五日目~最終日。そして

 僕たちは人混みを抜けても手をつないで歩いた。僕の反対側の手は静香さんの荷物を持っている。静香さんの反対の手ではヨーヨーがバシュバシュ叩かれたり休んだりを繰り返している。

 今夜は蝉の声がしない。人の流れも途絶え、僕らだけを残して世界が終わってしまったみたいだった。そんなわけないのに、ちょっぴり怖い感じがする。でもまあそれでもいいかと思ったりもする。

 僕も静香さんも無言で歩いた。バシュバシュ叩かれている青いヨーヨーは僕の心臓かもしれなかった。


 カーテンを閉めずに出かけたリビングは、月明かりと街灯のあまりものみたいな弱い光で、うすぼんやりと明るかった。先にリビングに足を踏み入れた僕は、なんとなくその曖昧な薄闇を失いたくなくて、明かりをつけずに静香さんの荷物をテーブルに置いた。封筒は裏返して置いた。

 ソファに腰を下ろすと、静香さんが薄闇の中をゆっくりやってきて、隣に座った。

 僕がいる時に静香さんがこのソファに座ったのは二度目だ。


 ピチャピチャとミルクが水を舐める音がしていた。しばらくすると、音がやみ、脛をふわりとしたものが撫でていった。鳥肌が立ったが、不快ではなかった。静香さんの足元にも体を擦りつけて通り過ぎたらしく、くすぐったそうなクスクス笑いが聞こえた。


「ねえ……」


 ヨーヨーを両手で包み込んで静香さんが言った。


「ん?」


「お姉ちゃんたち、明日帰ってくるよ」


「そう、なんだ?」


「だから、ペットシッターは今夜でおしまい」


「ふうん」


 持ち直されたヨーヨーがギュッと鳴いた。


「で、あんたはどうすんの?」


「僕?」


「家出中だってこと、忘れてるの?」


「まさか。……たぶん答えは出てる」


「そっか。ならいいんだけどね」


 しばしの沈黙の後、身じろぎする気配がして、肩に重みがかかった。ヨーヨーがまたギュッと鳴った。

 やっぱりそれは僕の心なんだと思う。だって、そんな風に押されるから想いが絞り出されてしまった。


「――なんで結婚するんだよ?」


 封筒の表面には僕でも知っているホテル名にブライダルという文字が並んでいた。この前の電話では、打ち合わせだの、席次表だの、ウェディングドレスの試着だのといった言葉が聞き取れた。仕事を辞めたばかりと言っていたのも、結婚と関係あるのかもしれない。


「なんでって……好きだから、かな」


「本物の恋を知らないって言ってたくせに?」


「……よく覚えてるね。やっぱ、めんどくさいね、あんた」


「ありがとう」


「褒めてないよ」


 わかってる。こんなこと、言ってもしかたないって。だけど、僕の心臓はさっきから握られているから、躊躇う前に言葉が漏れてしまう。


「本物じゃないのに、なんでそんな結婚するんだよ?」


「なんで結婚しちゃだめなのよ?」


「……」


「ま、いろいろあんのよ、大人はさ。もちろん相手のことは嫌いなわけじゃないよ。好きだよ。うん、そうだね、好きだ。付き合いたいと思うくらいにはね。でも――」


 肩が軽くなる。静香さんはまっすぐ僕を見ていた。僕の心臓を握ったまま。だから僕は吸い寄せられる。

 静香さんが、息遣いが伝わるほど近くで囁く。


他人ひとんちでそういうことするの、どうかと思うよ?」


「他人んちじゃなかったらいいの?」


「――さあね」


 僕は、溜息と共にソファの背に深く寄り掛かった。どうせ僕は意気地なしだ。


 バシュバシュ……バシュバシュ……


 ああ、そうか。青いヨーヨーは僕の心臓ではなかったんだ。僕のはオレンジ色のヨーヨー。グルグル漂っているだけの、貰われなかったヨーヨー。


「夏祭り、ちゃんと連れていけなくてごめん」


「ううん。楽しかったよ」


「――ねえ、静香さん。夏を好きになった?」


 見つめ合う。

 静香さんが微笑んだ。最高に綺麗だ。


「そうね。好き。とっても好き。理由はわからないけど、ワクワクするの……うそ。やっぱり嫌い。大ッ嫌い」


「そっか。大嫌いか」


 その言い方はなんだかとっても静香さんらしい気がして、僕は楽しくなって笑った。笑う僕を見て、静香さんも笑いながら言った。


「大嫌いよ――あんたと出会った夏なんて」


 真夏みたいなくせして、そんなことを言った。


 ――明日、家に帰ろう。そう決心した。






 朝早くから、ふたりで家中を丁寧に掃除した。

 その後、静香さんはミルクにごはんをあげ、トイレ砂を掃除し、ブラッシングまでしてあげていた。その間に僕は簡単な朝食を用意して、ふたりで食べた。

 一通り準備が終わると、静香さんは荷物を取りに二階へ上がって行った。僕は和幸さんに留守中世話になったお礼と、自宅へ帰る旨をメモ帳に記してテーブルに置いた。

 そういえば、と今朝の一連の動きを思い起こしてみる。自然に動いていたことに気付いた。生活導線がぶつからなくなった。呼吸が合ってきたのだろうか。馴染んできた気がする。

 ああ、これが一緒にいるってことなんだ、と思った。

 互いの動きが重ならないことが、呼吸が重なること。

 ふたりの呼吸はもう溶け合っていた。だからきっと、離れたら呼吸は半分しかできなくなる。


 一緒に駅に向かう。今日もまた盛大に晴れている。日射しは攻撃的に照りつけ、蝉も狂ったように喚いている。どうしようもないくらいに夏だ。

 だけど、静香さんは前みたいに日陰を求めてフラフラ歩いたりはしない。夏だってことを忘れてしまったかのようにまっすぐ歩いていく。


 隣を歩く僕との距離はヨーヨー一個分。触れそうで触れない。触れてはいけない。けれど腕を振るたびに、かすかに空気の揺れを感じる。気のせいかもしれない。気のせいに違いない。


 どれほど強い想いでも伝えられないことがある。伝えてはならないことがある。

 相手に求める言葉など口には出せない。困らせたくはない。

 いや。違うな。怖いんだ。ごめんね、無理、と返されることが怖い。

 相手も同じ想いでいてくれるなんて、とてもそんな楽天的に考えられるものか。



 駅に着いても静香さんは足を止めず、ICカードをタッチして改札を抜けていく。それに続こうとした僕は、パスケースを見つけられないでいた。あたふたとあちこちのポケットを漁る。それでも見つからず、リュックの口を開く。探し物とは違うものを見つけて、急に泣きそうになった。


 見れば、静香さんはホームへ続くエレベーターのボタンを押したところだった。

 気持ちが一気に噴出した。考える間もなく、僕は叫んでいた。


「静香……!」


 静香さんがびっくりした顔で振り向いた。それから、ゆっくりと……すごくゆっくりと笑顔になった。目元が光った。


 ――涙? いや、汗だ。きっと汗だ。


 光って流れる。


 エレベーターが到着した。扉が開く。


 一歩、こちらに踏み出そうとしたつま先を見て、僕は急に怖くなった。


 なにを……なにをしてるんだ、僕は。


 慌てて付け足す。


「……さん」


 静香さんの足が止まる。


 悲しそうな顔に見えるのはきっと気のせい。

 だって、彼女はすぐに真夏の笑顔になって手を振った。


「バイバイ……少年!」


 エレベーターが静香さんを連れ去った。



 僕は踵を返した。電車に乗るのはやめだ。歩けるところまで歩いて帰ろう。

 太陽は高く昇り、日射しは責めるようにますます強く降り注ぐ。


 ああ、そうさ。僕は臆病者だ。




 アブラ蝉の声に交じってツクツクホウシの鳴き声が聞こえた。


 最高で最低の夏が終わろうとしていた。




     *




 夏のツケが回ってきて、僕の机の上には参考書やら問題集やらが乱雑に積み重なっている。模試の結果表を丸めて放り投げたが、ゴミ箱目前で失速し、床に転がった。


 立ち上がり、拾い上げて、ゴミ箱に落とす。


 机に戻ろうとしたらカナカナカナと涼しげな声がした。窓辺に向かう。


 たぶんこいつが今年最後のヒグラシ。誰かに出会えただろうか。出会えたなら、ちゃんと別れを告げたのだろうか。物憂げな声はどちらとも答えはしない。


 秋の虫も鳴き始めている。

 たなびく雲は朱色を帯び、風は穏やかな涼しさで通り過ぎていく。


 はらりと二枚の紙が机から落ちた。

 そっと拾い上げる。


 一枚は、恥ずかしがるお母さんを説得して撮らせた結婚写真のスナップ。一緒にいたい人といられるのならばそれに越したことはない。きっとそれは当たり前のことなんかじゃないから。

 母親の夫が僕の父だという自覚はまだない。でも生活導線がぶつからなくなってきた。だから、まあ、そういうことだ。


 もう一枚も新郎新婦の写真。こっちはハガキだ。「結婚しました」の文字の下で笑う花嫁は幸せそうだった。しなびて小さくなった青いヨーヨーのなれの果てと一緒に、静かにゴミ箱へと落とした。



 僕の大好きな夏が、終わった。





      * fin *

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夏がキライな君のコト。 霜月透子 @toko

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