番外編:ヒューの迷いごと
「甘い生活なんか期待するなよ」
「もちろん覚悟してるよ」
いっせいに拍手喝采で、婚約者たちを祝福した。エリオットも負けじと手を叩く。
クリスは今まで見たことのない明るい笑顔になる。ヒューは赤面したまま、そのあとは無言で固まった。
***
鉄道駅へ向かう道すがら、背後からクリスに話しかけられる。
「ねえ、少しはしゃべってよ」
ウイロデイル屋敷を出発したのはいいが、その後の予定は決めていなかった。
――ああ、これでよかったのか?
「そんなに早く歩かなくても、列車はまだ来ないって」
「……」
「ねえったら、ヒュー?」
「……」
「聞いてんの?」
クリスに上着の裾をぎゅっとつかまれる。びりり、と縫い目が破れかけた音がした。
「おい、俺の大事な一張羅だぞ」
「やっとしゃべった。怖い顔……」
「当たり前だ。エリオットさんらの熱気に押されて、つい、ああ言っちまったが、本当に、おまえは、その、えっと、ああっと…………」
顔がかっと熱くなり、言葉につまる。
眉ひとつ動かさず、クリスは答えた。
「一度決めたら、突き進むのがあたしの信条。従僕の真似ごとをして、髪を切ったときもぜんぜん後悔しなかったよ」
ヒューは目の前にいる女が、ただの娘でないことを思い出す。三年、同僚としてすごしたあいだ、何度も破天荒な姿を見てきた。
「それでもだな。俺はおまえの父親と変わらない歳だぞ。いつまで働けるかもわからない。子供だってできるのか――」
と、ここまで口にして、頭に血が上る。
――ああ、まさか、この俺が再婚するなんてよ。気ままを信条に生きているこの、俺、が?
がらがらと車輪が近づく音がした。歩いてきた道から一台の荷馬車がやってくる。ヒューとクリスを見るなり、中年男が陽気に声をかけてきた。屋敷へ収穫物を届ける顔見知りの農夫だった。
「よお、ヒューじゃないか。駅まで行くんなら、送ってやるぞ。ちょうど村の雑貨屋へ納品した帰りなんだ」
自分たちの話を聞かれたくないヒューは、断ろうとしたのだが、クリスがその前に快諾する。
「ありがとう!」
空の荷台にクリスが乗る。仕方なくヒューも続き、向かい合って座ると荷馬車が動き出した。
「仕事を探すんだから、ロンドンに行くの?」
「まあな。大都会だからなにかしら働き口がある。ただ家賃は高いけどな」
「あたし、行ったことないから楽しみ」
「空気も悪いぞ。冬は昼間でも夜みたいに暗い」
「石炭の煙でしょ? それぐらい知ってるよ」
「あと、飯だってまずい。使用人のまかないは犬の餌レベル以下――と、エリオットさんが言っていた」
これは嘘だ。
「あたしの実家は貧しい農家だから、平気」
「それと……」
めげないクリスにヒューは困惑する。
「ロンドンもいいけどさ、そんなに住みにくいんだったら、ヨークに行ってみない? あたしの実家、ヨークに近いんだ。父さんの親戚が仕事を紹介してくれるかもしれないよ」
「え?」
ロンドンは悪徳が栄える恐ろしい都だと脅し、クリスに考え直すよう説くつもりが、話が意外な方向へ進んだ。
「ロンドンほどじゃないけど、ヨークも都会だよ。近いからエリオットさんのところへも、週末に遊びに行けるしね」
「そ、そうだな……」
断る理由を思いつかず、うなずく。
「あと、家族にヒューを紹介しないと。あたしの夫ですって」
「まだ結婚したわけじゃ」
「村の牧師さんにたのめば、すぐに挙式してくれるはず。あたし、ウェディングドレスは着なくても平気よ」
「えっと……」
笑顔のクリスを見ていると、これでよかったのかもしれない――が、決心するにはまだ早いような気がしてならない。
あらためて背筋を伸ばし、ヒューは彼女に問う。
「まだ時間はある。本当に俺と結婚していいのか、冷静に考え直したほうがいい。俺は若くないし、女房を泣かせて離婚したバカな男。おまえに苦労をかけたくないんだ」
「それで?」
「それでって、軽く考えるな。おまえの人生がかかってるんだぞ」
「そういえば、前の奥さん、どうして泣いたの?」
「給金を全部ギャンブルに使っちまったのさ。三度目に、書き置きを残して実家に帰っちまった。二十年前の話だ」
「だったらあたしが家計を管理するから。心配しないで。これでも貯金だってけっこうあるんだ。従僕のときの給金、よかったからね。帳簿付けも習ったし、やりくりには自信あるよ」
「そうか…………」
何を忠告しても、前向きなクリスの笑顔はまぶしい。
しかし踏ん切りがつかないヒューは、ある作戦を思いつく。
――さすがにクリスの親父は、賛成しないよな。自分と同じ歳の男のところへ、かわいい娘を嫁がせるんだし。
クリスの実家は、ヨークから乗り合い馬車で三十分ばかり離れた村にあった。とくに変哲のない牧歌的な農村で、どこまでも広がる小麦畑の青さが清々しい。
馬車から降りて十五分ほど歩いたら、丘の上の集落のある小さな一軒家に到着する。クリスは玄関に入らず、トランクを持ったまま裏庭へ入った。
「ただいま、母さん」
畑で作物を収穫している中年の農婦が振り返る。クリスに似たそばかす顔だ。
「おかえり。また奉公先をクビになったんだろ」
胡散臭そうな視線で、母親がじっとヒューを見た。
「で、そこにいるのは、お屋敷の執事の子分かい? 今度こそもどってこないように、あたしらに釘を刺すとか」
どうやら母親は、娘が解雇されたと思っているらしい。たしか従僕に扮装したことで、二度、屋敷を追い出されたと、クリスが言っていたような。
「うん。もどるつもりはないの、母さん」
「やっぱりね。女らしくしないとリックに嫌われるよ。とっとと結婚して、あたしを安心させな」
「結婚するのはリックじゃなくて、ヒュー――あ、紹介しようと思って、連れてきたんだ」
「は?」
母親は目を丸くした。無理もない。青年でなく自分と同年代の男なのだから。
――いやーな、空気だな……。
自分でも引きつったとわかる笑顔を作りながら、山高帽を外してあいさつをする。
「ど、どうも、お母さん……。いやあ、正直、俺もクリスさんと結婚することになるなんて、想像すらしておりませんでした。まあ、これもご縁ということで……」
明らかに相手の目が警戒している。
「職業は?」
「これから探すところです」
「無職? どうやって生活するつもり? クリス、あんたまた妙なこと考えているんじゃないでしょうね? この前なんて、髪を切って従僕をしているって言ったとき、父さんの心臓が止まりかけたんだから」
「あたしたち恋愛結婚するの。だから心配しないで」
「あ、あんたが恋愛? しかもこの中年と? やっぱり頭がおかしいんだ。父さん、父さん――!」
母親はそう叫びながら、家へ入っていった。
――うわあ。こりゃ修羅場になりそうだ……。
「さ、あたしらも入ろうよ。お茶をいれるから」
「俺、遠慮したいんだが…………」
「なんで?」
「なんでって言われても、どう見ても歓迎されてないだろうが」
「いつものことだから、気にしないでよ。あたしの母さん、心配性なの」
「そういう問題じゃないような……」
気が進まないまま、ヒューは家の玄関から小さな居間へ入った。そこでは安楽椅子に腰掛けてパイプをふかす男がいる。
「父さん、ヒューを紹介するよ。あたしの夫になる人」
気まずい雰囲気のなか、あいさつをする。
「こんにちは。クリスさんと同じ屋敷で奉公をしておりました。これからは、都会でいっしょに暮らそう、という話になって、その、えっと。だったら夫婦になりゃ、いいんじゃないかって上司とかが、その……」
顔色ひとつ変えないまま、父親は答える。
「あなたは何歳?」
「四十七です」
本当は四十八だったが、ひとつでも若く見せたかった。
「そうか。働くあてはあるのか?」
「これから探すつもりです、はい……」
正真正銘の無職だから、言いわけはしなかった。
「なんということだ。愛想はないが、しっかりものだと信じていたクリスが、俺より年上の男と所帯を持つとはな。しかも働いてないときた。よくもその根性で、結婚の報告に来ようとしたな、ええ?」
語尾が上がり調子になった父親の眉が釣り上がる。
怖い。
これはかなり立腹している。
「父さん、大丈夫。あたしが働くから。今度は社長秘書になるんだ。紹介状を書いてくれるって、男爵家の大奥さまが約束してくださったんだよ。その前にタイプライターを習わないといけないけど」
「じゃあ、その男を養うつもりか。世間では、ヒモっていうんだぞ。目を覚ませ、クリス!」
「あたし、ぱっちり目を開けてるけど」
「そういう意味でなくてな」
ここで父親は額に手をあて、嘆く。
「ああ、大切な娘をやらなくてはならないのか。この不埒な男に。なんのために俺は、かわいい娘を育てたというのだ!」
ヒューが読んだとおり、父親にしてみれば、歓迎されない婿予定の男だった。
――よし。今だ。
ぐっと拳を握りしめ、つらそうな表情を作って、ヒューは言った。
「そうですよね、お父さん。まだ若い娘さんのためを思って、俺は身を引いたほうがよろしいかもしれません。というわけだ、すまない、クリス」
「ちょ、ちょっと! ここまで来てあたしを捨てるつもり?」
「やっぱり俺は歳をとりすぎている。リックとは言わないが、おまえにふさわしい男がいるはずだ」
「そんなのいない。あたし、だれも好きにならない。ヒュー以外は」
「だから、俺を好きになっても、いつまで元気かわからんだろうが。おまえが働くといっても、世間は女に厳しい。子供ができたら仕事どころじゃないだろ」
「そんなの承知している。何度言ったらわかるんだよ、バカ野郎!」
トランクをヒューに投げつけ、クリスは居間を出ていった。どすどすと天井から足音が響く。屋根裏部屋へ入ったようだ。
そこへ、紅茶を三人分用意した母親が、居間へ入ってきた。
「クリスは?」
「母さん、驚け。どうやら今度は本気らしい」
「まさか」
「そのまさか、だ。あのリックがあいさつに来たとき、クリスは喜んでなかったろう」
「ええ? いつも冷めてるあの娘が? 奉公先をクビになったから、てっきり今回も妥協して――あ、ごめんなさいね。おほほ……」
「すまないなあ、ヒューさん。あはは……」
クリスの両親はようやく笑みを見せてくれる。
話ぶりから察するに、リックとの結婚は賛成していなかったようだ。
茶をすすめられたヒューは、ソファに座って父親の話を聞いた。
「三年――いや、四年前だったかな。クリスがリックを連れて来たことがある。これから戦争に行くから、その前に結婚させてくれって。初めは歓迎したんだけどな、どう見てもクリスが喜んでなかったから、俺は言ってやったんだ。『戦争から無事帰ってきたら、嫁にやってもいい』と。で、言っちゃあなんだが、運が良いのか悪いのかリックは戦死しなかった。だから俺は結婚を悩む娘に返事を書いてやったんだ。『約束は約束だ。筋は通せ』とな」
苦笑しながら、母親が言った。
「あの娘、小さいときから変わり者でさ。結婚に夢見ないし、いつも冷めた考えをしているし、あんまりにも堅物だから、あたしは心配していた。たとえ夫が好きでなくても、一応、主婦になってくれれば安心ってぐらいに。――けど、そのクリスがリックを振って、まさかあなたを連れてくるなんてさあ。ロマンス小説みたいじゃないか」
「俺、無職の中年なんですが……」
父親に肩を叩かれる。
「あのクリスがあなたを選んだ。みずから。それだけで充分だよ」
「は、はあ。それはどうも……」
「だから、お願いだ。クリスと結婚してくれ。将来、何があっても俺たちは何も言わん。あの娘なりに覚悟はしている」
「あたしからもお願いします、ヒューさん。あの娘の幸せを叶えてやって欲しいの。ふつうの主婦にしてください、なんて言わないから」
両親ふたりに懇願されると、断る勇気が出てこない。
計算外もいいところだ。世間一般では、若い娘が金も仕事もない初老の男と結婚するなど、猛反対すると決まっている。だが、クリスという女は、そんな世間体すら意味を持たない存在だった。
――まあ、そういうところが俺は好きなんだが。
ヒューにとってクリスは恋人というより、かわいくてたのもしい後輩だ。そもそも若い時分の結婚だって、見合いだった。エリオット夫妻みたいに、身分違いの燃えるような恋ではない。
なんとなく成り行きで生きてきたし、これからも変わらないだろう。地に足がついた堅実な生き方は性に合っていない。そう、離婚したしばらくあとに気がついた。
だからこそ、本当にこんな自分と結婚していいのか、とヒューは何度かクリスに問いかけた。
そのつもりだったが。
「世間一般の幸せは難しいかもしれませんが、あいつのしたいことを夫として見守るつもりです。しない後悔より、する後悔っていうじゃないですか」
と、後ろ向きすぎる発言を慌てて訂正する。
「あ、あくまでも例え話で、もちろん、俺は後悔してません」
父親は肩をすくめる。
「あなたも冷めているから、クリスの夫に向いてるな」
うなずく母親。
「そうだね。そういう性格がよかったんだろう。さて、今夜はごちそうしないとね。わが家に家族がひとり増えるんだ」
「よし。俺はアヒルを買ってさばいてくる。あとは任せたぞ、母さん」
ここでふたりは居間から消えた。残されたヒューはどっと疲れが出た。
――ま、これも成り行きってことだな。
***
三日後、村の教会でヒューとクリスは挙式した。
グレーの地味なワンピース姿のクリスは花嫁らしくなかったが、飾り気のない姿が彼女に似合っている。白いベールと赤いブーケは、急遽、母親がこしらえたものだった。
――あのクリスが、リック以外の男と結婚する。
そんな話が一気に広まり、クリスの家族だけが参列するはずの式は、にぎやかだった。好奇心いっぱいの村人たちが、ヒューを見ては盛大に冷やかす。
「嘘だろ。リックじゃなくて、あのおっさんが?」
「意外だねえ。ずいぶんな年上が好きだったんだね」
「ええー、リックからクリスを略奪したっていうから、すっごい男前を期待したのに」
「夫婦っていうより、親子じゃねえか」
「それを言っちゃあいけねえぜ!」
教会にどっと笑いが起こり、見かねた牧師が注意するほどだった。
そんな賑やかしい――いや、まるで見世物みたいな結婚式だったが、クリスはまったく意に介していない。
ヨークへ向かう乗り合い馬車のなか、ヒューはため息をつかずにいられない。
「あー、やっと終わったぜ。まったく、サーカスの玉乗りみたいだったな」
「じゃあ、あたしはブランコ乗りだ。面白かった」
そして笑顔になる。
これからふたりは、クリスの叔父が経営する宿屋で世話になる。まず、そこでしばらく夫婦で働きながら、クリスは午後、秘書の学校へ通う予定だった。
「いいか、クリス。でっかい会社の秘書目指せよ。そして、どかん、と大きな仕事をしようぜ。俺は期待してるんだからな」
「大きな仕事って?」
「そりゃ、なんかあるだろ。大きい会社なら」
「……すごい適当だね」
「おうよ。適当に生きても、世の中なんとかなるってもんだ。俺がそうだ」
「なるほど。言えてる」
そしてまた彼女――いや、妻は笑った。
おわり
執事エリオットと小さな領主 早瀬千夏 @rose
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