竜の爪は愛を知らず・16


「葉希?」


 流緒はすっかり拍子抜けした。ついでに一気に萎えた。

 廊下には、水桶を転がして慌てて床を拭いている葉希がいたのである。


「ああああ! 申し訳ございません!」


 真っ青になりながら、葉希は詫びた。


「け、けしてお二人の邪魔をするつもりでも、何でもなかったのでございます! たまたま床掃除をしていましたら、お声が聞こえて……」


 とたんに、葉希の顔は真っ赤になった。


「い、いえ! けして、覗き見しようと、水桶の上に乗ったなどということは……」


「……したな?」


「は……はい」


 素直な葉希はうつむいた。

 背後で紗羅のかすかな悲鳴が聞こえた。おそらく、恥ずかしさで顔を隠しているに違いない。

 窓は厚みのある透かしだ。覗こうにも、さほどよく見えるわけではないが。


「い、いえ! 私、見ておりません! あの……ただ声が……」


 弁解すればするほど、ますます墓穴を掘る葉希に、流緒は鋭い目を向けた。真っ赤な爬虫類の瞳に睨まれて、葉希は蛙のように縮こまった。


「お願いでございます! お見逃しを!」


「見逃すも何も……」


 部屋の奥で綿布に隠れている紗羅を、ちらりと見る。

 何も言わないということは、判断を流緒にゆだねるということか? それとも、恥じ入って口も利けないのか……。


「こちらも不用心だった。葉希のせいとは言い切れぬ」


 葉希を追放するはずもない。

 睡世の妻であるし、貧民窟の住人にとって、この仕事は手に入れにくいものだ。この金が、越砂たち子供の為に使われていることも、既に流緒は知っていた。


「不用心……って! ああ、流緒様!」


 急に葉希が叫んだ。


「大変! もう陽がこんなにも!」


 見ると、もう既に太陽の光が辺りを照らし出していた。朝の薄明の柔らかな光ではない。

 間もなく、ここに珠耶が来るだろう。そして、朝の礼の儀の準備をすることだろう。そして何よりも……陽の光が流緒を焼く。だが、昨夜被ってきた布は、既に泥だらけで使えない。

 ふわり……と、綿布が流緒に掛けられた。


「とりあえず、こちらで……」


 紗羅が、先ほどまで二人を包んでいた布を掛けたのだ。それは、紗羅の寝具でもあったものだ。

 紗羅の変わり身に驚いた。

 動転していたのかと思ったが、現状に気がついて取り繕うのも早かった。もう既に外に向けた顔になっている。乱れた寝衣をいつの間に整えたのやら。

 こうして、女王としての顔を保ってきたのだろう。

 だが……。


「では、夜に返しにくる。続きは、その時に」


 流緒が綿布を翻してみせると、紗羅の万人向けの女王の顔が崩れた。恥ずかしそうに頬を染める。

 時間はなかったのだ。だが、何と去りがたい事か。


「流緒様! 早く! もう廊下は通れません。庭を突き抜けます!」


 葉希の声が響く中、流緒は紗羅に口づけした。

 時間は刻々と刻まれてゆく。

 どこか遠くで小鳥の声が響いている。もう一刻の猶予もない。


「葉希……といいましたか? あなたにはお礼を言います」


 庭に流緒を引っ張って行く葉希に、紗羅は初めて言葉をかけた。


「あなたがいなかったら……私は時間も己の立場も忘れてしまうところでした。我が体内に流れる竜の血に抗えず……」


 後ろ髪を引かれるように、流緒は振り向いた。

 視線が絡み合う。一瞬――。

 紗羅は、廊下の柱にもたれ、そっと片手を振ってみせた。


 ――我が体内に流れる竜の血に抗えず。


 竜の血に怯えるのは、流緒だけではなかった。

 いや、もしかしたら……。

 人は、誰しも荒ぶる竜を内に秘めているのかも知れぬ。

 愛するが故に暴れる竜を。

 ひとつ間違えれば、愛する人を引き裂いてしまうだろう恐ろしい爪を。



 葉希が前を行く。人がいないことを確認して、合図を送る。

 その後、庭をこそこそと、流緒は進んだ。綿布を被って……である。何とも情けない姿だった。笑えてくる。

 いや、笑えたのは……。

 あまりに自然に紗羅とふれあえたからだ。


「葉希。私の想い人が紗羅だと気がついていたのか?」


「あら、あまりに当たり前のことを。そのようなことは、茶々でも気がついておりますよ」


 そう言われて、顔が熱くなる。もう言葉もない。

 どうして、こうも見抜かれてしまうのか? 人慣れしていないせいなのか。


「……はしたないまねをしてしまいましたが……うれしかったのです。お二人が仲直りされて」


「夜通っていたことさえ、知っていたのか? まさか、茶々まで?」


 思わず驚いて聞いてしまった。

 が、葉希は涙を流しながら笑った。


「まさか! あの子はまだ子供ですよ」


 そこまで笑われては、部屋に戻るまでに人に見つかってしまう。そして、この情けない姿を見られてしまう。

 葉希は目を細めた。後れ毛が朝日に透けた。


「私……廊下磨きの仕事をしているでしょう? 毎朝、人々が目覚める前に、前日の汚れをすべて落としますの」


 確か、以前にも聞いた事がある。だから、王宮で睡世に会えるのだと。


「以前は、流緒様の足跡が紗羅様の寝屋まで続いていました。誰もが気がつかなくても、私は気がついていたんです」


 沙地の国は雨季。夕方に激しい雨が降る。

 床を磨く者ではければ気がつかないような足跡が、雨の後に運ばれた砂で記される。


「でも……その足跡は、何度も途中で後戻りするようになって」


 まるで自分事のように微笑む葉希に、不思議な強さを感じる。

 睡世が、竜人の特徴を現しながらも、人らしく過ごせたのもこの葉希への愛からなのだろう。おそらく、二人で乗り越えてきたのだろう。

 流緒にも、乗り越えなければならないことが、たくさんある。

 

 部屋に戻ると、睡世が既にいた。

 流緒がいないことに、戸惑っていたらしい。流緒が葉希と戻って来たのには、さらに戸惑っていた。

 寝具を被った男と妻が一緒に戻ってくるのは、夫としては不安であろう。だが、睡世は目を一回転させただけで、いつもと変わらず振る舞った。


「今日も朝の礼の儀はやめにしますか?」


 先ほどまで、流緒の手の内にいた紗羅。彼女は、万人に微笑むのだろう。それを見るのは、とても辛い。


「いや、行く」


 流緒は即答した。


「紗羅を土夏の三男坊の異教の神官になど渡さない。それに……責任もある。王子としてのな」


 流緒は既に紗羅と体を重ねた。

 古の竜の種には力がある。竜神直系の血であれば、流緒とて同じ。紗羅を他の男に渡せば、おそらく母である美河王妃と同じ悲劇を与えることになろう。

 竜神のように、種だけ残しては去れぬのだ。

 体だけ結ぶ関係であってはならぬ。社会的にも、二人は夫婦とならねばならぬ。

 それが、紗羅に対する流緒の責任だ。

 それだけではない。

 流緒は貧民の生活を知った。

 竜人の力で、多比の母を救うことはできなかった。だが、沙地の国の王子であれば、このような悲劇を二度と繰り返さないようにできるだろう。

 紗羅が、常に流緒に望んでいたのは、そのような王子として日向に生きる流緒なのだ。

 もはや、岩屋の日陰で膝を抱えて泣いているような、竜人の子供ではいられない。


「わかりました。では、支度を……」


 睡世の声が、心なしか弾んで聞こえた。




=了=

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竜の爪は愛を知らず わたなべ りえ @riehime

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