三日目
次の日は昼になっても静香さんは現れなかった。
ミルクの世話は僕に任せたつもりなのだろうか。しかし、カリカリをどのくらいあげればいいのかもわからないし、トイレの掃除もなにをどうすればいいのやら見当もつかない。
ミルクは、ごはんのお皿が空なのを何度も確かめてはせつなげな顔をする。まるで僕が悪人みたいではないか。夜まで静香さんが来なければ、適当な量を与えようと心に決める。
トイレ砂は……とりあえず汚れを取り除いておけばいいだろう。
鍵がないから買い物にも行くことができない。申し訳ないが、ある物を勝手に使わせてもらって、あとから補充しておくしかないだろう。冷蔵庫を覗くが、旅行前に片付けたのだろう、大した食材は入っていない。仕方なく米を炊いて握り飯でも作っておくことにする。
キッチンに立つと昨日の騒がしい調理風景が思い出された。静香さんの笑い声まで甦る。そんな鮮やかな記憶を振り払うように、僕はことさら強くご飯を握った。
カタンと門の辺りで音がして、玄関先に出てみると、ポストに回覧板が差し込まれていた。抜き取って抱える。
視線を飛ばすと、辺りはものすごく夏だった。
目を細めなくては見上げることもできないほど眩い空には、巨大な入道雲がそびえている。日射しは容赦なく照りつけ、ジリジリと肌を焼くどころか焦がしにかかる。
道路と家々の壁からの照り返しが、直射日光より熱くまとわりつく。
ムンッとした熱風が通り過ぎる。風のくせに、吹くほどに暑くなる。
アスファルトはうっすらと油が浮き、テラテラと光を反射しながら、化学的な匂いを立ち上らせている。
重なり合うアブラ蝉の声とわずかに混じるミンミン蝉の声。
立っているだけで額から汗が噴き出てきた。
街はまったくひと気がない。野良猫もカラスもスズメもいない。生きているものは蝉だけだった。それはとても奇妙な感覚で、この世にひとり取り残された錯覚に陥る。
暑いほどに寒く、眩いほどに暗い。僕はどうしようもなくひとりだった。
そんなふうにただぼんやり佇んでいると、夏をかき分けてくる人影があった。静香さんだ。
目が合う。僕より先に静香さんが目を逸らした。
近づいてくるその姿を眺めていたい気持ちを抑え、僕は室内へ引き返した。
回覧板をテーブルに投げ出し、定位置となっているソファに転がる。
静香さんが家に入ってくると、ミルクが走って階段を下りてきた。
「ミルクちゃん、遅くなってごめんね。今ごはんにするからね」
フニャ~ン。
ミルクはピンと尻尾を立て、自分の身体のあらゆる部分を静香さんにこすり付けている。あんなふうに全身で喜びと親しみを表せる猫が羨ましくなった。
静香さんが不自然なほどこちらに目を向けないのをいいことに、僕はじっと彼女のやることを眺めていた。
ゴロゴロゴロ……
くぐもった音がかすかに聞こえる。ミルクが喉を鳴らしているのかと思ったが、音は次第に大きくなる。日が陰る。窓の外が宵闇とは違う暗さに包まれていく。
室内が暗くなり、静香さんが明かりをつけた。突如激しい雨が窓を打ち付ける。小石のように降り注ぐ雫がバラバラと音を立てた。ミルクが尻尾をたらし、腹が床につくほど姿勢を低くしてソファの裏に走り込んできて隠れた。
僕は上体を起こした。
光が弾け、昼間より明るく室内が発光する。
バァーン!
間を置かずして、なにかが破裂したかのような音が鼓膜を震わせた。同時にキャッと可愛らしい高い声が短く響く。
静香さんと目が合った。彼女に似合わない怯えた目をしている。まったく彼女らしくないのに、僕は息苦しいほどに鼓動が早まった。
豪雨。稲光。雷鳴。
それらは世界の終わりのように激しさを増していく。
眉根を寄せ、不安げな面持ちの静香さんが、そろそろとソファに近づいてくる。僕は立ち上がって彼女の腕を取ると、並んでソファに腰を下ろした。彼女の細く冷たい指先が、僕の肘を強く掴んだ。
バキャーンッ!
破裂音のような、獣の叫びのような、大音量が響き渡り、鼓膜は痺れ、肌の表面がチリチリと細かく震えた。そして――明かりが消えた。
「きゃあ!」
静香さんが僕の肩にしがみついた。熱く早い息が首筋にかかる。僕はそっと静香さんの背を撫で続けた。
僕が知る夕立よりずっと長く感じた。実際どのくらい続いたのかわからないが、雨と雷鳴が遠のいても空は暗いままだった。
いつしか、夜が訪れていた。
そして、明かりは消えたままだった。静香さんが眺めるスマホの明かりだけが煌々と、闇を切り取ったように浮き上がっている。
「この辺り一帯、停電だって。電車も止まっているみたい……」
電車が運行再開したとしても、停電が続くなら、街灯も消えた夜道を駅まで歩くのは無理があるだろう。静香さんもそう思ったのか、「今日は泊まっていこうかな」と言った。僕は、その方がいいとかなんとか言ったのだと思う。視覚を奪われた中で過敏になった聴覚が、僕の緊張を高めていて、頭の中が痺れていたんだ。
スマホの明かりで、懐中電灯のようなものを探してみたけれど、それらしきものは見つからなかった。バッテリー消費を抑えるため、スマホの明かりを使うのは必要最小限にしようということを決める。
暗闇でも目が慣れればそれなりに物の影くらいはわかるようになった。一番気を付けなければいけないのはミルクを蹴飛ばしてしまうことだったが、幸いあちらが暗闇でも見えているから、そこまで心配することもないだろう。
僕らは常にそばにいた。互いの位置を確かめながらキッチンへ向かい、手探りで握り飯を食べた。そしてまたそろそろとソファに戻り、並んで、ただ座っていた。
静香さんは二階の真理子さんの部屋へは行かなかった。階段が危ないのと、離れてしまうと相手のもとに再び辿り着くのが容易ではないから、というのが理由だったが、本当のところは心細かったんだと思う。
「昨日は、ごめん」
囁くように静香さんが謝った。だから、僕も小さな声で謝る。
「僕こそ、すみませんでした」
ふたりとも、具体的なことはなにも言わなかった。それで充分だった。
ただ一言、静香さんがポツリと零した言葉の意味がよくわからなかった。
「私だって、本物の恋なんて知らないんだ」
それから、ぼそぼそと小声で他愛もない話をした。冷やし中華おいしかったね、とかそんな話を。そして、会話の声はどんどん小さくなって、いつしか消えた。
夜なのに蝉の声がする。昼間の、がなり立てるような激しさはなく、どこか疲れと諦めを感じさせるその声は、せつなさを伴う。
開け放したままのカーテンの向こうは室内よりうっすら明るい。夜空に開いた穴のように月が浮かんでいる。
エアコンも入らないので、窓は開けてある。こんな住宅地でも夜風は少しひんやりとして、緑の青く苦い匂いと、墨汁に似た土の匂いを運んでくる。しっとりとしたその風は、僕をちょっぴり人恋しくさせた。
感覚が研ぎ澄まされる。
腕の表面が、触れてもいない隣の体温を感じている。音もない息遣いの空気の揺らぎが伝わってくる。横を向けばきっと、はっきり顔が見えるくらいには暗闇に目が慣れている。
静香さんも同じかもしれない。
そう思うと、僕の鼓動が息遣いに乗り、空気を震わせ、静香さんに伝わってしまうのではないか、と不安になった。隠そうと思えば思う程に、見ても触れてもいない隣の存在がどこまでも鮮やかに浮き立ってくる。曖昧な心の輪郭が顕わになっていく。
ふわりと頬にやわらかな髪が触れた。そして、肩が重くなった。腕の外側が触れ合って、汗ばんだ肌がベタベタして、吸い付くようだった。静香さんが僕に寄り掛かっていた。
静香さんが眠っているのか起きているのか、僕にはわからない。ただ、この時間が少しでも長く続くようにと、僕は眠っていて気付かないというふりをした。
静香さんも同じかもしれない。
きっとそうだ、いや、そんなはずはない、繰り返し思う。思いながら、本当の眠りに落ちていた。
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