充足
湯煙
充足
「ゲームセット アンド マッチ ウォン バイ 高橋。スコア イズ
焼け付くような日射しの中、ネット
――終わった。もうボールを追わなくて良いんだ。
少しの寂しさと、力を出し尽くせた満足感。
引退を決意したラストゲーム最後の五分。
痛み止めでだまして動かしてきた肘が膝が、若く全盛期の頃のように動けた気がする。
対戦相手が返してくるボールを、思い通りに打ち返すとき、コートの端から端へと振り回してくるボールに追いつくとき、俺の中には自信が蘇り、ボール目がけて振るラケットにも力が満ちていた。
――幸せだった。
これまでの努力が報われたと実感できた。
支えてくれた人達、応援してくれた人達……全ての人達への感謝と、この瞬間を手に入れるために二十年近くも続けてきたのだという確信に満ち、ボールを打ち返す俺の頬はきっと緩んでいただろう。
コートの匂いを忘れないようゆっくりとネットに近づき、対戦相手と主審に握手する。
疲れた身体をも記憶に残すようにベンチに戻り、ボトルを手にしてストローを咥えた。ゴクッゴクッと喉を鳴らし、胃袋から体中に染みていくスポーツ飲料も、これまでで一番旨く感じる。
タオルで汗を拭き、フウッと大きく息を吐く。
観衆の拍手がまばらに聞こえる中、ドクッドクッとまだ強く鼓動している心音に身を委ねる。
――負けて充実しているなんて、競技者として失格かもな。……でも、俺はやれた。怪我でも他の理由でもなく、俺自身の力で試合を完結させた。
明日からはもう次の試合へ向けたトレーニングすることもない。
対戦相手の研究することもない。
あるのは次の人生へ向けたあがきだろう。
慣れない生活に悩むに違いない。
だけどいいんだ。
俺は俺の手でこれまでの生活を締められたんだ。
勝利で締めくくれなかったことにも悔しさを感じていないのは、最後の五分のプレーが俺にとって最高に充実していたからだろう。
いや、最高のプレーができたと思いたいだけなんじゃないか?
ほんとのところなんかどうでもいい。
事実がどうだったかなんかどうでもいいんだ。
もう満足している。
次の人生へ向けた気力が湧いている。
新たな命を与えてくれた最後の五分。
これまでの全てを出しきれた五分だった。
自己満足かもしれない。
でも、いいんだ。
……俺はやり遂げた、そう思えるから……。
――この五分を俺は死ぬまで忘れない……。いや忘れられない。さぁ、胸を張ってコートを去ろう。そしてこの五分に恥じないよう次の一歩を踏み出すんだ。
充足 湯煙 @jackassbark
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます