Epilogue

     


 それから一週間が過ぎた。

 鍋島と芹沢の勤務状態はいつも通りのローテーションに戻っていた。

 静まり返った刑事部屋で、芹沢はさっきから電話で喋っていた。時計は午後十時を回っていた。

 デスクに肘を突いて受話器を耳に当て、空いた手ではキャップの締められたままのボールペンがくるくると曲芸を演じている。そのリラックスした様子から、相手が仕事絡みの人間ではないことが容易に想像できた。

「──いい? 言うよ。福岡市東区香椎台かしいだい──そう、『香る』に椎名林檎しいなりんごの『椎』」そこで芹沢は一呼吸おいた。「書けた?」

 鍋島は部屋の後ろに並んだ書類キャビネットの引き出しの一つに両腕を置き、さっきからずっと中のファイルをひっくり返していた。

「連絡入れとくから、何かあったら遠慮しないで訪ねて行ってよ。姉貴の旦那はいい人だし、良くしてくれると思うぜ」

 そう言うと芹沢は相手の話すのに耳を傾け、笑顔になった。

「……そうばい。博多んもんはみなよか人間ばかりなけん、なぁんも心配することはなかよ」

 芹沢が博多弁を使うのを初めて聞いた鍋島は、思わず振り返って彼を見た。

 目が合うと芹沢はにやっと笑って視線を外し、続けた。

「上司が一年で戻って来いって言いよってん、そん頃にはあんたが帰りとないて思うに決まっとーけん、安心して行けばよか。何やったら、向こうん女ば嫁にもろうたら?」

 そして彼は受話器から耳を外し、鍋島に言った。「もう何も言っとくことねえか?」

「これに懲りて、もう先輩なんか殴らんことやなって」

「聞こえた?」芹沢は笑いながら言った。「──そうさ。自分だってきっと同じことやるくせによ」

 鍋島は電話の向こうの萩原が自分の悪口を言っているのが分かるのか、ふんと鼻を鳴らすと引き出しを閉めて間仕切り戸へ向かった。

「どこ行くんだよ?」

「交通課。盗難届の出てるバイクの中に、昨日の犯人の乗ってたやつと似てるのがないか、もう一回調べてくる」

 鍋島は廊下へ出ていった。

 芹沢は受話器を持ち直した。「──じゃあ、元気で」

 そう言うと芹沢は慌てたように付け加えた。「あ、一つ言っとくことがあったんだ」

「──俺、この前言ったよね。たった一日で恋に落ちたとしても、それは本物じゃねえって」

「……あれ、撤回するよ」



 一階のロビーに出て、すぐ前の交通課に向かおうとしたところで、鍋島は玄関に入ってきた女性を見て立ち止まった。

 鮮やかなローズ・ピンクのスーツに身を包み、ずいぶん用心深くあたりを見渡しながら彼女は中へ進んできた。その心細そうな表情からは、つい三週間前の鼻につくほどの気位の高さは影を潜めていた。

 やがてすぐ前の鍋島に気がついて、彼女は足を止めた。

 鍋島は穏やかに、しかし十分得意げに微笑んで言った。

「そろそろ来るんやないかと思てたよ」

「そう……」

 一条も口許に笑みを浮かべ、伏し目がちに頷いた。

「あいつは上にいるよ」鍋島は言った。「今、一人や」

「鍋島くん──」

「そうやな、あと二十分したら戻るって言うといてくれるか」

 鍋島は大袈裟な身振りで腕時計を覗いて言い、すぐに顔を上げた。

「……分かったわ。ありがとう」

「どういたしまして、警部」

 鍋島はにっこり笑って言うと軽く敬礼をした。



 間仕切り戸の前に現れた一条を見て、芹沢は呆然と立ち上がった。

「……何でだよ?」

 一条はゆっくりと部屋に入ってきた。そして芹沢から少し距離を置いて立ち止まり、向き直った。

「昼間ここに電話したら、今日は一日研修で、戻ってきて遅くまで残業だって」

 そう言うと彼女は深く深呼吸をした。「電話を切って、気がついたら上司に休暇を願い出てたわ」

「それで?」芹沢はわざと冷めた口調で訊いた。「またそっちの犯人が逃げてきたのか?」

「わたしが逃げてきたって言ったら?」

「どういうことだよ?」

 一条はふっと笑った。「冗談よ」

「冗談なんて訊いてねえよ」

 一条は頷き、芹沢を見据えた。

「わたしはカタをつけたわよ。彼氏と別れて、父にもずっと刑事は辞めないって言ったわ。だから今度はあなたの番よ」

「俺の番?」

「そうよ」

「俺に何をしろって言うんだよ?」

「嘘をつくのはやめてもらいたいのよ」

「俺がいつ嘘をついたって?」

「わたしが最後にあなたに訊いたことの答えよ」

「……ずいぶん自信たっぷりだな」

「当たり前よ」と一条は腕を組んだ。「わたし、刑事だもの」

「先週までここでジタバタ、まるで使えねえお荷物だったくせに?」芹沢は肩をすくめた。「で、また今日もいきなり押しかけてきてよ。相変わらずやることが傲慢なエリートそのものだな」

「だって、連絡先が分からないんだから、こうするしかなかったのよ」

「だから、それがワガママだっての」

「……意地悪」

 一条はぷっと頬を膨らませた。そして揃えた足の踵で床をトンと一つ鳴らして、まるで駄々っ子のように拗ねた口調で言った。

「しょうがないじゃない、好きになっちゃったんだもの……!」

「……直球だな」

 芹沢は呆れたように笑って溜め息をついた。

「……だって……」一条は俯いたままだった。

 芹沢はふんと鼻を鳴らすと、デスクの引き出しから黒地に白のアルファベットが書かれた名刺を取りだし、一条に差し出した。

「茶屋町の『フローベール』って店。ビルの三階。何時に行けるか分かんねえ」

 一条は名刺を受け取ると、今度は例の、人を見下したような眼差しで芹沢を見た。「わたしの勝ちね」

「まだこれからじゃねえの」と芹沢は鼻白んだ。 「言っとくけど、俺はその元カレみたいな優しい男じゃないぜ。自分の女に別に好きな相手ができたから別れてくれなんて言われて、素直にその通りにするようなさ」

「そのようね」

 一条は肩をすくめるとにっこり笑った。「そこに惹かれたみたい」



「──巡査部長?」

 署の表に出て煙草に火を点け、長い煙を吐きながら顔を上げた鍋島に、近づいてきた制服警官が声を掛けた。

「うん?」

「何なさってるんですか?」

「時間潰し」

「え?」

「あと十分や」鍋島は腕時計を見た。

「十分後に、何があるんです?」

「さあ。別に取り立ててなにも起こらへんやろな」

「はあ……」巡査には何も分からなかった。

「借りは返してもらうから」

「は?」

「いや、こっちの話」

 そう言うと鍋島は悪戯っぽく片目を閉じ、数歩前に出て軒下から空を見上げた。


 雨上がりの夜空に、星が一つ瞬いた。




                              <了>





 ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係はありません。



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冷たい雨 みはる @ninninhttr

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