初日(夜)~二日目

 中華麺を茹でる背中が揺れている。


「いつまで笑っているんですか」


 僕は皿を選びながら、何度目かのセリフを言った。

 静香さんはさらに肩を揺らして答える。


「だって……猫が……猫が、怖いだなんて……」


「ああっ、もうっ、静香さんっ! ほら、噴いている、噴いてる」


 手を伸ばし、火を止めた。


「猫と一対一は怖いから一緒に泊まってほしいだなんて~!」


 菜箸を握ったまま静香さんは笑い続けるので、僕が湯を切った。

 冷やし中華の具は棒棒鶏バンバンジーだ。うちではお母さんが添付のたれが好きじゃないから、冷やし中華といえば棒棒鶏なのだ。

 たれの分量はいつも適当だから毎回微妙に味が違う。今日のはすりゴマが多すぎたみたいだが、静香さんは「なにこれ、すごいおいしい」と何度も言った。


「料理のできる男の人はモテるよ」


「大人ならそうかもしれないけど、男子高校生が料理ってちょっと女々しくないですか?」


「よくない。よくないよ、少年。それは偏見ってもんだよ。若いくせにダメだねぇ」


「少年とか若いとかの方が偏見でしょう」


「あ、それもそうだね。若くても年寄りでもダメな人はダメだもんね。立派だね、君は」


「もう、どっちなんですか。僕はダメなの? 立派なの?」


「……めんどくさい子だね、あんた」


 静香さんはちっともめんどくさくなさそうにケラケラと笑った。






「僕、片付けておくんで、静香さんはお風呂入っちゃってくださいよ」


「ええ~。いいよ~。私が片付けるから、健人くんが入ってきなよ」


 僕が、私が、のやり取りを何度か繰り返した後、静香さんが「じゃあ、お先に。着替えはお姉ちゃんの服を借りちゃおうかな」と言って決着がついた。


 静香さんが浴室に向かった後に、ふと思った。浴槽のお湯ってどうすればいいんだろう? 家だとなにも気にせずそのまま入るけど、他人の、しかも初対面の人の残り湯に入るってどうなんだろう?

 静香さんが入ったお湯……なぜかちょっとドギマギしてしまった。それともお湯を張り直す?

 あれこれ考えているうちに静香さんが上がってきて、結論がでないまま緊張して浴室に向かったら、浴槽は使われていなかった。シャワーで済ませたようだ。


 そうだよな。うん、そりゃそうだ。


 僕は顔をゴシゴシこすると、いきなり頭から強めのシャワーを浴びた。






 その後もかすかな緊張がそこかしこに散らばっていた。洗面所を使うタイミング、廊下でちょっとすれ違う時のよける方向、トイレのスリッパを脱ぐ位置……。

 それは「おやすみなさい」と声を掛け合って、静香さんが二階の真理子さんの部屋へ上がって、ミルクがその後をついていって、僕がリビングのソファに転がるまで続いた。


 初めて気が付いた。他人と生活するのはぎこちないということに。別々の生活リズムがあるから、合わないのは当然だとわかっていたけれど、これほどまで違和感があるとは思わなかった。修学旅行とは違う、家という建物の中で暮らすには互いの呼吸が合わないとしっくりこないのだと知った。

 けして苦痛なわけではない。ではないのだが、モヤモヤする。


 そんなことを考えているうちに僕はいつしか眠りに落ちた。






 家出って、なにをすればいいんだろう。二日目にして途方に暮れる。

 モヤモヤして家にいたくなかったから、こうしているわけだけれども。僕がいなくなったことでお母さんがなにか考えてくれればいい。そんな抗議の意味もあったりするのだけれども。それは、家を出た時点で達成されてしまったわけで。

 外は陽気でご機嫌な夏が広がっているというのに、僕ときたら、家主不在の家でダラダラ過ごすしかないのだろうか。


「少年は勉強とかしないの?」


 ソファに転がる僕をエアコンのリモコンでツンツン突っつきながら、静香さんが言った。


「しますよ。高校生だもん」


「してないじゃん。宿題とかあるんでしょ?」

 

 ツンツン。


「持って来てないし」


「高三なら夏期講習とかあるんでしょ?」


 ツンツン。


「ここからじゃ遠いし」


「やっぱ勉強しないんじゃん」


 ツンツン。


「……ツンツンしないでください」


「だって暇なんだよお。誰かさんがぁ、家出もひとりでできないからぁ」


「毎日通うより楽でしょ?」


「そういうこと、あんたが言う立場じゃないと思うけど」


「あ、じゃあ、どこか遊びに行きましょうよ」


「やだ。暑いし」


「暑いのは夏だから当たり前でしょう」


「だから夏は嫌なのよ。太陽も蝉も人間もなにもかも張りきっちゃっている感じがさ」


 自分が夏そのものみたいなくせして、静香さんは心底嫌そうに顔をしかめた。


「じゃあどうすればいいんですか」


「面白い話、して」


「急にそんなこと言われても……」


「家出の理由とか?」


「それ、面白くないでしょ」


「ミルクちゃ~ん」


「猫を呼ばないでください」


「じゃあ話して。私は聞く権利あると思うけど?」


 僕も心のどこかでは誰かに聞いてもらいたいって気持ちがあったんだと思う。そしてそれが今後接点などないだろう相手なら気楽に話せそうな気がした。自分のことを真面目にきちんと話すなんて久しぶり……というより、初めてかもしれなかった。



 僕はお父さんを知らない。幼稚園生のころはもういなかったから、早い時期に両親は別れたんだと思う。そのことを知った友人はたいてい言葉に詰まったり、変に無関心を装ったりするけれど、そんな気遣いをされるとかえって気を遣ってしまう。

 もしかしたら、お父さんを知っていたら、いなくなったことが寂しいのかもしれない。だけど初めから知らないものは懐かしむこともないし、父親という存在について深く考えたこともない。僕の家族はお母さんだけ、というのはごく普通のことだった。それはきっと、兄弟のいない人のほとんどがそのことを憂えたりしないのと同じなんじゃないかと思っている。


 それでもこの歳になれば、ふた親そろっていても大変な子育てをひとりでこなすことの苦労は多少なりとも想像はできる。肉体的にも精神的にも経済的にも支え合う人がいた方が心強いし負担もすくないだろうと思う。だから感謝している。口には出さないけれど。

 僕はお母さんと喧嘩することもあるけれど、二人家族であることに不満を持ったことはない。だから、お母さんもそうなのだと思っていた。付き合っている人がいたなんて知らなかった。結婚を考えているなんて知らなかった。会ってほしいと言われるなんて――。


 その人は職場のスーパーの店長とのことだった。相手がなにをしている人なのかなんてどうでもいい。どんな人なのかなんてどうでもいい。同じ職場なら毎日会えるんだろ? それでいいじゃないか。なぜもっと一緒にいようとする? 今の生活を変えてまで一緒にいる必要がどこにある? 僕を巻き込んでまで。

 僕だってもう十八歳だ。母親が大好きってわけでもない。だけど、よくわからないんだ。そんなに誰かといることって必要か?


 自分でもなにがこんなに引っかかっているのかわからない。冷静に考えれば反対することではないとわかっている。いい年して母親を取られる気がするとか、そんなものでもない。ただ、わからない。だから、すっきりしない。

 たぶん、僕はその人に会うだろう。そして二人の結婚を祝うだろう。反対する理由もないし、二人の問題に口出しすること自体おかしなことだと思う。ただ、わからない。


 だから、僕は家を飛び出したんだ。



 僕の家出の理由を聞いた静香さんは――笑った。あの外に降り注いでいる日射しのような力強い明るさで笑った。


「やっぱり健人くんは少年だなぁ」


「どういう意味ですか」


「恋ってもんを知らないんだな、と思って」


「し、知ってますよ」


「そぉお? じゃあ、本物の恋ってものを知らないんだな」


 そう言ってニヤニヤ笑う。


「僕は、面白い話をしたつもりはなんですけど?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。

 静香さんの笑顔が消えた。


 わかっている。思わず不機嫌そうな声が出ちゃっただけだって言えばいいんだって。

 わかっている。静香さんは僕の心を和らげようとしてわざと茶化してみたんだって。


 だけど、一度くらい静香さんの上に立ちたくて、僕は敢えて言い訳をせず、心底怒っているような表情をした。ちょっとした悪ふざけだったんだ。そしてその悪ふざけは失敗した。

 静香さんは鼻に皺を寄せて「あっそ」と呟いて、スタスタ二階に上がるとすぐに自分の荷物を持って下りてきた。


「……どこか、行くんですか?」


「……」


「夏、嫌いなんでしょ? 外は暑いですよ。……あ、スーパーに買い物? じゃあ僕も一緒に……」


「帰る!」


 僕の鼻先で玄関のドアが閉まった。追いかけようとして、靴につま先を突っ込んだところで、鍵は静香さんが持ったままだということを思い出した。

 あの勢いだと走っているだろう。よそのうちの玄関を施錠しないままに離れるのは躊躇われた。追われないように鍵を持って行ったのだとしたら、まったく、静香さんは嫌な大人だ。


 僕は内側から鍵を締めて、リビングに戻った。リビングにひとりでいる時間なんていくらでもあったのに、今はなぜか妙に広くて薄暗く感じた。

 どこからかミルクが現れて、静香さんを探すようにひと鳴きしたが、すぐに諦めて二階へと上がっていった。


 初日の態度はなんだったのか、ミルクは僕に近寄りもしない。ふらりとリビングに現れては水を舐めたり、トイレの砂を掻いたりしていたが、僕の姿など見えない素振りで他の部屋へと去っていく。時おり暑くなったのかリビングのチェストの上でウトウト涼んだりもするけれど、やはり僕のことは見えていないようだ。ホッとしたような寂しいような妙な気分だった。

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