君が俺を忘れても、

夜雨

君が俺を忘れても

1起――出逢い

 ローシーズが彼を見つけたのは木の上で昼寝をしている時だった。

 麗らかな春の日だったから降る日差しが心地よく、彼女の本体である樹と共に光合成に勤しんでいたのだ。……と、ローシーズは自らを誤魔化すが、勿論精霊は光合成などできない。ただの娯楽的な昼寝であった。


 何だかいい匂いがする、と人外の嗅覚で嗅ぎ慣れない仄かな花の匂いを探り当てて、ローシーズは目が覚めた。


 ローシーズは少し落ち着きのないところがあって、よく遊びに行く森の長老に説教をされることも多い。だがずぼらな彼女はそれを正そうとしないから、起きた拍子に樹から落下しかけるなんてことをしでかす。慌てて体勢を整えるも下からも見えたのかもしれない。いやほぼ確実に見えたのだろう。

 驚愕と懐疑を含んだ男の声がした。


「そこに誰かいるのか?」


 びくり、と思わず身体を揺らしたローシーズの動きが枝にも連鎖して、その辺りの葉が擦れ合う音が鳴ってしまう。


「いるんだな」


 下の男は確信を得たようだった。

 まずい、とローシーズは思う。精霊なんてもの、このご時世に見つかったら殺されるか隷属させられるかの二択だ。長老にもそれはよく言い聞かされていて、まだ生まれて数年と経っていないローシーズは真っ青な顔をして狼狽えた。


 死にたくない、と強く思った。――――まだ、まだわたしは。



 思い起こした、酷く鮮やかな青。



「ぃ、ぁあ……!」


 軋む脳がちいさな悲鳴を吐く。

 息ができない。頭を抱えて枝の上で身体をちいさくして、痛い、痛いと譫言じみた言葉がぽろぽろ零れ出るのを感じながらも自制できない。


 ローシーズはこれを知っていた。どうしようもできない発作。胸の真ん中あたりが焼きつくような痛みを発する。ただの幻の筈なのに、現実感を伴ったそれにローシーズは怯えるしかなかった。

 ――知らない、何も知らないのだ。わたしはこんなもの、知らない。


 下の男にも呻き声は聞こえたらしい。男は焦燥感に彩られた声で叫ぶ。


「具合が悪いのか!?」


 その言葉に、何故かローシーズは笑ってしまった。見ず知らずの女を心配するなんて、おかしな人、と。

 そうすると痛みはすっと消えた。いつもはもっと長く苦しいそれが、嘘のように消えたことにローシーズは驚く。やった、と喜びかけて。


「大丈夫か……?」


 彼の心配は、何故かローシーズの胸を打った。どくどくと早鐘を打つ鼓動。苦しいほどに痛む胸。だがその痛みは先ほどとは違うのだ。狭苦しい箱の中に押し込められるような、細い針でちくちくと刺されたような。

 先のそれに比べたらあまりにも軽い痛みで、けれど涙が零れた。止めどなくローシーズの両の瞳から涙が落ち、途中で薄紅の花びらに変わり空を舞う。


「この花は……君が?」


 枝の上にローシーズは座っているため上から花を落としたと彼は思ったらしい。春のことだったから、零れ落ちた花弁たちは精霊の涙と気づかれなかったようだ。よくよく見れば、そこらに落ちている普通のそれとは微妙に質感が違うのがわかるが。だが彼は『神秘』をあまり識らないようで、それがローシーズを救った。


 そっと細やかな声を出した。男にすら聞こえるかわからないほどの。


「……驚かさないで。わたし、落ちそうになってしまったのよ」

「それはすまないが……君は、女性か?」

「わからない?」


 いや、と男はかぶりを振る。


「わかるが、わかるからこそ……君のような若い女性が木の上にいるとは全く予想していなかったんだ」


 途方に暮れた気まずそうな顔が何だか可愛くて、ローシーズは口元に笑みを浮かべた。

 さわさわと風に数多の花びらが揺れ、攫われる。


「木の上でのお昼寝って、結構楽しいの」


 一瞬きょとんとして、彼は吹き出す。屈託のない笑みが、高級そうな仕立ての良い服を土に汚す姿に凄く似合っている、とローシーズは思う。


「そうか、それはよかった」


 彼はローシーズの方へ手を伸ばす。勿論下から彼女の姿は今は見えていないだろうけれど、先の一連の事で位置はなんとなくわかってしまったらしい。

 笑みを残した口元に喜びの光を宿す瞳が、ローシーズに向けられる。


「君は、一体どういう人なんだ?」

「……まず、貴方が誰なの」

「そうだな……クロウズ、だ」


 ローシーズは思わず溜息をついた。だって、彼は確実に偽名を名乗ったのだから。ならこちらもそうしてやる、とローシーズはふと思い浮かんだ音を言う。


「ロシー」


 その名を聞いたクロウズは何故か怯えたように、あるいは顔に諦念を浮かばせて、……罪を噛みしめる咎人が如く、唇を噛み締め暗い瞳をしたけれど。ローシーズが怪訝に問う前に、「よろしく」と笑った。

 それはとても綺麗な笑みで、だからこそ彼のそれは作ったものなのだと、わかってしまったけれど。



 *



 悪夢:

 今でもふと夢に見ることがある。

 あの女の、失望に濁った瞳のいろを。


 その強張った顔ごと毒を呑んだ罪人のことを。



 赦してくれ、と。

 そんな軽々しい言葉を、血を吐くように闇の中に置いた。



 *



 ローシーズの大木に花束を捧げる男――クロウズは、それからも度々訪れた。流石に毎日ではなかったけれど、その頻度はかなり高かった。


 ローシーズはいつしか彼からの『贈り物』を心待ちにするようになって、クロウズが一言二言会話をして去っていくと、そわそわしながら花束を抱えた。顔を鼻に埋めると芳しい香りが全身を満たすようで、樹は嬉しそうに薄紅の花を満開に咲かせる。それは本来の樹の生態からしておかしなことだったけれど、クロウズが何か疑問を発することはなかった。樹は海の向こうにある遠い異国出身だから、彼が詳しくないとしても何ら不思議ではない。


「ロシー、起きているか?」


 クロウズは今日も美しい花束を抱えてやって来た。彼はいつも開口一番ローシーズが起きているかを聞く。勿論邂逅時のことを揶揄われていると察していたローシーズであるから、ちくりと嫌味を言ってやるのも当然のことだった。


「レディになんて言い草? わたし、これでも寝坊したことはないのに」


 言葉が思ったよりも拗ねた子供のようになってしまって、ローシーズは内心焦る。


「それは済まない、レディ」


 だが彼はとても大人で、そんなローシーズの嫌味にもさらりと対応して見せるのが悔しかった。慌てさせて情けない姿を見たいと思うものの、その方法はとんと思いつかない。


 ふと、ローシーズは不思議に思った。

 そういえば彼は何故花束を持ってくるのだろう、と。


 ローシーズの為、ではないことはわかっている。ローシーズがいることを知らない最初の彼も花束を持っていたから。

 樹に供えられているからローシーズが花束を貰っているが、本来貰うべき誰かがいるのではないかと――ローシーズは不安になった。彼が想いを込めた花束を勝手に貰うなんて。


 悔しさまじりに、けれど殆どは好奇心のためにローシーズはクロウズに問いかける。


「貴方は何をしてらっしゃるの?」


 彼は一瞬きょとんと幼げな表情を晒し、やがて意味を掴むとすこし寂しげに笑う。


「大好きだった人への、謝罪かな」


 その表情が、言葉が、瞳に浮かぶ色が。どうしようもなく、ローシーズの胸をついた。

 それは悲しみとも、喜びとも違う何かで、ローシーズはうまく息ができなかった。


「……ロシー、どうした?」


 ローシーズの様子がおかしいことに気づいたか、彼のそれは怪訝な顔に変わる。だからローシーズは安心して声を出すことができた。


「なんでもないの、今ちょっと風邪気味なだけ」

「風邪? それはお大事に」


 クロウズはあっさり騙されて、優しく微笑む。あるいは彼は気づいているのかもしれなかった。けれど何も言わないのなら、それは気づいていないと同意義で。


 甘やかな微温湯ぬるまゆのように、余所余所しい他人のように、ふたりは笑いあう。



 *



 煉獄:

 罪を雪ぐ、と言葉では簡単に言えるのに。

 罪を償う、と安い誓いなら口に出せるのに。


 ならば罪とはなんなのだろう。



「君はどうすれば赦してくれるのか」――つまり、これはそういうことでしかないんだ。


 意味のない自己満足。




2承――約束

「……」


 ローシーズは呆気にとられた。目はすこし伏せがちに据わっていて、口は開いてはいないものの笑みとは反対側に歪んでいる。勿論この顔はクロウズに見えていないが、醸し出す雰囲気を察したか彼が片手を上げて挨拶した。


「やあ、ロシー」


 クロウズは彼女の反応に愉しげに笑っていたけれど、ローシーズは到底笑えない。何故なら、彼の背中にはとてもおおきな荷物が背負われていたのだから。

 くん、と鼻をひくつかせた。精霊の鋭い嗅覚が荷物の中身を感じ取る。


「……お酒?」

「流石、わかるんだな」

「ええ、……えっ?」


 一瞬流しかけ、ローシーズは違和感に眉根を寄せた。だがクロウズは微笑みながら話を続けるから、違和感はやがてどこかに消え去る。


「ええと、つまり」


 ローシーズは頭の中で彼の話を纏めた。見えないけれど、頭痛がするとわかりやすく素振りで示しながら溜息を一つ吐く。


「お花見をしたいということかしら?」


 頷くクロウズに、続けて問いかける。


「何故、ここで?」

「……わからないか」


 変わらず笑みを描く口元とは裏腹に静かな口調の彼。その変化は、ローシーズにわかるはずだろうと言外に言っているようで。全く覚えのないローシーズはただ当惑するばかりだ。わからないわ、と答えて仕舞えば、彼は悲しむだろうか。けれど、他に何と答えていいか。


「ごめんなさい」


 彼はやっぱり悲しそうで、だが「大丈夫だ」と言ってニヤリと笑う、笑顔を作る。


「君の花が、とても綺麗だから」

「わたしのじゃないわ!」


 ローシーズは反射的に叫んでいた。驚くクロウズに、弱々しい声ながらも「わたしのじゃないわ……」ともう一度繰り返す。


 この花は、この樹は、ローシーズそのものだ。ローシーズはこの樹に宿る精霊なのだから。けれども、それは彼が知らないはずの事実だ。

 だから、それが彼の優しさだとしても。ローシーズだけは、それを肯定してはならなかった。


 何故なら彼女は『神秘』だから。


「……ロシー、その」


 クロウズは口をモゴモゴと動かせて何か言おうと懸命に脳を働かせるが、言葉はない。顔にもう笑みはなく。後悔に彩られた青は、それでもローシーズにはやはりとても綺麗に見えた。


「ねえ、クロウズ!」


 あえて明るく、ローシーズは切り出した。


「お花見って何をするのかしら!」


 無邪気さを装うように。


「わたしも一緒にしたいわ」


 だが顔だけはうまくつくれない。それでも彼に見えていないから、いい。

 不安で泣きそうな、ぐちゃぐちゃの心内を示したかのような表情なんて、見えなくていい。


 そうやって偽って、壁を作って距離を取り。境界線の向こう側の彼に壁越しの声をかける、ローシーズはそういう関係しか築けないのだから。


 明るい声だけを出し続ける。そして「ねえ、いいわよね?」と強請ってみせる。何も気にしていないと、先ほどのことは『なかったこと』なのだと、態度で示す。


「…………ああ、そうだな」


 何度も言い募って、やっと強張った顔のクロウズが頷く。そのまま伏せた顔は、位置の関係でローシーズから見えなくなった。彼は表情を隠したかったのだろうか。


 見せてほしい、と思った。あの、綺麗な青を。

 彼の揺れる瞳を。


「君は、花見を知らないのか?」


 ローシーズに悪戯っぽく問いかける彼は、すっかりいつものペースを取り戻していた。嬉しいけれど、この流れはわたしが揶揄われる流れだわ、とローシーズはほんの少しだけ拗ねる。声も自然とつんと尖ったものになる。


「知らないわ……」

「勿体ないな、そんな綺麗な花がすぐそばにあるのに」


 クロウズの危ういところを歩く発言はもう無視しよう、とローシーズは決意する。幾度も動揺していては彼の思うツボだ、たぶん。


 彼の中でどうやら『ロシー』の正体はほぼ決まっているようだけれど、それはローシーズが正体を現していいということではない。疑惑と確定は違うのだ。


 クロウズによると『お花見』はそのまま言葉通りの意味で、花を見ながら飲み食いして喋って楽しく過ごすこと、らしい。背負った荷物は食べ物や飲み物だと彼は言うが、ローシーズの嗅覚はしっかりとその中身を判別しており、酒とそのつまみ類のみだとわかっている。


「……ただお酒が飲みたいだけでなくて?」

「お花見だ」


 きっぱりと真顔で言い切るクロウズ。ローシーズはそれに半眼で相槌を打った。どうしても彼はそういうことにしたいようである。


 そんなにお酒っていいものだったかしらと呟けば、彼が「ああ」と吐息のような声を漏らした。


「そうか、君は、……」


 ローシーズのいるであろう場所を見上げる彼の青が、細くなる。空気に溶けるちいさな言葉はそれでも精霊の聴覚からは逃れられなかった。

 ――君は、十八まで生きられなかったから。


『ねえ、君って、誰の事を言ってるの?』

 ローシーズはそんな言葉を叫びたい衝動に駆られたけれど、唇をぐっと噛み締めて堪える。それは聞いてはいけない事なのだろうと、青に浮かぶ感情を見て思うから。



 からん、と氷が揺れる。顔を見せぬようにと気遣いながらも受け取った手の中のグラスが汗ばんで、ローシーズの手を濡らしてゆく。


「……随分準備がいいのね」

「君の分も用意してきたからな」


 ローシーズは嘆息する。色づいたグラスは明らかに女性用で、言いたいのはそういうことだったのだけれど。


 ――あなたはわたしよりも、構うべき女の子がいるのではないの?

 言えないことばかりが胸の中で渦巻く。


「ねえ、」


 笑みを作る。ぐるぐると重い胸中など無視して。当たり障りのない話題を、と探したそれを彼に問う。


「あなたは、どうしてここでお花見をしようと思ったの?」


 けれど。自分の心でさえわからないのに、他人の心など――障りがあるかなど、わからないのが当然だった。


 彼は目を瞠って、それから自嘲するように口角を上げる。青はどろどろと深く暗く。


「彼女と、……俺の婚約者だった女の子と約束したんだ」


 そこで一回言葉を切ると、今日持ってきた花束を見つめる。


「いつか、一緒にお花見をしよう、って」


 きっと彼は、そのひとを愛おしく思っていた。それは他人であるローシーズにすらわかる事実だった。――たぶん、そのひとが「大好きだった人」ね。

 いつか彼が言っていたこと。『大好きだった人への謝罪』である花束。――ああ、羨ましい。


 ふと、ローシーズは閃く。

 彼がローシーズに重ねているのは、そのひとなのではないか、と。『十八までしか生きられなかった』、『婚約者だった女の子』。

 想像はさらに飛躍した。――もしかしたら、本当に、わたしはそのひとなんじゃないの……。


「ロシー?」


 だがクロウズの怪訝そうな声に、そんな空想は吹っ飛ぶ。


「なんでも、ないわ」




 遠い昔に。

 少女と少年は若木の下、約束をした。






3転――独り

 その日、彼は来なかった。ローシーズはいつものように微睡んで身体を丸めた。


 明くる日も、彼は来ない。長老や幼い悪魔と妖精に会いたくなって、『神秘』の森へと彼女の足は向いた。


 また明くる日、雨がしとしとと降っていた。きっと彼はぬかるんだ森の小道に足を滑らせてしまうから、今日彼が来なくてよかったと、彼女は微笑んだ。


 そのまた明くる日、ローシーズは眠りもせずに枝の上にじっと座っていた。


 彼が来ない。それはなんらおかしくないことのはずだ。だって彼がローシーズに会いに来ると約束したわけではないのだから。今までは、クロウズがただ物好きだっただけ。


「…………レディを待たせるものではないわ」


 そっと呟いてみても、彼の揶揄い混じりの声が返ってくることはない。


 ローシーズは初めてそこで、自分の感情を知覚した。わたしは寂しいのね、と。

 足を撫でる。ワンピースから覗く足には赤い線がいくつも入っていた。ローシーズの足は動かない。それは人間のように歩く、という機能を喪失してしまったということだ。ただ彼女は『神秘』だから、移動自体に問題はなかった。人間である彼とは違うから。


 ああ、そうだ。ふと思い立つ。きっとこれが正解なのだろうと、冷えた心が。


「わたしが『神秘』だから、彼はもう来ないのね」


 一際うつくしい花びらが一枚、舞うのが見えた。


 *


 確信と諦観。あるいは、失望か。

 クロウズと名乗っていた男は、曇った感情を胸に兄と相対していた。周囲には兵士。裏切り者の弟を捕らえるための、兄の兵。その中に銀髪が見えた気がしたが、すぐに人に紛れ見えなくなった。


 兄の厳しい顔が、兄の命令で男を取り囲む兵士たちが、どうしようもなく示唆する。男の見つけたあの部屋にあったものが真実であることを。


「お前にもう用はない」


 たったそれだけを言い、兄は身を翻す。柔らかな金髪が風に揺れた。


「兄上……」


 呟いても、兄はもう顔を向けない。代わりに兵士たちが無表情で男の腕をとった。



 牢の中、思う。きっとあの罪人も――彼女も、こんな気持ちだったのだろうか。空気に溶けるのは、もう何年も呼んでいない彼女の名前。


「ロシーディア」


 からからに乾いた喉は、それでもしっかりと仕事をしてくれた。


「ロシーディア……ッ!」


 かつて、男――クロードの婚約者だった女。『神秘』を匿ったとという罪科により、クロードの目の前で毒を飲んだ。

 国主の弟であるクロードの婚約者であるから、彼女の家は高位の伝統ある家柄だった。だから匿った、それだけではロシーディアは死ななくてもよかった。

 だが、彼女は『神秘』を逃してしまったのだ。


『神秘』。世界がつくった、人間が幸せになるためのモノたち。悪魔、吸血鬼、妖精、精霊、人魚――。

 今はもう消えかける存在モノ。


 それはこの国では捕らえて隷属させ、嫌悪と憎悪を向けながらも国のために働かせるモノだった。他国では殺されると言うけれど、国主たる兄の意向で彼らは兄のモノになるのが決まっていた。

 そう、ロシーディアのしたことは、つまり国主のモノを盗んだに等しい。この国において、国主は絶対だ。何故ならば文字通り、兄はこの国の主であるから。


 鮮明な記憶の中、彼女が叫ぶ。


『何故ですか! 彼らは物なんかじゃない! わたくしたちは、ずっとそうやって彼らと付き合ってきたはずでしょう!? 何故、今になって、あなたは!』


 兵たちに地に押さえつけられ、着ていたドレスは輝きを失っていた。それでも、必死にロシーディアは訴えた。どうか、彼らを解放してやってくれ、と。


 だが彼女の懇願に似たそれを兄は一蹴した。冷たい碧の瞳で。


『くだらない』


 クロードはただ後ろで立っているだけだった。婚約者が罪人として引きずられていっても、彼女が自分に向ける失望の色を見たくなくて顔を背けた。兄の感情のない面がただただ、恐ろしくて。

 クロードは逃げたのだ。ふたりの、どちらからも失望されたくなくて、どちらにも寄れなかった。その結果がこれだ。


「なんて、愚かな」


 すまない、と。そう口に出そうとしてやめた。きっとロシーディアは、クロードを許しはしないだろうから。



 ロシーディア、…………ロシー。あの『彼女』は一体誰だったのだろう。


 ロシーディアへの償いに、クロードは彼女の植えた木に花束を供えた。彼女が死んでから数年たって漸く、クロードにも覚悟ができたから。兄に叛く覚悟が。


 そんな時、薄紅の花弁の最中に白が覗いた。最初は見間違いかと思った。まさか、そんな場所に女性がいるなどと――しかも、寝ているなど考えもしない。だが上がったちいさな悲鳴は女のものだ。結局、彼女が何故あの時叫んだのかは未だにわからない。聞く機会を失ってしまった。


 彼女の顔を見たことはない。クロードの知る『ロシー』は、囁きだけの存在。


 だから、それは妄想にしかなり得なかった。『ロシーディアは、精霊のロシー……ローシーズになったのではないか』そんな馬鹿げた妄想。クロードに都合のいい夢。

 あり得ない、けれど。それでも死ぬ間際くらいは、夢を見せてくれ。


「君に、届いているといいな」


 そう呟いて、クロードは床に置かれた杯を手に取る。


 兄の温情か、あるいは嘲笑か。クロードには毒の杯が与えられていた。ロシーディアと同じ処刑法。だからこそ彼は、躊躇わずに飲み干した。





 薄れゆく意識の中で。

 彼女が、クロードを迎えにきたような気がした。


 *


「何を、言って」


 ローシーズは自らの声が震えているのに気がつく。本当は声どころか身体全体がぶるぶると小刻みに揺れ、顔は真っ白になっていたが。


「真実、でしょうか」


 灰色の瞳の少女が木の上のローシーズを見上げて寂しげに笑う。寄り添う銀の狼のおおきな尻尾がひとつ振られた。


 十に届いてすこしといったところの少女の名を、アリスエルダと言う。隣の狼はミルファーレンという名前だと、アリスエルダはローシーズに紹介した。

 ミルファーレンを見た時、ローシーズは酷く驚いたものだ。何たって、悪魔である。『神秘』のひとつであり、遠き森の幼いあの子以外はもういないだろうと推測していた、悪魔。それも全知全能と呼ばれる超有名なひとだ。長老やたまに森に来る吸血鬼がよく『全知全能の大悪魔』の話をしていた。何度も聞き飽きるまで話されたから、ずぼらなローシーズも覚えていたのだ。


 当初、ローシーズは悪魔とその契約者が訪ねて来る理由がわからずに困惑の表情を見せた。そんな彼女にアリスエルダは柔らかく微笑むと、


「お久しぶりです、ロシーディアさま」


 とあたたかく呼びかける。


 当然、ローシーズにそんな名前の心当たりはないから思わず「訪ねる方をお間違えではないかしら」と返してしまった。アリスエルダは一瞬きょとんとして、自らと傍の悪魔の名乗りを上げる。しかしやはりローシーズに心当たりがないと知れるや、狼が呟く。


「よほど人間が嫌いだったんだね、ローシーズ」


 そんなことないわと言おうとして、言葉が出ないのに狼狽した。まるで肯定しているように、ローシーズの口は沈黙を守る。


 少女の灰色の瞳が悲しみに染まった。


「……貴女さまは、お忘れになってしまわれたのですね」

「わたし、わたし、わからないわ……ロシーディアって、誰なの」


 彼女と似た名前。彼女が使った偽名に似た名前。――ああ、そういえば偽名に彼は怯えを暗い瞳に宿したわ。


 アリスエルダは優しく囁いた。


「貴女さまの、人間でいらっしゃった頃のお名前です」


 空のような青だけを、鮮明に覚えている。






4昔――記憶

「……お前がロシーディアか」


 冷たい蒼い瞳。金髪碧眼のその人は、婚約者の兄だった。


「おはつに、おめもじ、つかまつります」


 辿々しくも教え込まれた言葉と礼をして見せれば、瞳の冷たさが幾分か和らいだように見えた。


 本当は優しい人なのかも、と幼いロシーディアは思う。


 *


 日に触れるとその髪はキラキラと輝いていて、ロシーディアはしゃがみこんでいるのはてっきり婚約者の兄かと思った。


「おいで」


 しかし、柔らかい声で、周りを飛び回る光の粒に呼びかける彼は、似ているだけの違う誰かだ。ロシーディアはぴんとくるものがあって、彼に挨拶でもしようかと思ったけれど。


 城の片隅、庭園の草花に埋もれるように妖精と戯れるひどく綺麗な青が、曇るのが嫌で。


 彼が立ち去るまで、遠くから少女は一人立ち尽くしていた。


 *


 婚約者は顔を顰めて黙り込んでいた。しかしそれでも、いとけない子どもながらも端正に整った顔立ちがよくわかる。嫌悪に歪んでも綺麗な婚約者にロシーディアはすこし落ち込んだ。彼に比べて、自分は綺麗と言えるのか。隣に並ぶのがとても不安だ。

 口元を引き結んで不安を堪えたロシーディアは、しかしぽかりと口をはしたなくあけてしまう。


 こちらをまっすぐ見据えた婚約者の瞳の色に、あの時とは違って近くに見える瞳に、どうしようもなく――惹かれた。


 彼の兄の深海のごとき深い蒼と違い、それは良く晴れた日に見上げる色。抜けるような青にロシーディアを映してくれた、それだけで舞い上がってしまいそうで。


 それが最初のきっかけ。


 *


「おれはクロード」と婚約者が胸を張る。次に「わたくしはロシーディアともうします」とお辞儀をした。


 二回目の顔合わせは順調な滑り出しだった。一回目は結局ふたりともまったく喋らずに終わってしまい、ロシーディアの父はひどく不機嫌になった。父の眉間の皺を無くすために、あるいはあの青をまた見たいと思って、ロシーディアはやる気を漲らせ二回目に臨んだ。


 大人たちは安堵して、ふたりでたくさんお話ししなさいと言い残して出て行く。城の豪華絢爛な部屋は、幼い子どもたちにとって広すぎる。自然、ふたりは声を大きめにしなければならなかった。


「『しんぴ』を、ごぞんじでいらっしゃる?」


 ロシーディアは慣れない口調に困惑しつつ問う。部屋に響く声にクロードが眉根を寄せ、「しらないわけないだろう」と鼻を鳴らす。

 現在のこの国にとって、『神秘』は酷くデリケートな問題だった。



 かつて魔女がいた。現在の国主たるクロードの父の、更に彼の父の妻。つまりクロードからすれば祖母にあたるのが、魔女アルケーシィアその人である。だが今のクロードが祖母と慕える女はいない。


 アルケーシィアは殺された。それも、『神秘』に。


 魔女とは悪魔の子らのことだ。契約を結び人となった悪魔と、人間との合いの子。あるいは合いの子の子どもたち。悪魔の御技――魔法を扱える女のこと。

 実を言えば魔女と呼べる者の中には男もいたが、大多数が女であり男は珍しい存在だったために魔女という呼称が広まったらしい。


 要は、アルケーシィアは『神秘』であったのだ。だが彼女がこの国の民に疎まれることはなかった。国主の妃にすらなった。昔、この国は『神秘』を受け入れ国民としていたから。


 彼女は強い魔法の力を持っていたから、子孫にその力が受け継がれることを誰もが望んだ。しかし息子は彼女と同じ色を引き継いでいない。一度は落胆に沈んだ国だが、一人目の孫が生まれるとそれは歓喜に変わった。


 悪魔の色に似た、黄金きんのごとき金髪。深い海のような碧の瞳。うつくしい金髪碧眼の少年は、魔女だった。


 彼は祖母によく懐いた。家族の中で二人だけが同じ力を持っていたから。


 アルケーシィアの息子が国主となり、この少年が次期国主として教育を受けはじめた。そんな時――アルケーシィアは殺された。誰が殺したか、何故殺したかは定かではなかった。しかし、それは人間ができるはずもない殺し方で。


 そうして悲哀と憤怒に燃え、この国は『神秘』を隷属させるようになった。


 これは二人が、まだ生まれる前の話。



「『しんぴ』は、おきらい?」


 クロードは婚約者の質問に、言葉に詰まる。やがてぼそぼそとちいさな声で言った。


「…………きらい」

「そう……」


 嘘つきね、とロシーディアは心の中で呟く。


 だって。

 彼の青は、あんなに綺麗だったのだから。


 *


 ふたりの話が尽きることはなかった。

 最初はロシーディアのことを睨んでいたクロードも、幾度も会うたび態度は軟化していった。ロシーディアの方も、綺麗な青を持つ少年がだんだんこちらに心を開いてくれているのがよくわかったから、ふたりはそれなりに仲の良い婚約者であった。


 ロシーディアは、最後の大人が部屋を出たのを確認して、はしたなくも扉に耳をつけて周囲の音を窺う。突然奇行に走った婚約者に困惑しているクロードの様子が目に見えるようだが、これをやめるわけにはいかなかった。


「……よし、いいでしょう」

「ロシーディア、何をしているんだ?」


 クロードの声色は予想通りに困惑しきったもので、心を閉じていた頃の彼なら今頃大人を呼んでいただろう。

 だが彼とよく交流していたロシーディアに死角はない。クロードもそこそこ長くなってきた付き合いの婚約者のことだから、奇行は理由があってのものと理解しているのかソファーにきちんと座って待っている。


「秘密のお話をするの」


 ちいさな胸を張って、クロードの隣にロシーディアが座る。きらきらとした瞳を向ける彼女が身を乗り出してくるから、彼は少し身を引きながら怪訝そうな顔をした。


「聞かれちゃまずいってことか?」

「その言い方はロマンがないわ!」


 ロマンを大切にしたいロシーディアは、密やかにクロードに囁く。


「精霊のお話よ」


 精霊。『神秘』のひとつである、彼らの話。それは大人たちに聞かれたら、長い長いお説教をされるに違いない話である。


 本当は、彼女の話をクロードは断らなくてはいけない。クロードは国主の子で、『神秘』を厭う国の頂点に近いから。けれど少女の輝く瞳に好奇心を掻き立てられて、クロードは彼女の話に耳を傾けた。


「クロードは知っているかしら、精霊って、木とか川とか、自然に宿るひとたちなの」


 それは知っている、とクロードが頷く。


「その彼らはね、自然を大切にすると目の前に現れて、色々と助けてくれるのよ」


 それも知っていると答えれば、「じゃあ!」とロシーディアがますます身を乗り出す。


「精霊の名前の法則は知っているかしら!」

「名前?」

「これは知らないのね!」


 自慢げに笑う少女に自尊心は微かに傷つくが、それよりロシーディアのかわいい声を聞いている方がクロードには重要だった。クロードは、幾たびもの逢瀬にいつしかこの元気一杯のちいさな淑女のことを好ましく思うようになっていた。


「精霊たちの名前はね、最後に『ズ』がつくの」

「悪魔が長くて言いにくい名前を持つのと同じように?」

「そう!」


 ロシーディアが悪戯っぽく笑う。


「だからあなたがもし精霊になったら……クロウズ、なんて呼ばれるのかしら」


 クロードはぱちぱちと目を瞬かせて、「精霊に?」と不思議そうな顔をした。それは彼がロシーディアのとっておきの『精霊のこと』を知らないということで、ロシーディアは心の中でにんまり笑った。

 頭が良くて、ロシーディアよりたくさん勉強している彼が知らないなんて。それとも、『神秘』のことはあまり勉強できないのだろうか。


「わたくしの場合はどうなるのかしらね……ロシーディズ? ロシーズ?」


 クロードは暫し考えて、「ならお前はローシーズだ」と告げる。


「あんまり可愛くないわ……」

「お前の名前がズをつけにくいのが悪い」


 不満そうに頬を膨らませるロシーディアに、クロードは鼻を鳴らした。それでもロシーディアに、「呼ぶときはロシーと呼べばいいんじゃないか」というのは、できるだけ可愛い呼び方を探したからか。


 クロードの気遣いに嬉しくなったロシーディアは、とっておきを披露することにした。


「わたくしね、もうひとつ知っているわ」


 やはり彼女は声をうんとちいさくして、クロードに囁いた。


 ――人間は大切に植物を育てたら、死んだ後で精霊になれるのよ。


 *


「これ、なあに?」


 ロシーディアは目の前のそれをしげしげと観察しながらクロードに問いかけた。


 もう二人が会うのは何回目か、数えるような数ではないのは確かだった。ロシーディアとクロードの仲は悪からず、このまま数年後には結婚すると言っても忌避感はないだろう。


「若木だ」


 端的な答え。本当に若い――幼い木のようで、幹はロシーディアの腕よりも細い。背の丈も見上げるくらいで、大人より小さい。

 頼りなさげに立つ姿は、すぐさま枯れてしまいそうな儚さがあった。


「これ、育てるのかしら?」

「お前にやる」

「わたくしに? そんな、枯らしてしまうわ」


 ロシーディアは自分のずぼらさに自信がある。それを矯正すべく礼儀の先生は奮闘しているのだが、その努力は実っていない。クロードはロシーディアのずぼらさもまた魅力の一つとは思うけれど、爵位を持つ者として許されることではないからある程度の矯正はやはり必要だった。


 そこでこの若木である。


 生き物というものは繊細だ。すこし世話を怠れば病気になってしまったりする。つまり継続してある程度質の高い世話をすることが必要不可欠である。


「枯らすな」

「……」


 位を継がないとはいえ国主の一族であり婚約者であるクロードのお達しならば、ロシーディアは拒否できない。


「いいな、たまに見に行くぞ」

「……」


 だが無言を貫くロシーディア。


「……大切に育てると精霊になれるんだろう?」


 クロードの潜めた声にロシーディアは彼の顔を見る。クロードは周囲を視線を走らせて、誰もいないことを確認してロシーディアにもう一度囁く。


「俺も、育てるから」

「……わかったわ」


 ぶすくれていたロシーディアも彼の言いたいことを察した。

 もしいつか死んでも、きっと二人はまた会えるってことだから。


 それでも明言しない彼にちょっとだけ不安になって、「ねえ、約束ね」とクロードに強請った。


「約束?」

「ずうっと、あとで。もしわたくしとあなたが土の下で眠っても」



「会いに来て」

 ずっと待っているわ、クロード。



 そう言えば彼はむっとした顔で、「俺が先に眠ったらどうするんだ」とロシーディアを睨め付けた。


「あら、そのときはわたくしが迎えに行くわ」


 だから、約束をしてね。

 絶対、わたくしたちはまた会えるって。



 それはまるで愛の言葉みたいに、甘い約束だった。






5結――哀憎

 転がるそれを見たとき、彼女は「あら毒杯だわ」とぼんやりと思った。


 かつて自分が飲んだ時のものと全く同じ形をした器で、中に残った水みたいに透明な毒はとろとろと冷たい石の床に零れ落ちている。染みて黒々とした床を踏むのが憚られて、そこを避けた。彼は本当に一気に大量に飲み干したのだろう、忌避すべき場所は僅かだった。かつての彼女は毒杯を持つ手が震えてしまってあまり一度に流し込めずに酷く苦しかったから、彼がそうではないことは喜ばしい。


 暗い石牢は芯から冷え込むような寒さがあって、たった二日いただけの彼女でさえ凍え死ぬかと危惧したほどだ。毛布どころか布の一枚もなく、明り取りの窓は高く遠く、鉄格子の向こうにあるのは血がこびりついた石牢たち。ここは、この国の闇を煮詰めたような場所だった。


 触れると、ギィ……と音を引きずって鉄格子が動く。少し触れただけで手が凍った錯覚をするほどに寒い。アリスエルダがくれた革靴が床の冷気を遮断してくれるから、それでも随分と囚人であった時よりも寒くなかった。吐いた息は人あらざる彼女でも白い。


 牢の中は狭い。一歩、二歩と踏み出せばソレは間近にあった。


 小さな窓が月明かりを受け入れている。きっと森は今日も静かに眠っているのだろう。森の一部である自分がこんな場所にいるのがひどく不思議だ。


「……」


 なんて呼ぼうか、と彼女は思案した。自らの名前すらどれが正しいとわからないのに、彼の名前がわかるわけない。自分は、彼にどちらの立場で会うべきなのか。


 そもそも、会っていいのかすら。


 結局口を開いても閉じて、彼女はしゃがみ込んだ。壁に寄りかかり目を瞑った彼は何故か――安堵したように仄かに笑みを浮かべていた。


 彼女は何も言わないまま彼を揺する。けれども彼はやはり、答えることはない。それどころか彼女が軽く揺らしただけで倒れ込んでくる。身体は重い。意識がないからか、それとも。

 噛み締めた唇から血の味がして、まるで人間みたいと笑った。


「ねえ」


 彼女は耐えかねたように、口を開く。


「ねえ、起きて」


 きっと叶わない、そんなことを言う。


「ねえ、ねえ、起きてってば……!」


 間に合わなかった。いや、最初から、間に合うことなんてなかった。銀色の狼は彼女に「彼が捕らえられた」と告げたのだから。あの国主が――彼女を二日で殺したあの男が、弟であるとしても容赦なんてするはずがない。彼女より罪が重いのに。


「……約束したのに」


 あるいは、彼が来てくれても彼女は忘れてしまっていたからか。


「ねえ、わたし……わたくし、が」


 一人称すらあやふやで。


「迎えに行くわって……」


 お伽話のように遠い記憶が。


「その前にどこかに行っちゃうなんて、ずるいわ、ねえ」


 石に染み込むのは、花びらか……。


 ――あなたは、どこにいるの?


 *


「アリス」


 扉の向こうをしきりに気にする少女に呼びかける。悪魔に向いた灰色の瞳がゆらゆらと、不安の光を宿して揺れた。


 少女が寒さに震えはしないかと自分が羽織っていた上着を細い肩に乗せ、そのまま引き寄せる。扉一枚隔てただけの飾り気のない通路は、窓が大きくなければ牢の中と勘違いしてしまいそうなほど。何もかもが牢に準じる。


 いくら特異な力を持つ悪魔と契約した少女といえど、人間は大概壊れやすいから悪魔である男が甲斐甲斐しく世話を焼くのも仕方のないことである。悪魔のいつものソレに、少女の表情がやわらぐ。だが、笑えるほどではない。


「ミル……ロシーディアさまは、大丈夫かな」


 少女の問いに、しかし悪魔は答えられないでいた。大悪魔にはこの悲劇の結末がもう見えていたから。曖昧に笑えば、聡い少女は俯く。


「わたしができることって、本当にすくないね」


 少女は無力だ。魔法なんてものを使えるけれど、それが役に立つことがどれだけあるか。少女の体は弱くて脆い。魔女はどう足掻いても悪魔の紛い物でしかない。


 それでも人間は諦められないから、魔女狩りなんてものが横行するのだが。


「レル」


 それはまるで、絶対という概念そのもののような、呼びかけだった。


 アリスエルダ――あるいは、レル・カデリアが声の方へ振り向き、姿勢を正してこうべを垂れる。隣の悪魔は静かに目を伏せた。


「はい、国主さま」


 少女の口からこぼれ出る感情を排した言葉。灰色の瞳は何も映さずに。

 悪魔はその態度が大嫌いだった。今でも嫌いだけれど、「アリス」と呼べば、少女は嬉しそうに笑うから。

 だから今は静かにふたりの声を聞いている。


 ほんのすこしの笑みさえ浮かべて、国主――クロードの兄は言った。


「アレの処分は任せる」


 次いで、少女と悪魔がまもる、牢へ続く扉を見やって、


「中の花びらと……庭の木も持っていけ」

「…………庭の木、だって?」


 悪魔が唇を戦慄かせて男を見たが、彼は笑みを消して何も言わずに背を向ける。悪魔はきっと口にすべきではないと知っていたけれど、しかし言わずにはいられない。


「きみは、やっぱりその生き方を変えられないんだね」


 名前も呼ばれることのない、男は。


「……お前たちが、そうしたのだろう」


 冷え切った声で――だが硬質な碧は憤怒には燃えず。そのまま去る彼に、かける言葉は一つとしてなかった。

 ミルファーレンは彼のことを何も知らないが、しかしそれは彼のことを放っておけるわけではない。あまりにも、その彼のいろは――かつての灰色に似ていたから。


「憐れむべきではないのだろうけれど」


 ――そしてきみは、それを忌避するのだろうけれど。

 然れども悪魔は悪魔であるがゆえに、ひとを愛さずにはいられない存在であるがゆえに。ひとりぼっちの魔法使いが、強すぎるこどもが憐れで可哀想で仕方がなかった。


「ねえ、ミル、さっきの国主さまのお言葉……どういうこと?」


 隣のアリスエルダがミルファーレンの服の裾を掴んで縋り付くように見上げる。

 処分するべきアレは、多分もう動かぬクロードのことで。花びらと、庭の木。それは一体、と。


 ああ、とミルファーレンは目を細める。


「彼はやっぱり、弟のことが大切だったんだよ。……アリス、精霊がどうやって生まれるか知っているかい」

「えっと……確か、本体となるものが必要ってことは知ってるよ、ミル」


 そうだね、と頷く。

 ……アリスエルダはその仕事の関係上、それからミルファーレンと話すことで『神秘』についての知識を深めている。そのアリスエルダが知らない知識を、正直『神秘』を憎悪する人間が知っているのは信じ難いことだった。

 悪魔は描き出した彼の心理を思って、そっと息を吐いた。


「ところで、ローシーズが宿った樹は彼女が幼い頃から育てていた樹というのは知っているよね」

「うん、それはもちろん。……あっ、そうか、クロードさまも……!」

「そうだよ、アリス」


 ミルファーレンは憂いを消し去って、少女のために笑みを形作る。


「僕らが頑張れば、新しい精霊が生まれるかもしれないね」






【いつかあなたと、また。】


 ふと気づけば、そこは森の中だった。深い深い黒色がぼんやりと空気の中を揺蕩う様な、押し合う木々で日が遮られた薄暗い森の中だ。


 どうやら自分は座り込んでいた様で、立ち上がると一瞬目の前が眩んだ。ぱちぱちと幾度か瞬きをすれば、人外の身体はすぐさま正常に戻る。不思議な身体だ、と思う。しかし思った後で首を傾げる。……何故、不思議だと考えたのだろう……。


 見上げても空が見えなければ目印になるものもなく、かといって辺りを見回せば同じ様な光景に落胆する。これは、相当苦労しそうだ。……だが、この身体はその『常識』に動じずに現在位置をしっかりと把握してみせた。それはよくわからない力のおかげのようだが、一体この力は何か……。


 だが疑問を呈すること自体がおかしなことのような気がして、常識と常識が鬩ぎ合う気持ち悪さに閉口する。とりあえず誰か、と自然に考えて、また状況との齟齬が発生する。

 気づけば身体を預けていた木を見ているとそこがいちばん安全な場所に思えて、しかし木に登るのは、とまた『常識』が邪魔をする。動く気にもなれず、辟易した気持ちを抱えて結局地面に座った。


 この何やら幼子のようなちいさな身体も動きにくくてたまらない。たぶん、もっと大きな何かだった気がする。それもまた、よくわからない『常識』が伝える事実。


 そもそも、自分は誰だろう。


「あら、貴方は何をしてらっしゃるの?」


 急に降ってきた女の声に、おおきく身体を揺らしてしまう。狼狽して木にしがみつくと、そろそろと女を見上げる。


「…………ロシー?」


 咄嗟に漏れた音――『常識』曰く女の名前。


「わたし、が、わかるの……?」


 泣きそうに見えた。女の揺れる瞳が、震える唇が。だから、答えるかどうかは迷ったけれど。


「わからない」


 すごく残酷なことをしている気分と、やさぐれた気持ちが入り混じる。こう答えるのが、自分にとっての正解だと本能的にわかっていた。


 女はすこしだけ驚きを混ぜて、「ええ、そうでしょうね」とたのしそうにくすくす笑い始めたから、やはり正解だったらしいとすこし安堵する。


「わたしはローシーズ。ロシーと、呼んでくれて構わないわ」


 ローシーズは甘やかな声で名乗った。


「貴方は、誰なの?」


 変な聞き方だった。普通、そういう時は「貴方の名前は」だろうに。


 しかし、自分は誰だろう?


「わからない? そう……なら、わたしが貴方の名前を教えてあげる」



 貴方は、クロウズ。

 やっとまた会えた――わたしの大切なひとよ。



「わたくしは、貴方を迎えにきたの、クロウズ」


 じんわりと染み渡るように。


「ねえ、約束をしたでしょう?」


 ローシーズの声が、クロウズの魂の中に降り積もる。


 ――ああ、そうだ。いつかどこかで、君と約束をした。


 差し出された白くほっそりとした手に、迷わず自らの手を重ねた。ちいさくてよわっちい手が、いつか彼女の手を包むほど大きくなれるのだと知っている。






 君が俺を忘れても、きっとこの恋は、消えることはないのだろう。


 ――――もしあなたが私を忘れても、いつかあなたとまた、恋をする。

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君が俺を忘れても、 夜雨 @621351

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