ザ・ファーストグッドバイ
いりやはるか
ザ・ファーストグッドバイ
やかましく喚き立てるベッドサイドの目覚まし時計を手探りで黙らせると、俺は鉛を詰め込んだように重い頭を無理矢理枕から引き剥がした。
カーテンの隙間からはサーチライトのような光が差し込んで、底意地の悪い警官の職務質問みたいに俺の顔を睨め付けている。
やれやれ、と俺は肩をすくめてまた朝がやってきたことを理解した。こいつだけは夜更けに何遍二度と来るなと言い聞かせたって次の日には性懲りもなく顔を出す。
キッチンに行くと同居人の女がホットミルクを用意していた。
朝はホットミルクとカリカリに焼いたベーコン、それととびきりフレッシュなグレープフルーツに限る。
俺は女にベーコンは三枚、フライパンじゃなくてアルミホイルに並べてオーブントースターでね、と言ったが女は鼻を鳴らすと自分でやりな、と言い残してさっさと部屋を出て行った。全く愛想の無い中年女だ。俺だって一人で朝のひとときを過ごしたいのはやまやまだ。好きでシェアハウスしているわけではない。
仕方なく俺はホットミルクとシリアルで味気ない朝食を済ませると、電球が切れた時の明り取り程度にしか役に立たない、騒がしいだけで図体ばかり巨大なテレビを消し、出かける支度をする為に自分の部屋へ戻った。
デスクの上では昨夜書きかけだった調査報告書が余白だらけの無残な姿で俺の帰りを待っていた。
依頼人への調査報告は今日の九時。移動時間も考えると、あと三十分程度で仕上げなければならない計算だ。一体、時間はどこに姿を消してしまったのだろう?確かに俺は昨夜、報告書を仕上げるためにペンを握っていたはずだ。さっさと片付けて衛星放送のフットボールを観戦するつもりだった。ところが気がつくと夢の中でイングリッド・バーグマンに似た女とワルツを踊っていたというわけだ。
思えば、この調査の依頼人の顔にも少しだけ似ていた。朝から溜息をつくのは好みではないが、俺はこの数十分間で既にアメリカ合衆国の州の数よりも多い溜息をついている。俺に最も向いている職業は、交通量観測員なのかも知れない。ペンを手に取り昨夜の続きを目を瞑って済ませた俺は、相棒とも言える年季の入った黒い皮鞄ーケネディが撃たれた日から使っていると言っても誰もそれを疑わないだろうーにそれらを全部突っ込んで部屋を飛び出した。
落ち合う場所に指定された依頼人の職場には既に大勢の人間が集まり、始業のベルが鳴る前までのわずかな時間を思い思いに過ごしているようだった。
俺は鞄から報告書を取り出すと、紙の端にさりげなく書き足したメッセージを読み返した。
依頼人との最初の出会いは今年の春。まだ少女のあどけなさが残る彼女は、私のもとにやってくるなり「期待してるわ」と最初の調査を依頼してきた。以来、定期的に彼女から依頼を受けるうち、少しずつ会話も増え、それと比例するように彼女の俺に対する親しみは深まって行った。もちろん俺にとって依頼人は依頼人だ。それ以上でも以下でもない。一セント硬貨は放り投げてひっくり返しても一セント硬貨のままであるように。だが時にーごく稀にだがー一セント硬貨が百ドル紙幣に変わることもある。
午前九時。
ベルが鳴るのと同時に時間きっちりで姿を表した彼女はこちらへ向き直ると、よく通る声で言った。
「おはようございます。今日は先月の始めにみなさんに出した宿題の提出日です。おうちの身の回りで出来るエコ、どんなものがありましたか?あとで発表してもらうので、先生楽しみにしています」
依頼人は教壇の上でそういうと、少し口ごもってから決意したように言葉をつないだ。
「みんなには今日大事なことをお話しします」
彼女はそういうと頬を上気させて続けた。
「先生、結婚することになりました」
教室が一気にざわめく。
「せんせい、およめさんになるのー?」というちょっと利口な犬のような同級生の声を聞きながら、俺は窓の外に広がる空を見上げると、また一つ溜息をついた。
タフで無ければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。
マーロウの言葉を借りるまでもなく、俺はその日大事なことを学んだ。大人でなければ女には相手にされない、そして、タフでなければ小学生はやってられない。
俺は身の回りの身近なエコについて風呂の水を洗濯物に使うことについてまとめた
それは小学二年生の俺が、最初に経験した失恋で、最初に味わう愛した女との別れだった。
ザ・ファーストグッドバイ いりやはるか @iriharu86
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