切り裂きジャックの寝室

雷藤和太郎

画家の語られぬ恍惚

 玄関を開けると、ドアウェイの向こうにカーテンの引き裂かれた窓があった。

「ここは、切り裂きジャックが住んでいたと言われる」

 ロンドンの空は白い。

 誰も彼もが、下を向き、向こうを向き、白々しらじらしいまでの無関心と、蒸気自動車を先導する赤旗あかはたいろどられている。

 遠くに町の喧騒けんそうが聞こえる中で、この部屋だけは寒々さむざむしいほどに静かだった。

「ずいぶんとせまい部屋なのね……それに、とても暗い」

 薄着うすぎの女は自分の肩を両腕でき寄せた。

「シッカートは、ここに住んでいるのかしら?」

「いや、わずかの間だけ、アトリエにしているんだ。……ここは何というか、私の精神をたかぶらせる」

 シッカートに肩を抱かれて、女は部屋へと上がり込んだ。

 簡素かんそ場末ばすえの一室。つきあたりの窓の下には、逆光ぎゃっこうに隠れていたドレッサーが一つ。家主やぬしが部屋のドアを閉めると、狭さが一層いっそう増した。バスタブに無理やり二人押し込められて、くさい水で押し固められたような気分だった。

「ねえ、香水はある?」

 吐息といきとどく距離で女がう。

 部屋は、絵具えのぐの臭いが充満じゅうまんしていた。窓も開けず、イーゼルにかかった大きなカンバスには、おそらく描き途中とちゅう油絵あぶらえが布に隠されている。街中まちなかでは甘くとろけるような香水を匂わせていたシッカートも、ここではすっかり絵具の臭いに戻っていた。

「あるにはあるが、アトリエでは使わないようにしているんだ」

「どうして?」

 女を背にして、シッカートは窓前まどまえのドレッサーを指ででる。この言いようのない魅力をたたえた画家の、絵具に汚れた指で撫でられるドレッサーが、法悦ほうえつひたる貴族の娘のように見えた。

 しかし、と女は自問じもんする。

 貴族の娘はこんな場末ばすえのアトリエになど絶対にやってこない。こんな場所をおとずれる者など、それこそ切り裂きジャックに殺された街娼がいしょうか、絵画のモデルを頼まれた自分のような人間くらいだ。

「香水というのは、汚物おぶつにおいを隠すものだからだよ」

 シッカートは、粗末そまつなベッドに座ってくつろぐ女を見つめた。

「この世には、隠したいにおいが多すぎる」

「どういうこと?」

 閉じられたドアの外、浴室よくしつに水滴の落ちる音がした。

 女からは、シッカートの表情が見えなかった。部屋に一つだけの、カーテンが引き裂かれた窓から入る光が、家主やぬしである画家の表情の一切いっさいを隠してしまったのだ。

 代わりに、その手に握られた一本のペインティングナイフが、窓の外の曇天どんてんを反射させてギロリと光った。

「さっそく描き始めるの?せっかちなのね」

 どんなポーズを求められるだろうかと、女はベッドの上でさまざましなを作った。

 シッカートは先端のにぶいナイフをもったまま、横になる女におおいかぶさった。

においがね……」

 最期さいごに女が見たのは、ナイフを振り下ろす画家の笑みにかれたきばだった。

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切り裂きジャックの寝室 雷藤和太郎 @lay_do69

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