようにも見える曖昧な表情に変わった。その顔を胸元に抱え直し、エリカは吐き捨てるように呟いた。

「イワシのなめろうみたいな顔してんなお前」




 どこをどう走ったか覚えていない。あの後すぐに硬直が解けた私はエリカの手を取り、一目散に会場から退散した。

「どこだろうここ」

「さあ」

 私たちは大きな橋の上をとぼとぼ歩いていた。眼下には川が流れている。近くの建物の明かりや、ときどき通過する車のライトを反射して、水面がゆらゆらと揺れていた。


 もっと早くに、こうするべきではなかったのか。不思議な高揚感に包まれながらも、私の胸に後悔が影を落とす。あのときクラスに満ちていた同調圧力や悪意は、私一人でも行動を起こすことで簡単に払うことができたのではないだろうか。そう考えると耐えられなくなって、私は二歩ぶん前を歩いているエリカに声をかける。

「ねえ、いじめられてたあのとき、私のことどう思ってた」

「んー、当時はわたしを早く助けてよ、って思ってた。嫌いになりそうになったときもあった。なに、もしかしてアラコあんた、あのときこうしていれば、みたいなくだらないこと考えてたの」

「うん」

「バカね、そんないくら後悔したところでなにも変わらないよ。それに今朝、わたし言ったよね。『でも、やってよかったと思ってる』って。こうなったことに多少不満はあるけど、きっとあのできごとがなかったら、顔をバッグに入れて持ち運んでる、今の自分はいなかった。それだけはわかる」

 エリカはそこで足を止め、橋の手すりに体を預けた。私もそれにならって彼女の横に移動し、冷えた鉄にもたれかかる。清潔な夜の空気に、エリカから発生したオレンジの煙が混ざっていくのをぼんやりと眺めていると、彼女が急になにかを思い出したかのように喋り出した。

「あっ、そういえばさ。アラコにきれいになったね、すごいねって褒められたとき、とっても嬉しかった。ああ言われるの初めてだったし、強くなりたくていろいろやってきたっていうのもあるし。報われた感じがしたの。でもさ、アラコだって成長したと思うよ。さっきああやってわたしをリザキの棺の前に戻してくれなかったら、きっと不完全燃焼のままで終わってたと思う。あんたはもしかしたらその勇気をもっと早く出しておけばよかった、とか思ってるのかもしれないけどそれは違うよ。成長したから、今できたのよ。だからさ、アラコも強くなったんだよ」

 エリカは私のほうに体を向け、力強く断言した。彼女の顔はバッグの中に戻っていてどんな表情をしているかわからなかったが、もし顔がついていたら、きっとまじめな顔で、真正面から私の目をまっすぐ見据えているのだろう。不可視の熱いまなざしを受けながら、私は火照った体を冷ますかのように身をよじり、小さくありがとう、と呟く。なんだが気恥ずかしくなり、矢継ぎ早に言葉を重ねる。

「き、今日うちに泊まるんだよね。なんかお母さんが唐揚げを揚げて待ってるってメールきた」

「ほんと? わたし唐揚げの上にもう一回塩かけて食べるのがすきなんだよね。あとレモン」

「そうなの。まあ今日に限っては先に塩をかけられるのは私たちだけどね。リザキの霊が復讐しにきたら嫌だもん」

「そうだった」

 自宅を目指しつつ、私は頭の中で、今朝改札から出てきたエリカのきれいで自信にあふれていた姿を思い浮かべた。そして少しだけ背筋を伸ばし、歩調を速める。顔をてのひらで触ってみると、自分が少しだけ笑えているのがわかった。

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顔をたずさえ 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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