初日(午後)

 ポリポリポリ……


 なにか硬いものが齧られている音で目を覚ました。


 涼しい。


 タオルケットを剥いで起き上がると、和幸さんちのリビングだった。ソファで眠ってしまったらしい。


 ポリポリポリ……


 猫がカリカリを食べている。


「あ、起きた?」


 声をかけられてから一呼吸おいて、いろいろ思い出されてきた。


 ああ、そうだ。この人の肩を借りてどうにか家に上がったんだ。そして、横になった途端眠ってしまったらしい。


 頭がガンガンする。額に手を当てると、乾ききった冷却シートに触れた。ペロリと剥がす。


「新しいの、貼る?」


 女が丸めた冷却シートを受け取ってくれながら聞く。


「いや、だいじょうぶ……です」


 答えた声がかすれていた。


「そ? じゃあお水飲んで。本当はスポーツドリンクがいいんだろうけど、あんたを置いて買いに行くのも心配だったからさ」


 その心配は僕の体調なのかこの家の心配なのかはかりかねた。だが、脇や首筋に冷たいタオルが丸めて当てられていたのだから、僕の身体を心配して世話を焼いてくれたのだろう。

 エアコンの効いた部屋で水を飲む、ただそれだけのことが生き返るような気分だった。


「なんかすみません……ありがとうございました」


 ニャーン。


 返事をしたのは女じゃなくて猫だった。さらに言うなら、それは返事ではなく催促だった。


「あら、ミルクちゃん、もうごはん食べちゃったの? だめよ、おかわりはなし。そんなにスリスリしてもだ~めっ! 決まった量しかあげちゃダメって言われているんだもん」


 外で僕に向けられた声とは別人のように優しい話し方だ。僕は猫にも劣るらしい。


「あ、少年はお水のおかわり、いる?」


「だいじょうぶです。それと、僕は少年じゃなくて……」


「ああ、そうだ。ごめん、ごめん。えっと、なんだけっけ? ……健人くん?」


「はい」


「はい、だって~。か~わいっ」


 褒められたのかバカにされたのかわからない。案外なにも考えていないのかもしれない。つかみどころがない。僕がまだ出会ったことのないタイプの人間だ。


「えっと、お姉さんは――」


「やぁだ、お姉さんだって~」


 その一言だけで女はカラカラ笑った。やっぱりこの人は「夏」だ。そう思った。


「だって、呼びようがないから」


「あ、うん、そうだね」


 女はロングスカートをふわりと広げ、床で胡坐をかいた。その足のくぼみにミルクがすぽりと収まって、くるりんととぐろを巻いた。うとうと眠りに落ちそうなミルクのミルクティー色の背中を撫でながら、女が話し始めた。


「和幸さんなら、帰ってこないよ」


「えっ!」


 家出か? 別居か? とハラハラしたのが伝わったのだろう、女はアハハと滑舌よく笑った。それにしてもよく笑う女だ。


「ちがう、ちがう。って、私の言い方がよくないのか。あのふたりなら、旅行中だよ。沖縄だってさ。なんだって暑い季節にわざわざ暑いところに行くんだろうねぇ」


「旅行、ですか」


「うん。そう。そんで、私が留守中のペットシッターを任されたわけ」


「毎日通っているんですか?」


「うん、そうだね。って、まだ三日目だけど」


「仕事の帰りとかですか?」


「突っ込んだこと聞くね~。ああ、いいよ、いいよ。気にしないで。うん、今ね、無職なの。先月辞めたばかり。だから暇っちゃあ暇なんだよね。通うのが面倒なら泊まってもいいって言われてるんだけど、なんとなく通ってる。あ、そうそう、一週間の旅行って言ってたから、和幸さんに会うなら出直してきた方がいいよ」


「……」


「あれ? なんか、急ぎだった?」


「……です」


「え? なに? 聞こえないって。はっきり言いなさいよ」


「――家出してきたんですっ!」


 案の定、女は笑った。だから嫌だったんだ。

 僕がムスッとしていると、女は「ごめんごめん」と僕の膝を叩いた。冷たい手だった。


「いやあ、若いなぁと思って」


「――そんなに違いますか」


「へ? なにが?」


「あなたと僕、そんなに歳が違いますか? 少年扱いされるほど離れていますか?」


「それ、怒ってるの? それとも私の年齢を探っているの?」


「単に聞いているんです」


「女性に年齢を聞くなんて……あんたって本当にデリカシーないわね」


「どうせ答えないんでしょう? あなたは僕のことをいろいろ知ったけど、僕はまだあなたの名前もこの家との関わりも聞いていない」


 不公平だと言わんばかりの口調で責め立てた。大人ってだけで主導権を握られるのは不愉快だった。


「あれ? 言ってなかったっけ? ……ああ、そうか。言おうと思ったら君が倒れたから、忘れてた」


 女はヘラヘラ笑った。

 忘れてた、だと? つくづくこの女は調子が狂う。


「ペットシッター頼まれたというのは聞きましたけど」


「うん。姉にね」


「あね……」


「あ、お姉ちゃんね」


「わかりますって」


「だよねぇ。原田真理子の妹の相沢静香、二十五歳です」


 あぐらのままぺこりとお辞儀をする。膝の上のミルクが寝返りを打った。


「どうも。原田和幸の甥、原田健人です……って、知ってますよね」


「うん。甥ってことは、和幸さんと健人くんの――?」


「和幸さんの姉が、うちの母です」


「ああ、なるほど」


 自己紹介が終わると話すことがなくなった。僕はものすごくゆっくりタオルケットを畳んで、静香さんはひたすらミルクを撫でていた。タオルケットを畳み終えるとやることがなくなった。静香さんはまだミルクを撫でている。


 なにか話さなくちゃ。


「静香さんって――」


「ん?」


「ちっとも静かじゃないのに」


 あれ? なんかミスった気がする。


「……あのねぇ、そういうの聞き飽きたから。君、小学生並みだよね。だから少年呼ばわりされるんだよ」


「僕のことを少年呼ばわりするのは静香さんだけですけどね」


 そしてまた沈黙。

 ミルクがおもむろに起き上がり、静香さんの膝の上で伸びをするとトコトコと二階へ上っていった。それを機に静香さんが立ち上がった。


「さて、と。帰るかな。ほら、健人くんも帰る支度しな。鍵締めるよ」


「……帰りません」


「あ、そうか。家出少年だったね。でもこの家、留守だし、仕方ないじゃん?」


「……」


「それか、留守でも泊まっていいか聞いてみたら? お姉ちゃんは私に泊まっていいって言っていたから、あんたも和幸さんに頼めば泊めてもらえるかもよ?」


「スマホ、忘れて……」


「じゃあ、そこの家電いえでん借りれば?」


「……電話番号わかんない」


「はあ? もうっ、しょうがないなぁ。私もお姉ちゃんの番号しか知らないよ」


 そう言いながらも静香さんは電話をかけてくれた。真理子さんに事情を話し、ほら、とスマホを僕に渡してくれた。耳に当てると静香さんの体温が移っていてほんのり温かかった。


「もしもし」


『おお、健人か? なに、お前、家出したんだって?』


 和幸さんの笑いを含んだ声がした。


「うん、まあ……」


『ああ、そうだよなぁ。理由は見当がつくよ。でも家出しても解決しないと思うぞ? そうはいっても距離置いて考えたいっていうなら泊まっていけよ。食器でもタオルでも適当に使っていいからさ』


 和幸さんはものわかりがいい。こんな兄か父がいたらいいのになって思う。実際にはどっちもいないんだけど。


「うん……ありがと」


『鍵は静香ちゃんから借りろ』


「うん、わかった」


『お前のお母さんには俺から連絡しとくぞ。居場所くらいは伝えておかないとな』


「うん……」


『じゃあな』


 電話が切れると、妙に情けない気分になった。僕は悲しいくらい「少年」だった。一人では家出もできない「少年」だった。

 いつの間に戻って来たのか、ミルクが階段の下で静香さんに撫でられていた。立ったまま目を細め、尻尾をピンと立てて、小さく足踏みをしている。


「ありがとうございました」


 僕がスマホを返すと、静香さんは玄関に向かった。


「ん。泊めてもらえるみたいだね。じゃ、私はこれで」


 ミルクが廊下を歩く静香さんの足にまとわりつく。そのついでのように僕の足に体をこすりつけた。


「うへぇ!」


 変な声が出た。

 ミルクは、小さな体のどこにこんな力があるんだと思うほどの強さで体を押し付けてくる。全身が硬直し、鳥肌が立つ。


 無理だ。絶対無理だ。


「あ、あのっ」


 上ずった僕の声に静香さんが振り向く。


 ええい、どうとでもなれ。もうじゅうぶんみっともない姿を見られているんだ。どうせ今後会うこともない。


 僕は意を決して言った。


「僕と一緒に泊まってください!」


 深く腰を折った僕の前で、静香さんは壁に張り付いた。

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