竜の爪は愛を知らず・15


 青白い光がまぶたに落ちて、流緒は目覚めた。

 透かし窓の間から、紫の空が見える。薄明だ。朝が来る。

 慌てて身を起こす。

 陽は、これ以上高く上がると、流緒を殺してしまうだろう。だから、流緒の部屋は常に窓を閉め切っている。

 なぜ窓が開いているのだ? と思ったところで、やっといつもの朝ではないことに気がついた。


 隣に紗羅が横たわっている。

 横顔に、まだ生まれたばかりの朝の光が射し、象牙の肌を青白く染める。

 死んでいるのではない。流緒に寄り添うようにして、眠っている。

 一晩一緒に過ごしたが、殺さずにすんだ。その事実は、流緒をほっとさせたが、同時に恥じ入らせた。


 ……優しく……殺して……。


 紗羅の懇願が、荒ぶる竜に翻弄されていた流緒の心に、一点の波紋を投げ掛けた。紋はあっという間に広がって、やがて、布を裏返すように、心模様を塗り替えた。

 流緒のもうひとつの血――人である心の色に。

 紗羅は、まるで蛇の前に身を置く小鳥のように震えていた。殺したいという強い願望は、そのまま同じ力を持って、守りたいという願望に変わった。


 包み込んで、大事に大事に……。


「紗羅……怖がらなくてもいい」


 指先でそっと頬の涙を拭うと、紗羅はふっと小さく息をついた。気を受け取るように、そっと再び唇を重ねる。少しだけ堅さの取れた紗羅の体を、そっとたどってゆく。

 思えば何と狭い心なのだろう?

 紗羅は、強い心で流緒を常に信じようとした。だが、流緒は、紗羅を信じようとはしなかった。ひたすら疑ってかかったのだ。

 ただ唯一の人に応えてもらえぬと思った時から、ますます飢えた。飢えすぎて、殺すことも食い尽くすことも必要がないことに気がつかなかった。


 ただ、紗羅は――恐れていただけ。


 昨夜、流緒は、今までどうしても抑えきれなかった竜の爪の欲望を、紗羅への思いやりで抑え込んだ。

 度重なる乱暴な行為で、すっかり反射的に逃げてしまうようになった紗羅に、何度もささやいて懇願し、優しい愛撫を繰り返した。紗羅の体も、流緒の願いを聞き入れるかのように、緊張をほどいたように思えた。

 だが、残念ながら、もうひとつの欲望には敵わなかった。


 睡魔である。


 昨日は、朝から外に出ていた。越砂とは本気の打ち合いをした。汝水との話で取り乱して泣き、雨の中、必死の救出をした。そして、竜の力を使い、干良の言葉を聞いた。その後、やはり雨の中、ずっと紗羅の部屋の前で、立ちすくんでいた。

 王宮で暇つぶしのような日々を送っていた流緒にとって、充分に疲れ果てる一日だったのだ。

 殺すどころか……愛撫の途中で眠りに屈した。

 そして、何があったのか、一瞬思いだせないほどの深い睡眠。思いだした後は、恥ずかしさで焦げてしまいそうだった。



 かつて、流緒が朝まで紗羅のもとにいたことはない。

 これ以上陽が高くなると、窓を締めなければならない。布を深くかぶって部屋に戻る事になるだろう。朝の儀の為に、珠耶がやってくる。

 だが……。

 朝の光が勢いを増すにつれて、紗羅の頬の柔らかな色が際立つ。思えば、このような安らかな寝顔を見た事がない。

 去りがたくてたまらない。しかも、口元がかすかに動き、まぶたが揺れる今となっては。

 昨夜の続きがしたくなる。

 一度は、帰ろうと思った流緒だが、あっけなく誘惑に負けた。まだ、完全な目覚めのこない紗羅に、ついばむように口づけした。


「……兄様……」


 うっすらと開く群青の瞳。この瞳を、光の中で見たいと願った日々。

 それは過去のことだ。今は、流緒のそばにいる。


「おまえが欲しい」

「……え? ……ん」


 時間はない。朝の光は強くなる。

 紗羅は、まだまどろみの中だ。今ならば、まだ緊張をまとってはいない。やや乱暴に体を開いても、まぶしそうに手をかざすだけだ。

 流緒は光を避けて綿布に潜り込んだ。だが、それは別の目的もあった。白い布越しに光が透ける。滑らかな太腿を手で押し開いた奥、薔薇の花びらにも似た部分に舌をはわせた。


「あ……」


 ぴくりと、紗羅が反応した。

 朝の光の中、紗羅の体が桃に染まる。乾いていた花びらが、かすかに潤ってくる。布越しの影の中で、足りない分は流緒が補った。

 時間はなかった。


「……兄様」


 紗羅が恥ずかしそうに身をよじった。その横顔に布越しの影が掛かる。


「兄ではない。名を呼んでくれ」

「……流…緒…」


 名は途中で吐息に消えた。



 抗いはなかった。

 ただその瞬間だけ、流緒の手の中で紗羅の脚がかすかに痙攣し、つま先まで伝わった。

 実にすんなり――それだけで流緒は満足した。

 だが、肉欲とは不思議なもの。

 体を結んで揺れているうちに、再び邪な思いが戻ってくる。紗羅の息づかいが大きくなるにつれ、竜の荒々しさが、再び流緒を虜にする。

 布地は密室のように空気を閉じ込めた。くるりと廻した目に、紗羅の恍惚とした表情が映る。まるで、もっと激しさを求めているような……。


 なぜなのだろう? 守りたいものほど、自らの手で壊したくなる。

 紗羅の悲鳴が聞きたくなる。苦痛で歪む顔を見たくなる。

 どんどん欲に溺れて、流されてしまう。


 ――壊れる!

 流緒が欲望を解き放とうとした瞬間だった。



 ガシャーン! と、激しい音がした。


 禁断の愛を糾弾するかのような、破壊音――。


 二人が我に返るに充分な衝撃音だった。結びつきは一瞬にして解けたが、代わりにしっかりと抱き合った。 

 次の瞬間、誰かが扉をこじ開け、二人を引き離そうとするのか?

 だが、音はそれまで。外はしんとしていた。

 

 思えばもう朝だった。

 二人の秘密を隠す窓は開いたまま、日差しは強くなりつつあり、風は部屋を通り抜けていた。 

 紗羅はおびえていた。

 朝のまどろみの中、夢のように愛の行為にふけり、我を失っていたのだ。誰に批難されても、申し開きもできない。

 流緒は邪魔にすっかり気分を害し、脱ぎ捨てていた着物を羽織ると、光を気にすることもなく、扉に向かった。

 そして、少しだけ開け、邪魔者の正体を見極めた。


 ――思いもよらない邪魔者だった。


 驚いて扉を開け放った。

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