僕の彼女は金魚さん

泉坂 光輝

テント下の幻影


 出町橋でまちばし西詰には黄色いテントの金魚屋がある。週末には金魚すくいを楽しむことができるその金魚屋に、僕は夢中で通い続ける。それも片思いの彼女に会うためである。


 彼女は京都御所の北側にある私立大学に通っているそうだ。なぜ伝聞形であるかというと、本当に彼女が大学生であるのかも、名乗る金魚きんぎょという珍妙な苗字が本名であるのかも、確かめようがない所以である。

 要するに、僕は彼女の事を何も知らなかった。



 百万遍ひゃくまんべん交差点の傍の大学を抜けて、下鴨しもがもにある下宿先へと自転車で帰るとき、不意に「アレが食べたい」と思うことがある。それは気まぐれに移ろう不規則な欲求だが、その日は出町柳でまちやなぎにある和菓子屋の豆大福であった。

 しかし出町商店街に到着してやっと、僕はその和菓子屋が既に閉店していることを思い出した。閑散とした商店街に空しい気持ちを抱きながら元来た道を戻ろうとした時、黄色いテントの下でしゃがみ込む黒髪の彼女に出会ったのだ。



 それから僕は彼女を求め金魚屋へと通い詰めた。

 半月ほどで気付いたのは、彼女が現れるのは決まって平日の十八時から十九時の間であるということだった。



 僕と彼女は金魚屋の直ぐ後ろにある妙音弁財天みょうおんべんざいてんの片隅に腰を下ろし、面白可笑しく語り合った。そして金魚屋が店を終う少し前、十八時五十五分丁度に彼女は別れを告げる。十九時には帰宅しなければならない。それが彼女の言い分だ。



 そんな日常が一月ひとつきほど続いた夏の終わり、僕は告白をしようと彼女の手を引いて鴨川かもがわの畔へと降りた。

 初めて陽の光を浴びたような彼女の白い肌が、夕空に映える。

 鴨川デルタへと続く飛び石を二つ渡った彼女は振り返った。


「あと五分」


 僕は左腕の時計を覗き込んだ。十八時五十五分。彼女の門限が迫る中、温めていた気持ちを告げようと口を開く。

 しかし僕の言葉を遮るように、彼女は僕の耳元で囁いた。


「あなたと話ができてほんまに楽しかった」


 ありがとう、その言葉とともに彼女は斜陽に目を細める僕の頬に口づけをした。

 体が熱くなるのを感じた途端、握る手が水を掴むかのごとく軽くなる。そしてバランスを崩した僕は、そのまま鴨川に転落した。


 あまりにも一瞬の出来事で、何が起こったのか分からなかった。


 ただ、ずぶ濡れの僕が立ち上がった時にはすでに彼女の姿はなかった。

 真っ赤な何かが水中で僕の足元をくるりと旋回し消えるのを見た時、水に濡れた安物の腕時計が十九時ぴったりで停止していることに気が付いた。



 それから何度もあの金魚屋へと足を運んだ。しかし、あの日以来彼女に出会うことはない。

 彼女は僕が妄想で作り上げた幻だったのだろうか。もしくは、テントの下で泳ぐ美しい金魚が僕を化かしたのかもしれない。

 金魚屋のオバサンに彼女の居場所を問うてみても、にんまりと笑うだけで何も教えてはくれなかった。


 それでも僕は思う。たとえ不確かであっても、僕は彼女が好きだったのだと。

 ゆえに僕はまだ黄色いテントの下に彼女の幻影を見る。


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僕の彼女は金魚さん 泉坂 光輝 @atsuki-ni

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