四日目

 目が覚めた時、既に日は高く、窓は閉め切られてエアコンがついていた。テーブルに向かっていた静香さんがふと顔を上げた。


「あ。健人くん、おはよ。停電、直ったよ。よかったね。あとね、これ見て。回覧板にね、ほら、これ」


 静香さんは僕が挨拶を返す間も与えない勢いで話しかけてきた。あくびをしながらテーブルに近づくと、昨日投げ出した回覧板が開かれていた。


「夏祭りがあるんだって。ねえ、この神社、知ってる?」


 覗きこんだら、明日の日付の下に大雑把な地図が載っていた。


「うん、知ってる。すぐ近くですよ」


「へえ、そうなんだ~。楽しそう~」


「夏は暑いから嫌いなんじゃなかったっけ?」


「夜に行けばいいじゃん。夏祭りなんて子供の時以来行ってないなあ」


「夏祭りくらい行くでしょ」


「……」


 また、君は少年だから、と子供扱いされるかと思ったが、静香さんは微笑んで首を傾げただけだった。


「……じゃあ、明日の夜、僕と一緒に行く?」


「うん! 行く!」


 やったあ、楽しみ、とはしゃぐ静香さんは僕よりよっぽど子供みたいだった。



 午後から用事があるという静香さんと一緒に駅に向かって歩いた。

 今日もまた街には蝉しかいない。日射しの下を静香さんと並んで歩くのは不思議な気分だった。正確には

並んで歩いていたわけではない。


「暑い~。溶ける~」


 静香さんは文句を言い続け、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、街路樹の木陰や、建物の影を渡り歩いていたからだ。


「そんな風に歩き回るから余計に暑いんじゃないの?」


「だってぇ~。日に焼けたくないんだもん」


「だったら日傘とか」


「晴れているのに傘なんて邪魔じゃん」


 物事の価値基準がさっぱりわからない。もしかしたら文句を垂れるのが好きなだけなのではないだろうか。


 今日こそは忘れずに家の鍵を受け取り、僕はスーパーへ、静香さんは駅へと向かった。

 手を振った後、遠のく後ろ姿をしばらく眺めた。ひとりで歩く時は日なたでもおとなしくまっすぐ進んでいた。無理して普通の大人を装っているみたいで、おかしかった。あの人の、みんなは知らない子供っぽさを僕は知っているぞ! と大声で叫びたかった。

 代わりに小さく「暑い~。溶ける~」と独り言をつぶやいてスーパーへ向かった。



 今日は泊まるのか、自宅に帰るのか聞かなかった。聞くのもなんか変な気がした。選択の余地がなかったとはいえ、一晩は無事ミルクとふたりでも過ごせたのだから、自分は用なしだと静香さんが思っても不思議はなかった。明日もまたミルクの世話と、夏祭りのためにこっちにくるわけだし。

 それでもやっぱり泊まってくれるんじゃないかというわずかな期待と、たくさんの願望から、夕食は二人分用意しておいた。残ったら明日食べればいい。


 豚しゃぶサラダを盛り付け終わると同時に玄関チャイムが鳴った。ドアを開けると、静香さんがヨッと片手を上げた。行きには持っていなかった大きな封筒を抱えている。何の気なしに目がいっただけだったのだが、視線に気づいたらしい静香さんは何気なさそうに封筒を身体の陰に隠した。


「バッグ置いてくるね」


 そう言い残し、軽快な足音を立てて階段を上って行った。

 どこへ行っていたのか、今夜も泊まるのか、静香さんの行動のすべてが気になって仕方がない。けれども、いちばん気になっているのは昨晩のことだった。


 僕の肩に頭を乗せて過ごしたあの時間のことを、静香さんはどう思っているのだろう。眠っていたのだとすれば、自然に寄り掛かってしまったのもわかる。だが、その体勢で目が覚めた時どう思ったのだろう。今朝その話をしなかったということは、静香さんにとってそんなのはどうってことなくて、なんとも思わなかったってことなのかもしれない。たぶんそうなのだろう。

 だけど心のどこかで――心のとても目立つ場所で――意識してしまって、そのことに触れられないのではないかと思ったりもしている。まったく都合がいいことだとは充分承知しているけれども。

 都合がいいついでに、もっと都合よく考えるならば、あの時、静香さんは眠ってなんかいなかったという可能性だ。つまり、わざと僕に寄り掛かった――そこまで考えて、さすがにそれは無理があるなと苦笑する。そこまでおめでたくできていない。


 だけど――。


 少しばかり都合よく考えてしまっても仕方ないではないか。あれ以来、静香さんは僕のことを一度も「少年」と呼んでいないことに気付いてしまったのだから。




 昨夜はあまり眠れなかったせいで、ふたりともあくびばかりしていた。夕食を済ませると早々に静香さんは二階へ上がり、僕はソファに転がった。


 昨夜ふたりで並んで座っていたソファで眠るのはどうにも落ち着かない気分だった。腕と腕が触れた感触や、肩に乗る頭の重さ、髪のやわらかさ。そういうものが頭の中をチラチラと動き回って何度も寝返りを打つうちにいつの間にか睡魔に取り込まれていた。


 寝付いて間もない時間、唸る音と硬いものが跳ねまわる振動音に飛び起きた。テーブルの上に強い明かりが見える。静香さんのスマホだ。半分眠ったようにフラフラしていたから、二階に持って行くのを忘れたみたいだ。


 音は長く続いた。電話の着信なのかもしれない。

 そして、ふいに切れた。


 再び横になろうとした途端、また唸り始めた。


 急ぎの用事なのではないだろうか。少し迷って、静香さんに届けようと決めた。


 音はまだ鳴っている。


 立ち上がり、スマホを手に取ると同時にまた切れた。

 切れる瞬間、男の名前が見えた。見ようと思ったわけではない。見えてしまっただけだ。誰に言うともなく、心の中で弁明した。


 スマホを持って、静香さんが使っている真理子さんの部屋のドアをノックした。寝ていて気付かないかもしれないと思ったが、意外なほどあっさりと人の動く気配がした。


「ん~? どうした?」


 ドア越しに少し鼻にかかった声が聞こえた。そして小さくニャーオとミルクの声。僕の気配に気づいたミルクが静香さんを起こしてくれてたのかもしれない。


「寝ているとこ、ごめん。テーブルにスマホ置き忘れたでしょ? 電話があったよ。なんか急ぎなんじゃないかな。すぐかけ直してきたし――」


 話している途中でドアが細く開いて、すばやくスマホが回収された。


「さんきゅ。起こして悪かったね」


 そのままドアは閉められた。


 無愛想だな、とショックとも苛立ちともつかない感情が湧き上がる。僕の言い方に探るような気配があったのかもしれない。実際、知りたい気持ちはあったわけだし。


 ああ、そうか。これがヤキモチってやつか。


 自分の感情に名前がつくと、途端に腹が立ってきた。みっともない感情を持った自分も嫌だったし、なにより夜中に電話をかけてくるような相手がいる静香さんも嫌だった。

 相手はやっぱり大人なんだろう。少なくともこんな家出している高校生なんかじゃない。毎日ちゃんと仕事して、自分のことは自分で決められて、お酒飲んだり煙草吸ったりしちゃうような人なんだろう。


 部屋の中から抑えた声が漏れ聞こえる。僕は、彼女がひとりじゃないと伝わればいいなんて意地悪な考えを起こし、ことさら大きな足音を立てて階段を下りた。

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