五日目

 翌朝、僕たちは何事もなかったように和やかな朝食をとった。静香さんにとっては本当に何事でもなかったのかもしれないが、僕の中にはモヤモヤしたものが渦巻いていた。


 静香さんはミルクにごはんをあげた後、ちらりと時計を見て、慌てたように二階に向かった。降りてきた時にはバッグとあの封筒を手にしていた。


「ちょっと出かけてくるわ」


「え。だって、夏祭りは?」


「夜までには帰るから平気。健人くんもさぁ、こもってないで一度家に帰ってみたら? ただ家を留守にしているだけじゃ、なんも解決しないじゃん」


 そう言って、僕の肩をポンポンと叩いた。とっさにその手を払いのけると、静香さんはきょとんとした顔をした。僕だって驚いている。考えるより先に払いのけてしまったんだ。


「えっと……」


 なんとか言い繕おうとしたが、言葉が浮かばない。すると、僕より先に静香さんが口を開いた。


「あのさぁ、健人くんさぁ。言いたいことあるなら、はっきり言いなよ。感じ悪いよ?」


「いや、僕は……」


「私はこれでもさ、あんたのこと心配してるんだよ。家出の原因もそうだし、宿題や予備校のことだって。やることはちゃんとやっておいた方がいいと思うんだよね」


 ここのところ、僕はどうかしている。静香さんの言葉や行動に反応しすぎだ。自覚はある。自覚はあるけれど、どうもできない。その感情の処理の仕方を僕は知らない。


「どうせ僕はやることやらないダメなやつだよ。それにひきかえ、静香さんはさ、実は真面目だよね。酒も煙草もやらないし」


「はあ? あんた、いったいなんの話してんの? それにね、そういう考え方やめな。たしかに私は酒も煙草も興味ないけどさ、それってただの好みの問題じゃん? そういうの、よくないよ。酒も煙草もさあ、べつに犯罪でもなんでもないんだよ?」


「禁止されてなきゃやっていいのかよ」


「極端だね、あんた。そりゃあものによるだろうけどさ。少なくとも酒、煙草は問題ないじゃん。そのくらいはわかってるよね? どうせただのイメージなんでしょ? 自分のものさしで計らないってダサいよ」


「『ものさし』とか古臭い言い方だな。さすがオトナだ」


「うっさい、ガキ。そうやって重箱の隅つっついてくるところが子供だって言ってんの!」


「暗闇と雷を怖がって擦り寄ってきたやつが偉そうに言うなよ!」


 しまった、と思った時には遅かった。僕の不用意な言葉は、静香さんの耳に届いた後だった。


「え……もしかして……あの時、起きてた、の?」


 静香さんの声のトーンが落ちた。


 どうしよう。今更、取り繕えない。方向を間違えたまま進み始めてしまって、僕はもう引き返せない。

 目を逸らしたまま黙っていたら、玄関のドアがバタンと閉まる音がした。






 かすかに祭囃子が聞こえた気がして、外に出てみた。日はまだ高く、喚くような蝉の声の向こうから笛や太鼓の音がとぎれとぎれに漂ってくる。風向きによって聞こえたり聞こえなかったりしているのだろう。

 人の往来がある。子供たちのはしゃぎ声や笑い声、草履を擦って歩く音やおもちゃの笛の音。舗装された道路なのに人通りがあると少し埃っぽい匂いがした。それとも夏の匂いなのだろうか。夏は他の季節と違って、どこか人工的な匂いがする。

 親子連れが目立つが、中学生グループや、夫婦と思われる年配の二人組などの姿もある。


 ふと、父親のことを思った。かつてはおそらく一緒に暮らしていたであろう男性のことを。幼いころから興味はない。もしかしたら、今、この瞬間が今まででいちばん「父」のことを考えているのではないだろうか。

 僕から見れば「父」は父だ。だけど、お母さんから見たら夫だったわけで、その前は恋人だったはずだ。あたりまえのことだけれど、それは大きな発見にも感じられた。

 どうして別れたのかなぁ。喧嘩別れじゃないといいな。楽しそうに行きかう人の流れに、なんとなくそう思った。


 リビングに戻るとエアコンが効いていてひんやりした。僕は窓を開けていればそれでいいのだが、ミルクのためにエアコンはつけっぱなしにしておくらしい。なんでも猫は汗をかけないから体温が上がりやすいとか。あんな毛だらけじゃあ暑かろうと納得する。


 ピチャピチャと音のする方を見ると、ミルクが自分の皿から水を飲んでいた。


「おまえは食って寝るだけで好かれるんだからいいよな」


 ミルクは僕の言葉を一生懸命理解しようとするかのように、じっと目を合わせていた。


 ここ数日で気付いたことがある。ミルクのことを見ていると眠くなるのだ。なぜだかわからないし、ミルクに限ったことなのか、猫全般のことなのかもわからない。猫は苦手なはずなのに、絡まっている頭の中がほどけていくような感じがして、緩やかに眠りに落ちていく。ミルクからなにかしらの成分が漏れ出ているのかもしれない。そして僕の意識は溶けていった。




 目が覚めた時には真っ暗だった。明るいうちに眠ってしまったため、電気もついていない。家の前の道を行く人たちの話し声が耳に届いた。みんな帰るところらしく、声は神社とは反対方向へと流れていく。

 はっと飛び起きた。


 ――静香さんが帰ってこない。


 やっぱり怒らせてしまったよなあ……。しかも、あの晩、起きていたと告げたのはまずかったか。

 いや、まてよ。鍵は僕しか持っていないじゃないか。

 実は帰ってきたもののチャイムに反応がなくて、明かりもついていないから留守だと思ったのかもしれない。

 もしそうだとしたら……?


 僕は家を飛び出した。

 静香さんはひとりで夏祭りに行ったのかもしれない。


 僕は人波を辿って神社へ向かう。行く人、帰る人の流れは入り乱れ、気ばかり急いてなかなか先へ進めない。

 アスファルトは、日中激しく焼かれた熱を蓄えたままで、足に絡みつくように熱さが立ち上ってくる。神社に近づくにつれ夕闇が深くなる。


 それほど大きな神社ではない。短い参道には隙間なく出店が並び、通り抜けるには泳ぐように人をかき分けて進まねばならなかった。

 左右に静香さんの姿を探しながら、境内へと向かう。手水舎の脇にある駐車場では櫓が組まれ、盆踊りが催されていた。町内の役員と思われる揃いの浴衣を着た中年の女性たちだけが輪になって踊っている。境内には本部と書かれた白いテントに数人の大人たちがいるだけだった。


「来てるわけないか……」


 声に出して呟いた。


 いくら夏祭りに来たがっていたからって、あんな出かけ方をしたのだから自宅に帰ったに決まっている。どうして会えるだなんて思ってしまったのだろう。


 再び参道の人混みに飛び込もうと身体の向きを変えた時、視界の隅に意識が引き留められた。祭りの明かりが届かない賽銭箱の陰に、座り込む人影があった。静香さんだった。

 そこにはふたりの若い男もいて、両側から静香さんの肘を取って立ち上がらせようとしていた。親切で立たせているわけではなさそうだった。かといって静香さんが抵抗している様子もない。


 僕はゆっくり近づいていった。不思議と怖いとは思わなかった。怒りに似た不快感が勝っていたせいかもしれない。

 賽銭箱の前で足を止めると、男たちは振り向き、静香さんは気怠そうに顔を上げた。


「……よっ!」


 手を上げる勢いで缶ビールを掲げるものだから、中身が少し飛び散った。


「なにやってんの」


 静香さんに声をかけたつもりだったが、男が口を開いた。


「ん? 大丈夫、大丈夫。ちょっとね、酔っちゃっただけだから」

「そうそう。気にしないでいいよ~」


 まるで知り合いであるかのような口ぶりだ。

 遠目に見た印象は合っていたらしい。こいつら、よくない連中だ。


「へ~。そうですか、ありがとうございました。あとは僕が面倒みますから」


「はあ? なに言ってんのガキが」


「俺らの知り合いだって言ってんじゃん」


 静香さんにどんな友達がいるのかなんて知らない。だけど、絶対にこいつらは違う。僕は静香さんの正面に立った。


「お姉ちゃん。帰るよ」


 右手を差し出すと、静香さんは缶ビールを地面に置いて、僕の手を握った。


「お迎え、ご苦労!」


 なんだよ本当に弟かよ、とかなんとか、男たちはぶつくさ文句を垂れながら、つまらなそうにその場を去った。

 右手は静香さんの手を握ったまま、静香さんの抱え込んでいたバッグと封筒を左手で持ってあげた。


「で、なにやってんの、『お姉ちゃん』?」


「ん~? ひとりでお祭りにきてぇ~、ひとりでビール飲んでたぁ~」


「酒、飲めたのかよ」


「飲めるよお。オトナだもん」


 静香さんは完全に酒に飲まれている口調で言った。

 それから、つないだ手をグッと引っ張って「で、なんで『お姉ちゃん』なわけ?」と聞いた。


「だって僕たちの間柄って、説明するのめんどくさくない? 僕の叔父とこの人のお姉さんが夫婦なんですって……わかりにくいよ。」


「たしかに。でもそれなら『恋人』でもよかったんじゃない?」


 驚いて顔を見た。静香さんはそっぽを向いて笑っていた。気の利いた冗談でも言ったつもりなのかもしれない。

 僕もそれに乗ってみる。


「……そう、かな?」


「そう、だよ」


 嘘と本当の狭間で、互いの視線が出会った。


 そう、なのか――。


 心にポッと明かりが灯る。

 今朝、僕に背を向けた理由は、あの晩、僕が起きていたことではないのか。静香さんが起きていと僕に知られたことが理由だったのか。


 しばし真顔で見つめ合った後、同時にフッと笑う。

 笑っておけば冗談にできる。壊れるかもしれない「本当」に飛び込むには勇気が足りなかった。

 静香さんも同じ想いだと強く感じる一方で、それさえもすべて僕の勘違いなんじゃないかという不安も同じ強さで揺蕩っている。


 参道の人混みではぐれないようにだろう、静香さんは手をつないだまま腕にしがみついてきた。

 そう、間違えてはいけない。大人の女性がすることだ、けして特別な意味などない。こんなこと、なんでもないに決まっている。

 互いの肌が汗ばんでペタペタする。人波に押され僕らの密着具合が変化するたび、吸い付くような感触がした。

 出店を覗くこともないままにただ足を進めた。イカ焼きやお好み焼きの匂いが熱っぽい空間にこもっている。輪投げやスーパーボールすくいの店先には子供たちが群がっている。

 参道を抜けると、急に日常の空気へと吐き出された気がした。


「あっ」


 静香さんが小さく声をあげ、足を止めた。視線は一番端の出店に向いている。端っこだからだろうか、店先に客は一人もいなかった。水槽の中をカラフルなヨーヨーがゆったり流れている。


「あれやろう」


 そう言うと同時に、静香さんは出店のおじさんにお金を払って釣り紙を受け取っていた。そして振り向いて僕に差し出す。


「はい」


「え? 僕がやるの?」


「そうよ。オレンジ色のにしてね」


 ヨーヨー釣りなんて何年振りだろう。

 慎重に輪っかを狙い、針を引っ掛けたが、ヨーヨーは一度も水から離れることなく、流れていった。


「あ……」


「あーあ。早すぎだよ」


 針のないこよりだけが手元に残った。

 おじさんが残念賞でくれたのは青いヨーヨーだった。

 静香さんは子供みたいにヨーヨーをバシュバシュ叩きながら「本当は青いのが欲しかったんだよね~。ラッキー」と笑った。

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