竜の爪は愛を知らず・13
いつの間にか、あたりは真っ白になった。
薄暗い貧民窟の家ではない。それに、多比をはじめ、あれだけ嘆き悲しんでいた人々の気配もない。
そこには、流緒と手を取っている干良しかいない。
――どういうことだ?
と思っていると、干良が目を開けた。
竜の力が解放されたのか? 流緒は、我ながら驚いた。
だが、干良はうつろな目を流緒に向けて、小さな声で言った。
「このまま静かに死なせてくれ」
「何を言うのだ?」
「あたしは、もう死んじまった。蘇りはいらん」
流緒は気がついた。
ここは死者と生者の境なのだ。
かつて、この場所で流緒はまどろみ、眠りについていた。だが、紗羅の呼ぶ声に目覚め、蘇ることができた。
だが、流緒には干良を呼び戻せる力はない。
「死んではならぬ! 多比が泣くぞ!」
だが、干良は寂しげに微笑むだけだった。
「あれは泣くよ。いい子だから。でもな、あたしが生きていると、あれの荷物になるばかり。あれに悪い事ばかりさせちまう。貧乏人はなぁ、悪い事をしないと、金を手に入れられねぇ。あたしはね、生きているのに金がかかりすぎるのさ」
仕方がないだろ! おいらには、母ちゃんの薬代が必要なんだ!
いつもチャラチャラいい布をかぶって歩く王子様のこと、少しくらい悪く言ったって、罰はあたらないだろ!
金のために、紗羅の前で嘘をついた多比。
その嘘のために、流緒は紗羅を失おうとしている。だが、流緒に怒りはなかった。
「荷物でも何でも、死んではならぬ! 多比のことを思うなら……」
「あれのことを思うから、あたしゃ死にたいんだよ。もう、助からぬ体だったからな」
「駄目だ! 駄目だ! 死ぬな!」
流緒は干良の手を握りしめたまま、悲鳴に近い声で懇願した。だが、その手はどんどん冷たくなった。
「あれのこと……お願いするよ。どうか、祟らんでやっておくれ。できれば、越砂たちのように、孤児でも幸せに……」
手の中で、すうっと命が消えてゆく。その感覚に、流緒は震えた。
「駄目だ……」
流緒の紅玉の瞳に涙が浮かび、くるりと廻るたびに頬を伝わった。
初めてあった人なのに、そうとは思えぬ悲しみ。身を引き裂かれるような痛み。
流緒は叫んでいた。
「駄目だ、駄目だ、私を置いて逝くな!」
――母様。置いて逝かないで……。
ふと肩に掛かった手の感触で、流緒は我に返った。
睡世である。ない眉をひそめて首を横に振っていた。その横で、葉希が両手で顔を覆い、座り込んでいた。
泣き叫んだのは、自分かと思った。しかし、声は子供のものだった。
「死なないで! 置いて逝かないで! 母ちゃん!」
多比が母親にすがって、泣きわめいていたのだった。
流緒は、雨に濡れていた。だが、頬を濡らしていたのは、涙だった。よろよろと立ち上がった。力がでなかった。
竜人の力でできた事は、最後の言葉を聞く事だけ。しかもそれが……死を望む言葉だったとは。
幼い子供を残して、母が死を望む。
この世は間違っている。
「……すまない。私には、何の力もない」
流緒の声に、葉希が立ち上がった。
「流緒様のせいではありません。これは、今日の雨のせいで……」
当然、祟りでも何でもない。
そう言いたかったのだろうが、多比を刺激しそうだと思ったのか、葉希の言葉は続きが出てこなかった。
「竜神様の力も、常に働くとは限らぬこと故。流緒様は、祈ってくださった。それだけで、干良さんも無事に神世にたどり着けるというものじゃ」
村人の一人が、葉希の言葉を引き継いだ。
しかし……。
流緒の気持ちは沈んでいた。
――この世は、間違っている。あまりに悲しすぎる……。
今日は、かなりの雨だった。
庭の樹々が葉を落とすほどの強い降り。だが、それも上がった。
気配を感じて、紗羅は戸を開けた。
闇があたりを覆い尽くす。誰もいない。何もない。
待ち人ではなかったのか……小さな息をひとつ、再び戸を締めようとして留まった。
庭の木陰に何か。
「兄様?」
樹々の葉が、もう少し残っていたら、気がつかなかったかもしれない。まるで滝にでも打たれたように濡れた流緒が、そこにいた。
返事はない。動かない。ただ、目を伏せ気味にして、じっとしている。
「流緒?」
紗羅は、部屋から廊下に出、そこから庭に降りようとした。
「駄目だ、近寄るな!」
小さいが鋭い禁止の命。紗羅の足は留まった。
闇に目が慣れると、兄の姿が尋常ではないことが見て取れた。雨に濡れただけではない。かなり泥だらけになっていて、これでは部屋に入れない。
「お待ちになって。お湯を用意しますから」
「いらぬ」
「いらぬ……って、でも」
紗羅が一歩近寄れば、木陰にますます隠れるようにして、流緒は身を引く。
「ただ一言だけ、言いたいことがあった。貧民窟通いの噂だが……」
紗羅は、昼間のことを思いだした。
珠耶が流緒の女遊びの証拠として連れてきた少年。その話を聞いて、身も凍るほどの震えが来た。
だが、それは……。
「その話は、もういいのです。それよりも、お湯を……」
「よくはない! お湯はいい!」
紗羅が戻ろうとすると、今度は流緒が一歩、二歩。やっと木陰から姿を現した。
灯籠の明かりに照らし出された姿に、紗羅は目を丸くした。間違いなくお湯が……いや、風呂が必要な姿だ。
「この一言、誤解が解ければ、私は戻る。だから、お湯はいらない。話を聞いてくれ」
「聞く必要はありません。お湯を用意します」
「紗羅!」
部屋に戻ろうとした手を、引き寄せられた。ほんの一瞬。流緒は、慌てて手を放すと、再び木の陰に隠れた。
「すまぬ。ただ……聞いてくれ。あれは……あの子供の話は……」
「わかっています。あれは嘘です」
紗羅の言葉に、流緒は詰まった。
睡世すらも振り切って、ただよろよろと雨の中を帰ってきた。紗羅の誤解を解きたい一心で飛び出した時とは違い、頭の中は様々な感情で混乱し、真っ白になっていた。
やっと王宮まで帰ってきたものの、紗羅に会う勇気がなく、庭の木陰で立ち尽くしていた。
そして、やっとどうにか言葉を繋いだのに。
「嘘? 嘘だと?」
紗羅は、かすかにうつむいた。灯籠に照らされた姿は、髪をおろしているせいか、どこかはかなげだった。
「幼い子が話すには、あまりにも……。大人が吹き込んだに違いありません。とてもかわいそうでしたわ」
「……では、おまえは」
多比の話を信じ、すべては珠耶の思い通りになったと思っていたが。
「元々、そんな噂は信じておりませんでした」
信じられない。
「でも……」
「どうして、心もない噂を信じて、兄様本人を疑うのです?」
そう言われてしまえば、そうなのだが。
だが、紗羅の顔には笑みがない。まるで影のように力が感じられない。
「お湯を用意しますから……そこでお待ちください」
「あ……ああ」
なんとも間の抜けた返事をして、流緒は紗羅を見送った。
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