灰色の聖女
朝めざめたとき、そこが三千階段のおどり場でなかったことに、わたしは心底ほっとしました。もう昨日はくり返さなかったのです。朝日はフォンモート山のいただきに降りそそぎ、わたしはその光に目を細めます。
天幕をかたづけると、わたしたちはすぐにこの山をおりました。きのう、二度も戦った魔王グラニコスの遺体のそばからすぐにはなれたかったからです。
三千階段のくだりの道のりは、心なしか速いように感じられました。あたりに生えているのがトゲだらけの針のような木々から、ゆたかに葉をしげらせる幹のふとい木々へとかわっていきます。一歩まえへ進むたびに、わたしたちは人の世界にちかづいていきます。
「さて、そろそろおわかれの時間だね」
アルドが目のまえの標識をみつめながら言いました。
フォンモート山のふもとのこの場所から、道は三つにわかれています。
東へむかう道は、わたしのふるさと、アルバスカへとつづいています。西への道をたどれば、ゼノスの出身地のヴィルサス王国にいきつきます。そして北へとつづく道は、あらあらしい自由開拓民の集落をへて、永久氷壁までのびているといわれています。
「ゼノス、あなたはこれからどうするの?」
そう、わたしはきいてみました。一緒にいるときはいつも偉そうなゼノスとも、わかれるとなると妙にさびしい気持ちがこみあげてきます。
「グラニコスの首をおいてきた以上、ヴィルサスにもどってもしょうがねえ。北にでもむかうさ」
「開拓民の仲間になるってこと?」
「いや、どうせなら行けるところまで行ってみたい。北の果てには、氷づけにされた毛むくじゃらの象がいるっていうからな。あいつが牙カモシカよりうまいかどうか、最初にたしかめる男になってやる」
「人間同士で争うより、だいぶ健全な目標だね。あとで冒険記を読ませてもらえることを期待しているよ」
アルドが言うと、ゼノスは白い歯をみせて笑いました。
「ノーラは、アルバスカの大樹海にすんでいる魔法使いさんのところに行くことにしたよ。アルドに紹介状を書いてもらったから」
「その人、どんな人なの?」
「ぼくの古い知り合いでね、動物学の研究に打ちこんでいるんだ。彼女なら、ノーラを悪いようにはしないはずだよ」
「まさか、ノーラを魔法実験に使うわけではないよね?」
「彼女にとって獣人は実験対象ではなく、交流の相手だよ」
「なら、いいけれど」
ノーラがうれしそうに尻尾をふっているので、わたしはそれ以上は心配しないことにしました。
「トグリル、行き先は風にきく」
人さし指を空にむけ、しばらく風に耳をすますと、やがてトグリルは西を向き、そのままためらうことなく歩きだしました。
「あいつ、最後までよくわからんやつだったな。ま、いいか」
一度もふり返ることなくさってゆくトグリルの背中をみつめるゼノスの目は、おだやかな光をたたえています。トグリルの姿がみえなくなると、ゼノスも北へと大股で歩みはじめました。
「じゃ、ノーラは大樹海にむかうよ。みんな、またね!」
ノーラは元気に駆けだしましたが、なんどもこちらをふり返っては大きく手を振ります。それでも、やがて獣人の少女のすがたは深い森のなかに吸いこまれていきました。
「さて、ぼくたちだけが残ってしまったね、リズ」
アルドは少しさびしそうな顔をしながら、わたしに向きなおります。
「あの、アルド、ひとつききたいことがあるんだけれど」
「なんだい?」
「アルドのささげた
「ああ、そのことか」
アルドは表情を引きしめました。
「答えはこれだよ」
アルドはおもむろにメガネをはずしました。その下からあらわれたのは、白くにごった瞳です。
「アルド、その目は」
「そう、ぼくが魔神にささげたのはこの視力だよ。なまじ目がみえていると、人はよけいなものまで見てしまう。それに……」
「それに?」
「ぼくの瞳は、邪魔だったんだよ。ぼくがまだ十六のとき、ぼくの村をおさめる公爵の娘さんが、ぼくの瞳に一目ぼれしたんだ。彼女には婚約者がいたというのに」
「その婚約者さんはどうなったの?」
「彼女は婚約者に、あなたひとりの価値はアルドの片目にもおよばない、と言ってしまった。ぼくは怒りくるった婚約者に殺されかけたけれど、魔神にこの目をささげることでどうにかゆるしてもらったよ」
「……ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまって」
「いや、いいんだ。いくらすんだ湖面のようだとか、磨きあげたラピスラズリみたいだとかいわれたところで、争いのもとになるような瞳なんかいらない。そんなものは魔力と交換してしまえばいいと思ったんだよ」
アルドはてらいもなく、そう言ってのけました。
「でも、魔術師教会から除名されてしまうのはたいへんじゃない?」
「まあ、楽だとはいえないね。協会を通した依頼はうけられないし、公職にもつけなくなる。でも、魔法も学問もどこにいても学べるものだからね」
「そういうものなのかな……」
「で、きみはこれからどうするの、リズ?」
わたしが、アルドのようにしっかりした人になるのはむずかしそうです。でも、もうわたしの答えはきまっていました。
「わたしは、ヴィルサスにむかおうと思う」
「それは、アルバスカではもう受けいれてもらえないから?」
「それもあるけど、ゼノスがどこに行ったのか、知りたい人も多いと思うから。あの国に行こうとしてるのはわたしだけみたいだし」
「ヴィルサスでも、『神の嫁』として人びとを癒すつもり?」
「いいえ、それはもうしない。わたしはもう、この力にはたよらずに生きていくよ」
「もう癒し手であることはやめるのか」
「ええ、これからは語り部をはじめるつもり。わたしたちが今日までなにを見て、なにを考えたのか、それを伝えていきたい」
「それは簡単なことではないけれど、やりがいのある仕事かもしれないね」
アルドは微笑をうかべると、なんども大きくうなづきました。
「じゃあ、ぼくたちもそろそろここでお別れだね」
アルドは
かれが呪文をとなえると、編みこまれた紋様がひかり、わずかに宙に浮きます。
「ああ、そうそう、これはきみにプレゼントするよ」
絨毯のうえにのると、アルドはわたしにメガネを手渡してきました。
「でも、これ、大事なものなんじゃないの?」
「ぼくにはもう必要のないものだよ。これをかければ善性をもつものと魔性をもつものを見分けられるんだけれど、もう魔物のいない世界では魔性のオーラをもつものがいるはずがないし、もっていても意味がない」
「でも、善いひとは見分けられるんじゃない?」
「純粋な善性のオーラの持ちぬしなんて、めったにいるものじゃない。善性のオーラはそのメガネをかければ白く光ってみえるけど、そんなものをもつものがこの世界にいるとは思えないね」
「魔性のオーラはどんなふうにみえるの?」
「インクでぬりつぶしたような黒だよ。グラニコスなんて、大きな影が動きまわっているようにみえた」
わたしはほっと息を吐きました。もう、あの魔王にもお目にかかることはありません。
「これでもう、『灰の時代』がくることもないんだよね。ほんとうによかった」
「さて……それはどうなのかな」
なぜか、アルドは表情をひきしめました。
「でも、グラニコスはもういないんだから、世界はもう魔王の炎で灰にされてしまうことはないでしょう?」
「それはそうだね。でも、テメレアの預言はいろいろな解釈ができると思うよ」
「じゃあ、どう解釈すればいいの?」
「それは自分で考えてみるといい、リズ」
アルドはくるりとわたしに背を向け、絨毯のうえにすわります。すると、すべるように足もとの絨毯がうごきはじめました。ふと思い立ち、わたしはアルドの残したメガネをかけてみました。
「機会があれば、ぼくたちはいずれまた会える。そのときまで元気で」
そう言い残して南へ飛びさっていくアルドを、わたしはメガネごしに見つめています。かれの姿は、アルバスカの冬の空のような灰色でした。善性と魔性のあいだにある、灰色。アルドの見ていたわたしも、きっとあんな色だったのでしょう。
(これが、灰の時代なんだ)
魔王も勇者もいない、灰色の存在ばかりの世界を、わたしは生きていかなければならないのでしょう。善と悪のさかい目は、ひどくあいまいになりました。もうだれも、対決すべき敵や、乗りこえるべき課題を、わたしに教えてはくれません。
(でも、それでいい)
私はメガネをはずすと、ふところから
わたしはそのかけらを強くにぎりしめ、空をみあげました。この空の下のどこへでも、わたしは歩いていくことができる。鉄の時代の、さいごの生き証人として。そして、灰の時代のさいしょの語り部として──
◇
けたたましいニワトリの鳴き声で目をさましたわたしは、そこまで原稿を書いて、机につっぷしたまま眠ってしまったことに気づきました。これでようやく序章が終わりにさしかかったところです。ここから先は、ヴィルサスとアルバスカが和平を結ぶまでの、長い歴史を書かなくてはいけません。私は大きくのびをすると、窓をあけました。
地面に、四角い影がおちています。これはなんだろう、と首をかしげていると、頭のうえからなつかしい声がふってきました。
「リズ、作家の仕事ははかどっているかい?」
目のまえに、絨毯のうえに立つアルドの姿がありました。私はうわずった声でたずねます。
「アルド、なぜここがわかったの?」
「アルバスカの軍師は、大陸中に目と耳を持っているんだよ。この宿を探しあてるなんてわけもない」
「軍師様がヴィルサスの田舎町にまで、なんのご用かしら」
「そんなに他人行儀なことをいわないでほしいね。長い戦争がおわって、ぼくもようやく休暇をもらえることになったんだから」
「会いにきてくれてありがとう。……でも、ただわたしの顔を見にきたわけではないんでしょう?」
「そうだね、実はきみの仕事に協力できることがあるんじゃないかと思って」
アルドはわたしをまっすぐに見すえ、言葉をつづけます。
「ぼくはアルバスカの軍師として、ヴィルサスとの和平にこぎつけるまで、ずいぶんと骨を折った。政治の裏がわも、いろいろと見てきている。この経験が、きみの執筆活動の役に立つんじゃないかと思ってね」
「アルバスカの内情を教えてくれるの?それは助かるけれど、アルバスカだけに都合のいい内容は書けないからね」
「もちろん、それはわかっているよ。戦争に、どちらか一方だけが正しいなんてことはない。なにしろ、ぼくたちは……」
アルドはつばの広い帽子をぬぐと、自分の頭をゆびさしました。
「この時代を生きぬいてきたんだからね」
かれの頭髪は、灰色にそまっていました。アルドの髪がこの色にかわるまで、戦争はつづいたのです。かれの、ここにいたるまでの物語をきかせてほしい──そう思いながら、わたしはアルドのやせほそった手をとりました。
魔王のいない朝がくる 左安倍虎 @saavedra
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