脱皮
雷藤和太郎
真夜中、火星が最接近すると聞いて
子どものころに、毒蛇に噛まれて危うく命を落としそうになったことがある。
あれは僕がまだ小学校に上がりたてだったころだ。母親に連れられて水田に苗が植えられていくのを見ていた時の事である。
散歩という訳ではなく、兼業農家である父親の農作業の手伝いを兼ねてだった。初夏の風と燦々と輝く太陽、青空。母親は僕の手を握って、背中のリュックには弁当と水分が入っている。僕の背中にも同じように、お弁当と水筒の入ったリュックを背負わされており、さながら遠足気分であった。
両親があれこれと田植えの進捗を語っている間に、僕は水の張られた水田の既に稲苗が植えられた辺りに、木の枝のようなものを見つけた。興味津々に近づくと、木の枝は突然動き出し、その体を水面から持ち上げた。先の割れた舌をチロチロと出して、威嚇音を鳴らすと同時に僕に襲いかかったその蛇は、ヤマカガシと呼ばれる蛇だった。
僕はとっさに顔を手で覆うように引っ込めたが、それが災いして小指の付け根辺りをヤマカガシにガブリと噛まれた。
「アーッ!」
その時僕がどんな悲鳴を出していたかは覚えていない。悲鳴を聞いた母親から、人間とは思えない悲鳴だったとだけ聞かされた。
僕を噛んだヤマカガシは、母親が駆けつけてきたときには既に手から離れていた。蛇に噛まれたことを母親に伝えると(母親は偉大で、どれだけ子どもが混乱していて言葉が通用しなくともその訴える内容は分かるのだ)、噛まれたほうの手首を骨折するんじゃないかと思うくらいに握って、蛇に噛まれた部分を口で吸った。
吸った血を吐き出した母親は、唇の端が血に濡れていた。吐き出した血はドス黒く、僕の中からこんな色の血が出てくるのかと怖くなった。
幸い、ヤマカガシは僕に対して深く噛みついたわけではなかったらしく、病院に行って検査をしても血中に毒素は見られなかった。蛇の噛み跡よりも、その後の母親の吸血によってできた青あざの方が、よほど学校で心配されたほどだ。
それ以降、僕はどうにも蛇というものが苦手である。
◇
「それでも、アウトドアレジャーは好きなのね」
テーブルの上に置いたコールマンのランタンに集まる虫を払いながら、由子が呆れたように言った。片手に持ったビール缶をグビリと喉を鳴らして飲み干すと、片手で握るように潰す。
「まあね」
「蛇が怖いのなら、アウトドアなんて怖くてできないではずしょう?」
熾火の弱まったバーベキューコンロの炭を中腰で崩す僕に向かって、当たり前を確認するように問う。
「蛇が嫌いな以上にアウトドアが好きなんだよ。田舎で育ったからか、僕はいつも自然の中にいたんだ。川も山も海も全部行った。キャンプもサバイバルも楽しい。それを由子にも知ってもらいたかったんだ」
「そうは言ってもねぇ……アタシは元々インドア派だし、そんな毒蛇に噛まれた話を聞いたら余計に怖くなっちゃうわ」
テーブルの下に置いたクーラーボックスから、由子はチューハイ缶を取り出した。キャンピングチェアに深々と座って、カシュと栓を開ける。
「おいおい、何本目だよ。そんなんじゃあ天体観測に行けなくなるぞ」
由子が握りつぶした酒缶は、チェアのひざ掛けに引っかけられたビニール袋の中で由子が揺れるたびに金属同士のこすれ合う音を響かせている。
「残念でした、アタシはもうへべれけよ。天体観測に行けるような状態じゃあないわ」
皿の上に残った焼肉を一切れ、野蛮にも指でつまみ上げて由子は口に放り込んだ。
「行ける状態じゃあない、ってそれじゃあ天体観測はどうするのさ。今日のメインディッシュだぞ」
「メインディッシュならさっき食べたじゃない。美味しいバーベキューを」
「そういう意味じゃない」
分かってるわよ、とでも言いたげに由子はチューハイ缶を夜空に向かって首ごと傾けた。ランタンの無機質な光が由子の喉を照らし出す。
グビグビと、喉を鳴らすたびに、由子の意識は酩酊に向かって沈殿していく。
「あなた一人で行ってきなさいよ。火星はスマホでも撮れるくらいにきっちり見えるのでしょう?月と比較できるような画像を撮ってきてくれれば、アタシはそれで満足だから」
「おいおい、由子を置いていけってか?」
言うが早いか、由子はおもむろに椅子から立ち上がり、もぞもぞとテントの中へと入っていった。
「大丈夫よ、寝ゲロは吐かないから」
「そういうことじゃなくってな」
キャンプ場で女性が一人、テントの中で眠っていれば悪漢に襲われる可能性が無いとは言い切れない。区画内には原則立入禁止の不文律があるとは言え、近年のキャンプアニメブームに乗せられた頭の悪いオタクたちはそういうルールを知らない。
「アタシの事は気にせず、行ってらっしゃい」
しかし僕も男女の不文律というものを知らない。慣れない人間には、そこにあるルールが見えないのだ。僕は、今この場で彼女を置いて行って良いのか、それとも彼女の言葉を無視して一緒に寝てあげた方が良いのか、確かな答えを見つけられずにいた。
こういう時に答えをパッと出せたり、あるいはそもそもこういう難しい問題に突き当たらないようにすることこそ、男女間のルールなのだろう。由子は、普段はさっぱりした性格だけれど、酔った時は少し面倒な性格になる。へそ曲がりな物言いになり、本心とは逆のことを言いがちだ。そのくせ言ったことに対して僕が反抗し、違うことをするとそのことに怒りだす。
「少し食休みしてからにするよ」
僕は由子の座っていたキャンピングチェアに座った。テントの入口の隙間から、由子が顔だけを覗かせる。
「あなた、そんなに食べてないじゃない」
「そんなことないさ。由子の二倍は食べた」
「嘘つき」
眉根に皺を寄せて、由子がテントの奥に引っ込む。僕はクーラーボックスから缶ビールを一つ取り出して飲み始めた。
木々に囲まれた夜空には、夜の光が強い都会の空では信じられないほどの数の星が瞬いている。以前、大学の友人と屋久島に行ったときの夜空は、五分に一回は流れ星が見えて、流れ星は普段からこんなに流れているものなのかと驚いた。地上の光が強いため、流れ星は光の弱い星のように見えにくいのだ。
僕が今眺める夜空は流れ星が頻繁に見える程のものではなかったが、それでも屋久島を思い出す程度には星に満ちていた。
「ふぅ」
缶ビール一本で酔いが回る。あまりアルコールに強くないことを自覚しているので、夕食のバーベキューの時間には酒は飲まないようにしていた。由子はそれを気にして「アタシも手伝うから飲みなよ」と言ってくれたが、遠慮した。
酒は嫌いではないが、アウトドアの醍醐味であるバーベキューのさまざまを由子に手伝わせてまで飲みたいと思うほどでもない。仕事が一段落して、一息つけるようになったら少し飲む、くらいが性に合っているのだ。
僕は由子の潜り込んだテントを見た。
ブランドが混ざるのを好まない僕は、キャンプ用品の全てをコールマンで揃えている。本当であれば、キャンプ用品会社によって得意なジャンルがあり、その得意なジャンルごとにブランドを選んで買った方が、安価で良質なものが買える。それをしないのは、ブランドが統一されていることによって見栄えが良いということと、収納の時にバランスよく収納できるということに魅力を感じるからだ。
それを言うと由子は「病的に几帳面ね」と呆れるのだが、そういう性分を渋々ながらも理解してくれている。逆に部屋のインテリアなんかは由子が一家言持っているので、僕は口を挟まない。
コールマンのテントも決して安くはないし、テントの得意なメーカーに比べて質が良いとも言い切れない。それでも、由子がぐっすり眠っているのかも外からは確認できないくらいに遮音性、遮光性に優れる。通気性も良い。
「由子」
テントに眠る彼女の名前を呼ぶ。
反応はない。
僕はテントに近づいて、静かにジッパーを開けた。張っていなければテントではないが、張りが強いほどジッパーの音は目立ってしまう。細心の注意を払って音を出さないよう苦心しながら二重のジッパーを両方とも開けると、彼女は入口に背を向けるように横になっていた。
二人の間に、泥のような沈黙の時間が訪れる。
寝ているのなら、それで良かった。まだ眠りについていないのであれば、今日はもう天体観測を諦めて、一緒に眠るしかない。眠っているか確認するために声をかけようとしたそのとき、由子が寝がえりをうった。
「ううん……ん……」
艶めかしい声で身体をよじる。ユニクロの薄手の長袖にキャミソールを重ね着しているのは、夜間の冷え対策と虫刺され対策だ。天井に虫よけは吊るしてあるが、田舎の虫は惰弱な都会の人間よりもよっぽど強かだ。
麻地のブランケットを自ら下半身にかけ直してわずかに口を開ける由子の姿は、あまりに無防備だ。きっとすっかり眠っているのだろうと判断して、僕はジッパーを静かに閉じた。
親指の腹でこめかみを揉み、熾火に用意していた霧吹きの水をいくらかふきかけると、ジュウと水蒸気を少しだけあげて炭火は消えた。短い火かき棒で奥の方まで消火されているのを確認すると、テントの隣に止めた自動車のトランクから、一脚の望遠鏡を取り出した。
それほど大きいものではない。
今日の日のために用意した安っぽい望遠鏡で、スマホを覗き口にセットすることができて、写真が簡単に撮れるという代物だった。由子が写真でいい、と言ったのはこれがあったからだろう。
僕は肩に望遠鏡を担ぎ、ランタンを持ってキャンプ場から徒歩で行ける森中の展望台へと向かった。
その場唯一の光源だったランタンを僕が持っていってしまうために、由子の眠るテントは僕が遠ざかるごとに闇の中に溶け込んでいく。展望台に向かう坂道に差し掛かるころになると、ワンボックスの自動車よりも大きかったはずのテントは完全に夜の帳に隠れて、影も形も見えなくなっていた。
◇
展望台には人がたくさんいるかと思ったが、そんなことはなかった。むしろ僕のような天文にミーハーな人間の方が少ないらしい。火星の大接近はニュースにもなったはずだが、わざわざ星の見える避暑地にキャンプをしてまで見てやろうという酔狂を起こした人は、僕の他にカップルが一組と、小学生ほどの子どもを連れた核家族が一組だけだった。
いや、と僕は展望台を見回して、妙に悪目立ちをする一人の少女を見つけた。
少女と言うにはいささか背の高く、しかしその着ている純白のワンピースは、在りし日の少女の幻影とでもいうべき純真を想起させてやまなかった。
展望台に設えられた二脚の双眼鏡をそれぞれカップルと核家族が占有しているために、少女は一人、首を傾け肉眼で満天の星空を見つめている。その手に双眼鏡も握られてはいなかった。
「星空は綺麗かい?」
僕が少女に話しかけたのは、そんな彼女の姿が妙に儚げだったからだ。純白のワンピースは谷から吹きあがるそよ風によってわずかに膨らみ、うなじの辺りで縛った二つのおさげは、僕の声に驚き振り向く少女の体の動きに遅れて動いた。
目を見開いた少女の真ん丸の瞳は、今まで見ていた満天の星空をその瞳の中に収めてしまったかのように美しかった。声も上げずに驚いていた少女は、しかし落ち着きを取り戻して、無表情に僕に向かって頷いてみせた。
「これ、一緒に見ないかい?」
肩を動かして、担いでいる物に目を向けさせる。それが望遠鏡だと分かると、少女は一瞬表情を輝かせて、それからまた無表情になって、一回縦に首を振った。
面白い子だ、と僕は思った。
膝をついて望遠鏡を組み上げる僕を、中腰になってまじまじと見つめる少女は、中学生か高校生に見えた。腰帯でハイウェストを演出するワンピースで、上半身はプリーツによってスラックに陰影がつけられている。腰帯から下もプリーツによって布地をふんだんに使ったもので、一枚布のワンピースに比べて間違いなく高価だ。
深窓のご令嬢、そのお手本のような格好をしているにもかかわらず、彼女を気にかけるあらゆる人間が存在していなかった。僕が声をかけたところで、黒服の強面が肩に手をかけることもなかったし、タンクトップの金髪がいきなり殴りかかってくることもなかった。
「珍しい?」
組み立ての手を止めて、少女の方を向く。僕が目を合わせると、少女はあわててそっぽを向き、それでも興味が尽きないのか、こちらをちらちらと伺っては、そっぽを向きながら首肯する。
「まあ、見ていてごらんよ」
組み立て自体は難しいものではない。キャンプに出掛ける前に何度かパーツのチェックと組み立てのリハーサルを行っていたので、ランタンのわずかな灯りでも余裕で組み立てられる。それをわざとゆっくりと組み立てると、少女は組み上がっていく望遠鏡の周りをクルクルと回っていた。顔を近づけたり、立ち上がって離れてみたりして、魔法か手品を見ているかのように口を半開きにさせながら見ているのだった。
三脚を伸ばして地面に置くと、多少、風にあおられて不安定ながらも、それさえ気をつければ備え付けの双眼鏡に負けないくらいには立派な望遠鏡が組み上がった。
「こっちだよ。望遠鏡の見方は分かるかい?」
周囲を回っていた少女を手招きして、接眼レンズを指さす。それを真似して同じように接眼レンズを指さすので、僕は彼女が望遠鏡を覗いたことがないのだろうと察した。
「顕微鏡と同じように、接眼レンズに片目をつぶって見るんだ」
実際にやってみせる。ついでに、ただ星空を見るだけでは何を見させられているのか分からないだろうと思って、月に照準を合わせ、太陽の光を反射させる月表面のクレーターや稜線のくっきりとした部分を映し出した。
「さあ、見てごらん」
僕の動作を見てようやく使い方を理解したのだろう、少女はわずかに腰をかがめて、接眼レンズを覗き込んだ。
少女の片目の眼前には、輝く月の表面が映っているはずだ。どんな表情をするだろうと僕が少しうきうきしていると、少女は接眼レンズに目をくっつけたまま、一向に浮かび上がってこない。かがめた腰をそのままに、彫像のように固まってしまった。
僕らの向こう、展望台の中心の方で、子どもが嬉しそうな声を上げている。どうやら火星がはっきりと見えだしてきているようだ。
望遠鏡をのぞき続ける少女の表情は全く分からない。驚いているのか、戸惑っているのか、喜んでいるのか。しかし、僕も火星の大接近という数年に一度のイベントのためにここまでやってきたのだ。長々と少女に専有されるわけにもいかない。
「そろそろ、返してもらっても良いかな?」
腰をかがめて接眼レンズを覗き続ける少女の肩に手をかけると、虫を払うように払い除けられた。意外に欲深なのかも知れない。
今度は両手で少女の両肩を掴み、やや乱暴に望遠鏡から剥がそうと試みた。抵抗はあったものの、体つき相応の筋力のために少女の頭はあっという間に望遠鏡から遠ざかる。
姿勢による抵抗をやめた少女は、その代わりにとばかりに奇行に走った。
肩を掴む僕の手の片方に、少女が文字通り牙を剥いたのだ。小指の腹を少女の薄い歯でガブリと噛みつく。
犬歯が肉に食い込んで甘い痛みが脳を刺激し始めると、僕の脳裡に突然、かつて子どものころに噛まれた蛇の記憶が駆け巡った。
木の棒のような蛇は、僕の伸ばした手に驚いていた。威嚇をし、警告をし、それでもなお手を伸ばすのをやめない僕に向かって、強硬手段に訴えずにはいられなかった蛇。
少女の口内の温かさが手のひらに食い込む歯の激痛に負け始めて、僕はようやく少女の肩から手を離し、わずかに痛みを訴えた。
「何をするのさ」
少女は恨めしそうに僕を見る。何をするとはこちらのセリフだ、と言わんばかりに。
そのぷっくりとした花びらのような唇の端に、赤い滴りが果実のように溜まっていた。
鮮血だ。
少女は僕の手から吸い取った鮮血を薬指で拭き取り、その色を確認するとニヤリと笑った。僕はハッとして、噛まれた自分の手のひらを確認する。半月状についた歯型の中に一際大きな穴が開いていた。少女の犬歯に違いない。歯型はどれも血が滲んでいたが、特に犬歯のあった場所からにじみ出る血は、ぷっくりとして、少女の薬指で拭き取った鮮血の果実のようだ。
ランタンのガスを燃焼させる音が聞こえる。僕の心音もにわかに強く鳴り始めて、呼吸が荒くなっていくのが分かる。
「何をするのさ、痛いじゃないか」
痛みを訴えると、徐々に怒りが湧きあがってきた。心臓の送り出す血液が、熱く煮えくり返っているような気がする。声を荒げないのは、ギリギリの理性が周囲に他の人がいることを理解しているからだ。
少女は不敵に笑っていた。
それから望遠鏡と少女自身を交互に指さす。どうやら、その望遠鏡が痛く気に入ったようで、自分のものにしたいらしい。
確かに望遠鏡は安物だが、こちらとしても今すぐにという訳にはいかない。何せ火星を観察するという目標がある。せめてもそれだけは成しえたい。
「後であげるよ」
少女は首を横にふった。
相当に強欲だ。今すぐに望遠鏡が欲しいのだと主張する。頬を膨らませて、その場から望遠鏡を盗んでいってしまいそうな雰囲気さえあった。何が少女を頑なに、そこまで僕から望遠鏡を奪おうとするのか、分からなかった。
「せめて、火星を写真に収めさせてくれよ」
少女は首を横にふった。
もう僕は彼女を無視してどこか別の場所へ行けばいいのに、そういう気持ちは一切起こらず、ただこの場所をどうやれば穏便に済ますことができるかということを考えていた。
頬を膨らませて、色々と考えを巡らせていた少女は、名案が浮かんだとばかりにハッとし、それから純白のワンピースに手をかけた。
「ううう……」
「何をしているんだい?」
痛みを感じているような唸り声を上げる少女を前に、僕は動揺を隠せなかった。少女は純白のワンピースをゆっくりと脱ぎ始めたのだ。
「おい、やめなさい」
少女はやめなかった。身体に貼りついたゴム手袋を無理やり剥がすように、顔を苦痛に歪めてワンピースを脱いでいく。ただの衣服のはずなのに、何を痛がっているのだろうか。
少女の脱衣はもはや「脱ぐ」というよりも「剥がす」と言った方が正しいような気さえした。そして僕が驚いたことに、少女が純白のワンピースを剥がしたその下には、同じように純白のワンピースが着こまれていたのである。
「嘘だろ……」
始めは少女を止めようとした僕も、とうとう少女の成すがままに任せることにした。いや、単純に見入っていたのかも知れない。ワンピースを剥がした下からワンピースが出てくるなど、ありえない。
しかし、目の前の少女はそれをやってのけた。苦痛に顔を歪めながら、古いワンピースを脱ぎ捨てて、新しい純白のワンピースに着替えてしまったのだ。
少女が、ほんの少しだけ大人になったような気がした。
「いや、それがどうした……っておい」
わずかに成長し、艶やかさに磨きがかかった少女は、僕へと不敵に近寄ると、その純白のワンピースを歯型の残る手の中に握らせた。
まだわずかに少女の温もりを感じるワンピースは、どこにでもある材質で織られた布にしか見えない。少女が苦痛に歪みながら剥がしたものとは思えぬ、普通の衣服だ。
渡されたワンピースを矯めつ眇めつしているうちに、少女は僕が設置した望遠鏡を小脇に抱えて、いつの間にかその場から消えてしまった。
「あっ……」
気づいたときには少女の姿はどこにもなく、遠くで火星を観察しているカップルも、家族連れも、こちらのことを全く気にかける素振りはない。
僕は一度、自分の頬をピシャリと叩き、それから家族連れの方に話しかけた。
「すいません、さっきまで僕と一緒にいた少女を知りませんか?」
「は?いや、知らないけれど……。というか、あなたいつからいました?」
カップルに尋ねても同様である。
「それより、その手に持っているものは……」
「あれ?ええと……」
ハハハと苦笑いをして会話を終わらせ、僕は裸のスマホで月と火星が共に納まるように夜空に向かって構えると、写真を撮った。
「おじさん、双眼鏡貸してあげようか?」
火星の姿に感動した少年が、同じ感動を共有せんと僕に備え付けの双眼鏡を譲ろうとしてくれる。
「いや、良いんだ。ありがとう、君は優しいね、ステキな大人になるよ」
少年はきょとんとして、それから満面の笑顔になって僕を見送った。
僕の手の中には、真っ白な蛇の抜け殻が一つ、握られていたのだった。
脱皮 雷藤和太郎 @lay_do69
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