高井うしお



「鳩は嫌いよ。だって咳が止まらなくなるんですもの」


 鳩子はそう呟いた。彼女の肌には汗が浮かび、申し訳程度のタオルケットが張り付いている。部屋の中には扇風機が鈍い音を立ててぬるい空気をかき回している。同じく体躯を横たえながら、信二は自分の名前を呪う鳩子の呟きをただただ聞いていた。


「……明日、祭りがあるらしい」


 彼女の気をそらすように信二はそう口にしたが、それは逆効果だったようだ。鳩子は口を尖らせると不機嫌そうに寝返りをする。


「私を連れて行く気? 何を言われるか分からないわよ」

「構わないさ。退屈だろ」


 信二も同じ様に寝返りを打つと鳩子の小さな背中を抱きしめた。さほど広くもない客室で、お互いの体温も室温も区別が無くなっていった。



*****



「うん、いいぞ」


 その旅館を前に信二は妙な感慨を覚えていた。ヒビを申し訳程度に直したガラス戸には「赤富士館」と書かれ、センスの微妙な飾り物が戸口を占拠している。今の俺にはお似合いだ、と彼は独りごちた。


「お泊まりはお一人で? 食事は?」

「一人です。この近くに食堂とかコンビニは?」

「コンビニは一キロほど先だけど、食堂は三軒隣にあるよ」

「じゃあ素泊まりで」


 愛想の無い、きついパーマをあてた宿の女将の、尋問のような問いかけに信二は軽く答えて行く。


「何泊?」


 そう聞かれてはじめて信二は言葉を詰まらせた。


「……決めてません。取り合えず十日ほど」

「前払いになりますけど」

「構いません」


 無愛想な女将がはじめて笑った。一泊三千円。十日分の宿泊代を支払うと部屋に通される。小さな机にテレビ、それだけの素っ気ない部屋だった。

 窓を開けると、塩気を含んだ風が入ってくる。その風がほんの僅かに信二の前髪を揺らした。


「……買い出しにでも行くか」


 近所の食堂で夕食を済ませた後、一キロほど先にあるというコンビニに向かってプラプラと夜道を歩き出す。酒とつまみと暇つぶし用の漫画雑誌でも買おうと信二が考えていると、道沿いに人が立っているのが見えた。

 信二の視線はついその人物を追ってしまう。理由はごく簡単で、肩もあらわな白いワンピースを着た若い女だったからだ。悲しいかな、男の性だ。


「どこいくの?」


 すると唐突に彼女は話しかけてきた。信二は見ていたのがバレたのかと内心驚きながら答えた。


「この先のコンビニへ」

「……そこ、そろそろ閉まるわよ」

「げっ、マジかよ」


 田舎だとは思っていたがここまでとは信二は思っていなかった。


「国道にでれば24時間のコンビニがあるけど、車じゃないと結構かかるわね」

「……」


 信二は重たい酒の缶を持って歩く事を考えた。そして今晩の晩酌は諦める事にした。


「ありがとう、助かった。酒でも買おうかと思ったんだけど」

「あんた、旅行で来たの?」

「うーん、そうかな」

「どこに泊まってるの?」

「そこの赤富士館」


 信二が礼を述べると、彼女は矢継ぎ早に質問をした。少々気圧されながら信二はそれに答えた。


「なーんだ、うちじゃない」

「えっ」


 信二は思わず真っ正面から彼女を見た。海辺の街だというのに透き通るような肌。彫りの深い顔立ち。あの無愛想な女将とは……。


「全然似てないでしょ、一応娘よ。あそこの」

「い、いや」


 心の中を見透かされたかのような彼女の言葉に信二の心臓は跳ね上がった。恐る恐る見返した彼女の視線は静かで、別段怒った風でもない。


「だったらうちの冷蔵庫にビールとかチューハイとかならあるわよ」

「い、いや悪いよ」

「いいわよ。私の晩酌に付き合って」


 そう言うと、彼女はさっさと宿に向かってスタスタと歩きだした。


「ちょっと! ちょっと待って!」

「……何? 遠慮は要らないわよ。私が買ったやつだし」

「違くて! あのさ、俺は信二。君の名前は?」


 気のせいだろうか、それとも長い髪が潮風に煽られたからだろうか。少しだけ顔を歪めて彼女は名乗った。


「――鳩子」



 酒の勢いもあったと思う。正直何を話したのかも覚えていない。やたら浴びるように酒を飲み、買い置きの酒が無くなるとともに、気がつけば信二は初対面の鳩子と朝を迎えていた。



*****


「ねぇ、ここって何にもない町でしょ」

「ああ、そうだな」


 本当にこの町には何もない。海と、遠く島並が見える波止場以外に見るものもない。信二はまるで阿呆のように鳩子の訪れを部屋で待つ日々を過ごしていた。

 旅館の女将は実の娘がよく知りもしない泊まり客の男の元に出入りしてというのにまるで無関心であった。


「一体なにしに来たの?」

「……さあな」


 信二はその問いかけにはまともに答えなかった。その代わりに鳩子に聞いた。


「なぁ、やっぱり祭り行こう」

「またその話? やめた方がいいって」

「何がだよ」


 何も無い、と言いながら唯一華やかそうなイベントを嫌がる鳩子に信二は焦れた声を出した。いままで喧嘩らしい喧嘩なんてなかった。

 むしろそう言った煩わしいものを紙一枚で避けるような二人の関係だった。危うい均衡が崩れそうになった直前に、折れたのは鳩子の方だった。


「……いいわよ、後悔しても知らないから」


 そう、渋々と鳩子が要求を飲むと、今更ながら信二は自分の大人気の無さが情けなくなった。


「……ああ」


 そんな気持ちを押し隠して、誤魔化すように信二は鳩子の肩を抱いた。




 笛と太鼓の音がどこからか聞こえてくる。神社の境内には明かりが点り、ずらりと夜店が並んでいる。


「お、イカ焼き」

「こんなところで食べるのなんか美味しくないわよ」

「いいんだよ、こういうのは雰囲気、雰囲気」


 冷めた声を出す鳩子を無視して信二は屋台に駆け寄った。イカの身と醤油の焦げる香ばしい匂いが漂っている。


「これ、ひとつ……いや二つ下さい」


 立ちこめる熱気にだるそうにしていた若い男は信二の注文を聞いてゆらりと立ち上がった。


「はいよ。……あんた、みない顔だね」

「はい、旅行で来てます。あっちの、赤富士館ってところで」

「へぇ……」


 信二が泊まっている旅館の名を出した途端、男の顔つきが変わった。口の端をつり上げながらその男は言い放つ。


「鳩子の具合はどうだい」

「ん? 元気ですけど。今日も一緒に祭りに……」

「ちげぇよ。……いい女だろ。あっちだけな」


 その言葉に鳩子が俯く。ああ、これだったのか。鳩子が祭りに来るのを嫌がっていたのは。そう信二はその男の下卑た視線で理解した。よく見るとその男だけではなく周囲の男たちも似たような目で鳩子を見ていた。


「……うるせぇ」

「は?」

「うるせぇって言ってるんだよ!」


 苛立った気持ちを信二はそのままその男にぶつけた。男は屋台から出てくると信二の胸ぐらを掴んだ。


「なんだこら、いっぱしのオトコ気取りか? ああ?」

「お前にどうこう言われる筋合いはねぇよ!」


 何でそんな事をしたのか分からない。信二は胸ぐらを掴んできた男をぶん殴った。ただ、悲しかったのだ。鳩子が馬鹿にされたのを感じて。


「いてぇな! イキってんじゃねぇぞ!」


 信二の反撃に頭に血を昇らせた男が信二を殴った。口の端が切れる。喧嘩慣れしていない信二はあっという間に馬乗りになられてタコ殴りにされていた。


「ヤマ、それぐらいにしてあげて!」


 降ってくる拳を止めたのは鳩子の一言だった。ヤマ、と呼ばれた男は鳩子の声にようやく信二を殴る手を止めた。


「けっ、鳩子! てめぇのオトコくらいしっかり躾けとけ」

「ごめんごめん」


 鳩子は笑っていた。信二を殴った男に向かって、へらへらと媚びるように。


「……帰ろ」


 反対に、倒れている信二に対しては無表情にただそれだけを言った。信二はのろのろと起き上がると鳩子の言葉にしたがった。

 祭りの喧噪を背に、二人は赤富士館へと向かう。これまで以上に重たい空気が二人を包んでいた。


「言った通りでしょ」

「ごめん、鳩子」

「ほら、口。切れてるから。消毒しよう?」


 宿に戻った信二は赤子のように、鳩子の介抱を受けていた。


「花火もあったんだよな……なのに俺……」

「花火なんかこっからでも見えるわよ」


 はい、おしまい。そう言って鳩子は救急箱をしまいに階下に降りていった。信二は一人になると、情けない姿を鳩子にさらした事に後悔しはじめた。それと同時に疑問がよぎる。

 あのヤマとかいう男も、その周りでにやついていた奴らもどうしてそういう目で自分たちを見たのだろうか。自分が鳩子と寝ているのは事実なのだけれども。


「どうしたの、変なとこ痛いならちゃんと病院に行こうか」

「ん、いや。いい」


 聞いてもいいものか。あの男との関係を。信二は自問自答していた。そもそもそれを聞く権利が自分にあるのかどうか。迷う信二に鳩子は告げた。


「わかったでしょ、私こういう女なの」

「こういうって」

「誰とでも寝る、都合の良い女。町中が知ってるわ」


 鳩子が笑う。さっき祭りで見せた時と同じ笑顔。それが何かを誤魔化してるものだと信二はもう知っている。そして今、自分は鳩子の中であの男たちと同じところにカテゴライズされているのだと思った。


「そんな事いうなよ」

「ごめんね、信二の思うような女じゃなくて」

「そうじゃない!」


 信二は声を荒げた。違う。そんな言葉が聞きたいんじゃ無い。


「……なによ、信二だって自分のこと全然話さないじゃない」

「……」


 その通りだ。信二は唇を噛んだ。ここに来るまでの自分のことも。どうしてこんな片田舎にふらりとやって来た訳も。何一つ信二は鳩子に明かしていなかった。


「俺は――」


 怖い。これを言って鳩子に幻滅されるのが。信二自身もある意味幻想の存在で居たかったのだ。彼女の中で。……信二は恋をしていた。見ず知らずの女、鳩子に。


「ごめん、言い過ぎた。もう寝た方がいいよ信二」

「いや! ……聞いて欲しい」


 話そう。信二は心を決めた。どうせ時間の問題なのだ。いつまでもこの赤富士館で鳩子と爛れた生活をしている訳にはいかない。


「俺は……」


 それでも、信二の声は震える。己の罪からずっと目を逸らしてきた罰だ。


「――金を盗んだ。今、逃げてる真っ最中だ」

「信二……」

「出来心だったんだ。なんかどうでも良くなって」

「そのお金、どこから」

「バイトの先輩の口座から」


 信二のバイト先の先輩の両親が亡くなって保険金が入ったと聞いて魔が差したのだが、信二もまさかパスワードが誕生日だとは思わず、ふいに手にした大金に驚いた。そしてそのまま逃げた信二はどうしようもない小悪党なのだが。


「俺の方がよっぽど最低だよ」

「そ、それで信二どうするの」

「……どうしよう」


 信頼も、プライドも捨ててしまった。何より立派な犯罪者だ。とにかく遠くへ、そんな風に考えて信二はこんな所まで来た。ミステリアスな来訪者でもなんでもない小物の自分。


「……私と逃げようか」


 情けなさを噛みしめる信二に、鳩子がかけたのはそんな言葉だった。


「鳩子、何言ってるんだ」

「私、嫌なの。こんなとこ。こんな町。消えて無くなればいい」


 信二の告白を聞いても、物怖じするでもなく吐き捨てる様に鳩子は言葉を続けた。


「なに自棄になってるんだ……鳩子こそ、もう寝な。明日には出て行く」

「……嫌。行かないで」

「鳩子……」

「私を置いて行かないでよ」


 鳩子の声が徐々に震えて涙まじりになっていく。俯いていた信二は鳩子を見上げた。まるで迷子の子供のように、鳩子は立ちすくんでいた。


「なんで」

「……信二」


 信二の疑問の声を、鳩子は口づけで塞いだ。そうして信二に抱きついたまま肩のワンピースのストラップをもどかしげに下げる。


「鳩子」

「……こっち来て」

「鳩子!!」


 そんな鳩子を信二は押し返した。目を見開いた鳩子がこちらを見ている。一瞬、見つめ合う二人。


「……止めとけよ」

「でも信二」

「俺が悲しくなる」


 縋り付いていた鳩子の腕から力が抜けた。ほとほとと、再び鳩子の瞳から涙がこぼれる。


「信二ぃ……私、汚い?」

「鳩子?」

「この顔見てよ……日本人の顔じゃないでしょ」


 乱暴に鳩子は自分の頬を撫でた。まるで剥がしてしまいたいとでも言うように。


「町中の噂になって、お父さんも出て行った。淫売の子は淫売だろって……それで」

「鳩子、分かったからもういいよ……」

「……怖かった」


 恐る恐る、今度は信二の方から鳩子に手を伸ばした。その時を思い出したのか、小さく震える鳩子の肩。今触れるのが正解なのか分からないまま、信二はそのまま鳩子を抱きしめた。ガラスの様に壊れてしまいそうに見えたから。


「……一緒に眠ろう」

「うん」


 その晩、信二と鳩子は手を繋いで眠った。お互い、何も知らない子供のように。――そして。


「もしもし……夜分、すみません……」


 鳩子の寝息が規則的に聞こえる中、信二は一人起き上がり今まで切っていたスマホの電源を入れた。途端に並ぶ着信履歴。その中の一つを押した。




「……何してるの」


 ゴソゴソ、という音で鳩子は目を覚ました。起き上がり、隣にいたはずの信二の姿を探す。


「起こしちゃったか」


 信二はちょっとバツの悪そうに鳩子を見た。信二は身の回りの荷物をまとめていた。元々そう多くはなかった荷物は今すぐにでも出て行けるよう、バッグに収められている。


「……なにそれ」

「出てくんだよ」

「なんで!」


 鳩子は信二につかみかかった。信二のシャツを握りしめた手で何度も揺さぶる。信二はそんな鳩子にされるがままになっていた。


「鳩子。お前、本気で俺について来るつもりか?」

「そうよ、いけない?」

「馬鹿なこと言うなよ。俺はクズだし、ついて来てもすぐに警察に捕まるんだぞ」

「それでもいい。そんなの関係ない」


 そう、鳩子は言い切った。それを聞いて信二は一つため息を吐いた。


「じゃあ準備してこい」

「うん」




「それじゃあ、これ鍵です」

「……はいよ」


 赤富士館の女将は、鍵を受け取りながら横の鳩子をちらりと見た。しかし、またしても何か言う事はなかった。ただ、表情の読めない顔に少しだけ心配そうな申し訳なさそうな皺が寄っていた。


 二人で赤富士館のガラス戸を開ける。明るい夏の海が目の前に迫ってくる。鳩子が見つめ続けた海。


「この海の向こうから誰かこないかなって思ってたの」

「それが俺なのか?」

「そうみたい」




 ――数日後。東京。


「ちょっと! 掃除機かけられないじゃない。どいて」

「こんな時間にかけるなよ。一軒家じゃないんだぞ」


 小さなアパートの一室に二人が居た。


「それにしてもさ……」

「ん?」

「なんで言わなかったの? 警察に通報されてないって」

「ん……」


 幸運にも信二のバイトの先輩は警察に通報していなかった。もちろん激怒した先輩から信二はボコボコに殴られたのだが。盗った金は返して、使い込んだ金は働いて返す事で許して貰えた。


「ねぇ、答えてよ」

「んー」


 ごろりと横になりながら、信二は鳩子の質問をはぐらかす。小っ恥ずかしかったのだ。こんな日常の、どこにでもいるさえないフリーターの自分より、あのまま見知らぬ海の町にふらりと現れたちょっと不思議な男でいたかったなんて。

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高井うしお @usiotakai

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