竜の爪は愛を知らず・14


 紗羅の浴室で風呂に入る。

 何ともおかしな気分だった。この湯の香りは、紗羅の髪と同じ。ごめんなさい……と謝っていたのは、残り湯だったからなのだ。

 紗羅を包んだお湯が、今は流緒の穢れを流している。

 ふと、意識が飛びそうになり、慌てて体を持ち上げる。思った以上に疲れているようだ。


「兄様、こちらに着替えを置きます」


 戸越しに紗羅の声が聞こえる。


「あ、ああ」


 間の抜けた返事をして、赤面した。



 風呂から上がると、新しい衣が置いてあった。

 今まで着ていたものは、泥に染まって捨てるしかないだろう。袖を通すと、体になじむようだった。

 だが、あまりの用意の良さに驚いてしまう。なぜ、男物の衣が紗羅の部屋にあるのだろう?

 部屋に戻ると、さわやかな香が薫きしめられていた。


 紗羅が冷たいお茶を用意してくれた。

 雨が降った分、今宵はじめりとしていて、空気が重い。新しい衣と冷たいお茶が、そして香の香りが気分を落ち着かせてくれる。


 流緒は、この部屋に通い始めた当初のことを思いだしていた。

 飛び出しそうになる心の臓を抑え、紗羅会いたさに通った渡り廊下。紗羅は、髪を下ろし、香を炊き、お茶を用意して待っていてくれた。

 それは、毎度変わらなかったのに、いつのまにか、流緒はお茶も飲まなくなり、香の匂いも忘れていた。

 紗羅を抱くというひとつの目的以外、何も見えなかった。

 ただ、己の欲望に溺れてしまって……。

 だが、紗羅は変わらずに流緒を待っていてくれたのだ。あの時も、そして、すっかり顔を見せなくなった今も。


「あ……いけない」


 突然、紗羅が顔色を変えた。

 その視線を追うと、流緒の茶碗を持つ手に行き着く。ふと気がつくと、袖口がややつっている。


「初めて仕立ててみたのです。どうもお裁縫は苦手みたい」

「紗羅が? これを縫ったのか?」


 驚きだった。忙しい女王の身で、その時間は取れぬはず。


「最初はなかなか進まなかったのです。でも……夜が長くて……」


 待って、待って……。

 切なくて。

 でも、いつかは来てくれると信じて。

 これが、縫い終わる頃にはきっと。

 それだけを心の支えにして。



 部屋の明かりは、煌々としている。透かし窓は開いている。重たい空気は、風となって流れ、月の光は窓の透かしを床に映し出す。

 今宵ならば、秘密はすべて漏れてしまうだろう。

 愛を知らぬ爪を出してはならぬ。

 袖の引きつりを直そうと、紗羅が流緒の衣に手をかけた。流緒は、慌てて手を払った。


「流緒?」


 紗羅の戸惑った声。

 でも、顔を見てはいけない。流緒の為に、軽く紅を引いた唇を見てしまっては……。


「駄目だ! 私に警戒もなく、簡単に触れるな!」


 限界を感じた。

 飢えた竜が体の中で暴れ始める。流緒は立ち上がった。


「私は竜人だ。おまえは、用心が足りなすぎる」


 ここまでもったのが不思議だった。いつもならば、もう荒ぶる竜の血に身を任せていただろう。

 確かに、このように肉欲に惑わされてはいるが。

 金の力に物を言わせて、女を抱くような男ではない。

 誤解は……されていなかった。それでいい。


 流緒は、扉に手をかけた。

 だが、その扉と流緒の間に、紗羅はするりと身を割り込ませた。


「用心など、いたしません」

「愚かな! どけろ!」


 苛々しながら、紗羅に手をかける。それだけで、危険だ。だが、紗羅はまっすぐに流緒を見つめた。群青の瞳から、涙が一筋。

 流緒のほうは、紅玉の目をくるくると忙しく動かしながら、紗羅から視線を外した。

 大事な妹……いや、大事な女だから、大切にしたいのに。

 殺してしまいたいほど、壊したいほど、激しく愛したい。いや、それでは愛とは言えない。


「殺されたいのか!」


 その言葉を吐き出す時、紗羅にかけた手を外し、必死に拳を握りしめて耐えた。爪が掌に刺さり、血が出るかと思うほどに。


「殺してください。それがお望みであれば」


 紗羅の口から、信じられない言葉が漏れた。

 くるくる忙しく廻っていた眼球が、ぴたりと止まって紗羅を見つめた。だが、目と目が合ったとたん、再び激しく廻りだす。

 動揺した。

 己の中に潜む邪心を、見透かされたような気がした。

 紗羅は、流緒の中に眠る殺気を、常に感じていたに違いない。


「何を……愚かしいことを……」


 ――殺したい。でも、殺したくない。だから……。


「愚かではありませんわ。兄様は、既に私の心を殺しかけているのですもの」


 紗羅の手が流緒の袖口の引きつりを引っ張る。その先に、血が出るくらいに握りしめた拳があった。

 その手を緩めてはいけない。だが。


「心を殺すなら、この身を殺して……」


 言葉を紡いだ唇が揺れる。紗羅はかすかに震えている。

 拳は開かれた。流緒の手は紗羅を引き寄せた。

 なぜ、この誘惑に抗えようか?

 艶やかな唇に唇を重ね、そのまま体を持ち上げる。心のどこかで警笛がなる。だが、激流に翻弄されるように、もう抑えが効かない。

 引き裂き、食い尽くしてもなお、満たされない欲望が、流緒を支配してしまう。

 そのまま抱きあげ、押し倒し、邪魔な帯をひたすら解いた。その間も、重ねられた唇の内で、二股の舌が舌を味わっていた。

 誘惑したのは、紗羅だ。

 しかし。

 流緒の指先が敏感な部分に触れた時、やはり紗羅は身を固くした。言葉とは裏腹に、流緒のすべてを拒絶するかのように。


 なぜだ? ならば、どうして?


 戸惑い、そして苛立ち。負の感情に押し流されそうになった時。


「……優しく……殺して……」


 震える声が、小さく耳元に響いた。

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